テリー・イーグルトン『新版 文学とは何か』 | 文学どうでしょう

文学どうでしょう

立宮翔太の読書ブログです。
日々読んだ本を紹介しています。

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待/テリー イーグルトン

¥4,200
Amazon.co.jp

テリー・イーグルトン『新版 文学とは何か 現代批評理論への招待』(岩波書店)を読みました。

このブログでは何回かタイトルだけ取り上げてきました。なかなか記事が書く時間がなくて、書く書く詐欺みたいになっててどうもすみません。お待たせしました。といってもあんまりうまく紹介はできないだろうと思いますけども。

今月は〈ロシア文学月間〉なので、ロシアの理論家バフチンを読むためにちょっと文学理論の復習をしているのです。ただ、個人的に文学理論にはあまり興味がないというのが本当のところなので・・・。まあみなさんのなんらかの参考になれば幸いです。

この『文学とは何か』は、筒井康隆の小説の『文学部唯野教授』の元ネタのような位置づけにある本です。

文学部唯野教授』の中で、本当に文学理論に関しての講義が行われるんですが、そうした部分をもう少し詳しく知りたい人向けです。

目次をざっと眺めると、「序論 文学とは何か」「1 英文学批評の誕生」「2 現象学、解釈学、受容理論」「3 構造主義と記号論」「4 ポスト構造主義」「5 精神分析批評」「結論 政治的批評」といった感じです。

ちょっと難しい語が並んでいるような気がしますか? それとも多少は知っている語が並んでいる感じでしょうか。読者の知識によって読みやすさは多少変わってくると思います。一般的な感覚からすると、多少難解な印象かもしれません。

廣野由美子の『批評理論入門』やデイヴィッド・ロッジの『小説の技巧』では、小説の抜粋があるので読みやすいですが、『文学とは何か』ではただ理論の解説が書かれているので、若干の分かりづらさがあります。

ただ面白いのは、きちんと批評理論の歴史が描かれていることで、ある理論が前の理論の欠陥を埋めるような形で現れて来る。しかしその理論もまた批判されて、という流れが非常に理解しやすいことはたしかです。

T.イーグルトンが元々はマルクス主義批評家ですから、結論として政治的な読みに集約するのは仕方がないことですが、それぞれの関心に従って、興味のある部分を重点的に読んでいけばよいと思います。

さてさて、簡単に内容に触れていきますが、とても全部の紹介はできないので、ぼくが興味を持ったところだけ紹介しますね。

新批評(ニュー・クリティシズム)というアメリカでの流れがあるんですが、この集団は、テクストを作者から切り離すということをやったんです。テクストというのは、まあ小説自体だと思ってください。作者自身がテクストを完全に統御するものではないとして、テクストを中心的に分析しようとしたわけです。

作者がこういうことを書こうとした、ということを読みとるのではなく、作品の部分部分が何を象徴しているかなどの分析ですね。非常に明解なこと、学校などで理論として教えやすいということがありましたが、短い詩などしか対象にできないこともあって、批判的に乗り越えられていきます。

現象学は対象をカッコにいれて、テクストの外のものに影響されないという、フッサールの現象学的な読解であり、解釈学はそれを受けてのハイデガーの読解が中心になってきますが、どちらかといえば哲学の領域です。ぼくの範疇を越えているので、ざっくり飛ばしますね。

現象学、解釈学と関わってくる、受容理論はわりと分かりやすくて、つまり読者がいないとテクストは完成しないということですね。映画のフィルムで考えると分かると思いますが、フィルムはほとんど写真と一緒なんです。一枚一枚が動いていくその隙間をぼくらは残像や想像で埋めているんです。

小説も同じように、少しずつぼくらの想像で埋めていくわけです。街があったとします。その街がどんな街なのか、都会なのか田舎なのか、そういったことを様々な要素から読み取っていく。人物でも同じことです。つまり読者がいないと小説は小説として成立しないんです。当たり前のようでいて、斬新な視点です。

ぼくが一番興味を持っているのは、「3 構造主義と記号論」の章です。テクストから記号なり構造だけを抜き出そうとするわけですが、ソシュールの理論が元になっています。シニフィアンとシニフィエ。

ぼくらは普段、あまり意識せずに言葉を話していますが、たとえば「cat」という語は、シニフィアンという記号表現、つまり「cat」という言葉と、それが指し示すシニフィエという内容、つまり猫自体に分けられるわけです。

しかもその繋がりには意味はなくて、他の語との区別のためにあるにすぎない。

この考えは面白くて、少し広げて考えると、表面と中身の違いという構造にまで似たようなことが言えるんじゃないかと思うわけです。この部分が目から鱗のように新鮮に感じられた部分です。

ソシュールにはラングとパロールという、発話と構造についての重要な概念もあるんですが、まだいまいち理解してないので、今回はパスします。

ポスト構造主義になると、脱構築(ディコンストラクション)という概念が重要なキーとなるのですが、こちらの説明については、大橋洋一の『新文学入門』の方が詳しいので、そちらの記事で書きます。ようするに二項対立を崩すということですけども。

精神分析批評に関しては、興味がないことはないんですが、フロイトの理論を元に、言い間違え、ど忘れ、読み違え、書き違えなどに無意識や失錯行為などの意味合いを読みとるものです。ただ、こちらもぼくの範疇を越える部分があるので、いまいちなんとも言いがたいところです。

新版のあとがきでは、フェミニズム批評やポストコロニアル理論についても軽く触れてありました。

まあざっと目次の解説のようになってしまいましたが、興味のありそうなところはあったでしょうか。文学理論はたしかに理論だけ並べらていても、退屈な、あるいは難解な感じはしますし、分析や理論にこだわりすぎると読書の楽しみの大切ななにかを失ってしまうような気もしないでもないんですが、知っていればそれはそれで新しい楽しみが増えたりもします。

興味を持ったらぜひ読んでみてください。

つづいては大橋洋一『新文学入門』を紹介します。