デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』 | 文学どうでしょう

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小説の技巧/デイヴィッド ロッジ

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デイヴィッド・ロッジ(柴田元幸、斎藤兆史訳)『小説の技巧』(白水社)を読みました。

デイヴィッド・ロッジは学者でもあり、小説家でもある人です。小説では、『ベイツ教授の受難』(白水社)というのを読んだことがあります。

日本ではあまり知られていませんが、イギリスには「コミック・ノヴェル」というジャンルがあるらしいです。この『小説の技巧』の中でもキーワードとして出ていました。その「コミック・ノヴェル」という響きに惹かれて『ベイツ教授の受難』を読んだら、それほど面白くもなんともなかった、つまり笑えなかったということですが、もしかしたら日本語のニュアンスとジャンルの内容が違うのか、それかユーモアの感覚が違うからかもしれません。

「コミック・ノヴェル」に関しては要研究ですね。詳しい方がいたらコメントよろしくです。

『小説の技巧』は、廣野由美子『批評理論入門』のタネ本的な位置付けにあって、それで興味を持って読んでみたんですが、途中で以前読んだことがあったのを思い出しました。完全に忘れてました。やれやれです。

なにも身についていなかったということは、ぼくがいかに文学理論的なことに興味がないかということを表すエピソードだと思います。まあ単に記憶力がないということかもしれませんが(笑)。

『小説の技巧』はすごくいい本です。元々は新聞の連載ということで、一般の読者向けに、小説の技法や文学理論について簡単に解説してくれているんです。キーワードごとの分量もそれほど多くないので読みやすいですし、毎回色々な作品の抜粋が載っているので、理解がしやすいです。

本当は抜粋されている英米文学の知識があった方がより楽しめると思いますが、巻末に参考文献として抜粋してある作品の書誌情報が載ってますので、ここをスタートにして、興味を持った小説を読んでみるのもあるいはありだと思います。

取り上げられているキーワードとしては、「意識の流れ」「内的独白」「異化」「マジック・リアリズム」「信用できない語り手」「シュルレアリスム」など文学的に重要と思われるものもあれば、「書き出し」「驚き」「天気」「電話」「異国性」「電話」「題名」など、文学的というよりは、なんというかもうちょっとラフな感じで書かれているものもあって読みやすいです。

とても全部は紹介しきれませんが、おっと思ったことに関して簡単に触れます。

まずは「意識の流れ The Stream of Consciousness」と「内的独白 Interior Monologue」から。この2つはよく混同されて使われることがあって、それだけ技法としては似ているんですが、簡単に言えば、心理を地の文(会話文以外ととらえてください)に溶け込ませるような感じです。

小学校の頃、たぶん作文なんかで思ったことをカッコに入れなさいと習ったと思うんですよ。こんな感じで。

 ぼくは本屋さんに行って、シャーロック・ホームズの本を見つけました。
(すごく面白そうだなあ)
 とぼくは思いました。
(でもとても高そうだなあ)
 と思ったので、誕生日にパパに頼んで買ってもらおうと思いました。(『ショータ・タチミヤと近所の書肆』7ページ)


まあちょっといい例文かどうか分かりませんが(笑)。ともかくそんな感じですが、このカッコを取ってしまって、しかも「思いました」というのも取ってしまう。そして発想の展開はもっと複雑になっていきます。一つのことを考えると、また次のことを考えるわけで。

 ぼくは本屋さんに行って、シャーロック・ホームズの本を見つけました。すごく面白そうだなあ。あれ、そういえばシャーロック・ホームズってどこまで読んだんだっけ、たしか『四つの署名』までだと思ったけど、違ったかもしれないなあ。1500円はちょっと高いなあ。そうだ誕生日に買ってもらおう。ぼくの誕生日は10月だから、少し待てば誕生日だなあ。あっ誕生日といえば、田中くんの誕生日がもうすぐだな。誕生日プレゼントには何を持って行こう。いやちょっと待てよ。田中くんの誕生日パーティーに呼ばれるかどうかはまだ分からないし、呼ばれたとしても、その日プールに行く日だったら断らないといけないし、日曜日だったら、家族で出かける日かもしれない。ともかく田中くんの誕生日の日をもう一度確認してみなくっちゃ。(『ショータ・タチミヤと近所の書肆』36ページ)


