異化 | 文学どうでしょう

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異化


日常にあり、当たり前になってしまったものを、違った認識として改めてとらえることにより、新鮮な驚きに変える手法。そうすることによって、日常言語ではなく文学用語になり、扱われているものも単なるものではなく、文学的なものになる。

ちょっと詳しい解説


単純に言えば、日常に見慣れたものを、非日常なものとして新たにとらえ直すということです。そうすることによって、斬新な感覚が呼び起こされます。ロシア・フォルマリズムのシクロフスキーによって提唱されました。

シクロフスキーは「方法としての芸術」(『散文の理論』所収)の中で、「生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法」(15ページ)だと書き、トルストイの作品から多く例を引いています。

 トルストイの非日常化の方法は、彼が事物を通常用いられている名前で呼ばずに、事物をはじめて見たもののように記述し、また、事件もはじめて起こったもののように描き、しかも事物の描写にあたっては、広く認められている事物の部分の名称を使用せずに、ほかの事物と対応する部分の名称で、事物を名づけているという点に存在する。(「方法としての芸術」『散文の理論』17ページ)


ここの説明だけでは分かりづらいかも知れませんが、「方法としての芸術」の中では具体的にトルストイの文章が引用されているので、興味のある方は実際に読んでみてください。

最も印象的なのは、トルストイの舞台の描写方法です。舞台を舞台として描くと、当たり前のものになってしまいますが、それを初めて見るような描写方法で描いているわけですね。するとそこに〈異化〉の効果が生まれてきます。

シクロフスキーから少し離れると、T.イーグルトン(大橋洋一訳)『新版 文学とは何か 現代批評理論への招待』にはこんな例が載っていました。ロンドンの地下鉄の注意書きです。

「犬はエスカレーターでは抱きかかえなければなりません」(Dog must be carried on the escalator.)(11ページ)

これは一見すると、明解な文章のように思えますが、実は犬を抱きかかえなければエスカレーターに乗っていけないのか、など様々な解釈が可能です。

これは、あらゆる文章を〈異化〉として、読み取れる可能性の示唆になっているわけですが、それはまあともかく、文学として使われる言語が、日常言語とは異なっているという点に〈異化〉の効果を読み取れるということなんです。

デイヴィッド・ロッジは、『小説の技巧』の中で、〈異化〉は「知識」を「感触」にかえる独創性の同義語だと書いていました。

さてさて、ぼくら一般の読者の気になるのは、そうした読み方が、読書の楽しみにどう関わってくるかどうかですよね。〈異化〉という文学用語を知っていることでなにが変わってくるのか。

ぼくは基本的には、〈異化〉を知っているか知らないかで、読み手としての変化はあまりないと思っています。〈異化〉を狭義におしこめても、あまり意味はないですし、かといって、あれもこれも〈異化〉だと指摘していっても、だからなに? となってしまいます。

ただ、日常言語と〈異化〉の効果が読み取れる文章とに差があることはたしかで、そこに「文学らしさ」が生まれていることは指摘できると思います。

参考文献


V・シクロフスキー(水野忠夫訳)『散文の理論』(せりか書房)

ジョナサン・カラー(荒木映子・富山太夫夫訳)『1冊でわかる文学理論』(岩波書店)

廣野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)

デイヴィッド・ロッジ(柴田元幸、斎藤兆史訳)『小説の技巧』(白水社)

T.イーグルトン(大橋洋一訳)『新版 文学とは何か 現代批評理論への招待』(岩波書店)

大橋洋一『新文学入門 T.イーグルトン『文学とは何か』を読む』(岩波書店)


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