とまあ多分こんな感じです。登場人物の思考が分かる反面、冗長になりすぎるきらいもあります。

「意識の流れ The Stream of Consciousness」はほとんど2人の作家によって代表されていて、普遍性を持つ技巧ではないような気もします。2人の作家とはいうまでもなく、ジェイムズ・ジョイス(『ユリシーズ』など)とヴァージニア・ウルフ(『ダロウェイ夫人』など)です。

デイヴィッド・ロッジはジェイムズ・ジョイスの方を一段上に評価していました。両方とも一応翻訳があるので、ぼくも読んでいますが、『ダロウェイ夫人』の方はまだともかく、『ユリシーズ』は翻訳として読むのはかなり厳しいです。それだけ多種多様な技巧が凝らされていて、日本語への変換はかなりハードルが高いものなんです。注が膨大についていて読みづらいですが、興味のある方はどうぞ。集英社ヘリテージシリーズから4冊で出ています。

「内的独白 Interior Monologue」についても例文としてはジェイムズ・ジョイスが引かれていましたが、おそらくフォークナーで考えた方がよいと思います。フォークナーもぼくにとってはかなり難解な作家ですが、技法としてはかなり突出しているような気がします。

「意識の流れ The Stream of Consciousness」と「内的独白 Interior Monologue」の違いですが、この本では「意識の流れ The Stream of Consciousness」が3人称での技法であるのに対し、「内的独白 Interior Monologue」は1人称の技法だというように分けられていました。

あとは「マジック・リアリズム Magic Realism」と「シュルレアリスム Surrealism」についてだけ触れます。

「マジック・リアリズム Magic Realism」ですが、例文としてミラン・クンデラが引かれていましたが、そこに多少疑問はあって、やはりラテン・アメリカ文学を抜きに「マジック・リアリズム Magic Realism」の技法は語れないように思うんです。

「マジック・リアリズム Magic Realism」とはつまり、現実には起こりそうもないこと、たとえばガルシア=マルケスの『百年の孤独』では少女が空に飛んでいっちゃったり、死人が幽霊のような存在になって歩き回ったりするなどがありますが、単に不思議なことが描かれているわけではなく、ある種の神話性が重要になってきます。

ラテン・アメリカ文学の中でもガルシア=マルケスを突出した存在だとぼくは考えていますが、ガルシア=マルケスの小説を読んで、その技法を「マジック・リアリズム Magic Realism」と認識したとすると、他の作家の作品に「マジック・リアリズム Magic Realism」が使われているということにためらいを感じてしまいます。それだけガルシア=マルケス独特の技法が確立されていると思うのです。

「マジック・リアリズム Magic Realism」はわりと広義に使われてしまっていますが、個人的にはもう少し狭義に使うべきだという気がしないでもないです。

最後に「シュルレアリスム Surrealism」についてですが、ある種のシュールさというのは確かに面白くて、ぼくもいわゆる幻想文学が好きなんですが、アンドレ・ブルトンまでさかのぼると、もはや作者が意識してシュールな世界を書いたら、それは最早「シュルレアリスム Surrealism」ではないというような感じなんですね。そうすると最早物語としての面白さというのはなくて、はちゃめちゃな断片的な文章の連なりにすぎなくなってしまう。

現在でも「シュルレアリスム Surrealism」の要素は残っていると思いますが、おそらく小説としてのバランスがうまく保たれているものが多いはずです。

「シュルレアリスム Surrealism」では、無意識が重要視されて、夢で見たことや、自動筆記などに価値を見出していたらしいです。ちなみに「シュルレアリスム Surrealism」作品の例としては、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が引かれていました。

他にもいくつか触れたい項目はあったのですが、いずれまたどこかで検討できる機会もあると思うのでこの辺りで終わります。

T.イーグルトンの『文学とは何か』とその訳者の大橋洋一が書いた『新文学入門』が読み終わっているので、土日にでもそれについて書きますね。