泉鏡花『歌行燈・高野聖』 | 文学どうでしょう

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歌行燈・高野聖 (新潮文庫)/泉 鏡花

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泉鏡花『歌行燈・高野聖』(新潮文庫)を読みました。

泉鏡花の代表作として真っ先に名前があがるのがこの「高野聖」でしょう。エログロというと少しあれですけども、おどろおどろしい雰囲気漂う短編で、妖艶な女が登場する、とても印象的な作品です。

もう一つの表題作「歌行燈」も「高野聖」とはまた違った凄みのある作品です。能が重要なモチーフになっていますが、人間の業というか因果というか、そうした運命的なものが描かれた、非常に劇的な筋の物語です。

泉鏡花の短編は岩波文庫などでも読めますが、この新潮文庫には「高野聖」と「歌行燈」の他に「女客」「国貞えがく」「売色鴨南蛮」の3編が収録されていてお得感もあるので、どの本を読むか迷うようであれば、これが一番よいかと思います。

作品のあらすじ


では、各編の紹介をしていきます。

「高野聖」

「年配四十五六、柔和な、何等の奇も見えぬ、可懐しい、おとなしやかな風采」(9ページ)である高野山の旅僧と〈私〉は汽車の中で2人きりになります。

2人ともお弁当を買うんですが、寿司だと思ったらちらし寿司だったので、〈私〉は思わず「やあ、人参と干瓢ばかりだ」(9ページ)と言ってしまい、それを聞いた旅僧はくつくつ笑います。

それが縁で2人は親しくなり、どちらも敦賀で一泊する予定だったことから、同じ旅籠屋に泊まることにします。

寝床につきましたが、なかなか眠れないということで、〈私〉は旅僧に旅での話をねだります。すると旅僧は「出家のいうことでも、教だの、戒めだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい」(13ページ)と言って語り始めます。

ここからは、旅僧がまだ若かった時の話が〈私〉として語られていきます。飛騨から信州へ越える山道を歩いていた〈私〉。途中の茶店で薬売りと会うんですが、この薬売りがなんだか少し嫌なやつなんです。

薬売りに追い抜かれた〈私〉が山道を歩いていると、梅雨の雨のせいで、道は川のようになっていました。ちょっと立ち往生していると、たまたま通りがかった百姓が、そっちの旧道は危ないから行ってはいけないと教えてくれます。

〈私〉は困りました。〈私〉としてはもちろん引き返したいんですが、それは薬売りが歩いていった道なんです。嫌なやつだと思ったから、なおさら見捨ててはおけないと思い、〈私〉は薬売りに危険を知らせてやろうとその道を進んで行きます。

この山道で〈私〉は不気味なものに出くわします。小さな虫が飛び、蛇がずるずると尾を引いて歩きます。ぼたりと笠の上に落ちて来たのは大きな蛭(ひる)。ひたすらおどろおどろしい雰囲気です。

転んで怪我するなど大変な目にあって、ようやく見つけたのが一軒の家でした。そこで暮らしているのは、太っていて、口をあけてぼんやりした子供のような男と、婦人。〈私〉が宿を頼むと、快く応じてくれます。

婦人が川で〈私〉の背中を流してくれることになりました。「高野聖」の中でとりわけ印象深い場面なので、やや長いですが引用します。

さあ、そうやって何時の間にやら現とも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖い花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸から次第に天窓まで一面に被ったから吃驚、石に尻餅を搗いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思う途端に、女の手が背後から肩越しに胸をおさえたので確りつかまった。
(貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい、飛んだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ)という胸にある手を取ったのを、慌てて離して棒のように立った。
(失礼)
(いいえ誰も見ておりはしませんよ)と澄して言う、婦人も何時の間にか衣服を脱いで全身を練絹のように露していたのじゃ。
 何と驚くまいことか。(49ページ)


〈私〉が恍惚とした気持ちになっている内に、婦人は服を脱いで裸になっていたんですね。婦人の裸の場面はここから少し続きますが、単に裸が描かれるというだけではなく、妖艶さとどこか幻想的な雰囲気が漂う場面です。

体を拭いて服を着た〈私〉は、なにやらおかしなことを目撃します。ヒキガエルや蝙蝠、猿が婦人に抱きつくように寄って来るんですが、その度に婦人は「あれ、不可いよ、お客様があるじゃないかね」(51ページ)と言うんですね。

婦人に惹かれて心揺れる〈私〉ですが、婦人に関するある話を耳にして・・・。

とまあそんなお話です。おどろおどろしい雰囲気の山道を歩いて行った先に、ぽつんと一軒ある家とそこに住む婦人。不気味さと幻想的な美しさを兼ね備えた短編です。

怪談やホラーのように、「怖いもの見たさ」のぞくぞく感を求める人にぴったりの作品だと思います。興味を持った方はぜひ読んでみてくださいね。

ここからは蛇足ですが、ぼくが気になるのは、語りの構造です。まず大きなくくりとして、「旅僧が語る話」があり、「旅僧が語る話」の中で「婦人に関するある話」が語られるという構造になっています。

普通の読み方は、もちろんそのすべてが真実だとして読む読み方なんですが、そのどれかを疑うことが可能かどうか? というのは、この「高野聖」で個人的に最も興味深い所です。

「婦人に関するある話」が真実ではなかった場合、作品の意味合いは大きく変わってきますし、「旅僧が語る話」自体が旅僧の作り話の可能性も否定し切れません。

もちろん答えは出ませんが、語り(主観的なもの)と事実(客観的なもの)というのは自ずから異なるものなので、色々考えてみるのも面白いだろうと思います。

「女客」

謹さんというその家の主人にお民さんが階子段から手紙を渡します。お民さんは謹さんの親戚で、5歳の子供を連れて上京して来ているんですね。

同い年の2人は昔のことを語りあったりします。謹さんもそろそろ奥さんをもらわなければという話が出ると、謹さんは「否、よします」(99ページ)と言います。それは一体なぜなのか?

何気ない会話の奥に、謹さんとお民さんの気持ちが読み取れる、そんな印象深い作品です。

「国貞えがく」

東京から帰省した24、5歳の青年、立田織次。郵便局で為替を受け取って、複雑な胸中である場所へ向かいます。

死んだ父親の仲間の職人だった平吉の所です。織次は十数年ぶり平吉と会うと、錦絵を返してほしいと言います。「私が学校で要る教科書が買えなかったので、親仁が思切って、阿袋の記念の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻して、蔵っといてくれた。その絵のことだよ」(128ページ)と。

苦い思い出の残る、母親の形見の錦絵にまつわる出来事とは一体!?

「売色鴨南蛮」

大学病院に勤める医者の秦宗吉は、停車場の待合室にいる緋縮緬の長襦袢を着た女が、昔の知り合いに似ていることに気がつきます。

それは単なる知り合いではないんです。宗吉は17歳の時に自殺しようとしたことがあったんですが、それを止めてくれたお千という女。

宗吉は家出同然で家を飛び出して来たらしく、その頃は長屋で、だらしない暮らしをしている医学生くずれたちと食うや食わずの生活をしていました。その長屋に住んでいたのが、元々は商売女で、愛人をしているお千。

宗吉は自分が死のうとした時のことを思い出します。春の夜の神田明神の境内の描写が次のように書かれます。

「ああ・・・・・・もう一呼吸で、剃刀で」
 と今視めても身の毛が慄立つ。・・・・・・森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の隈を取った可恐しい面のようで、家々の棟は瓦の牙を噛み、歯を重ねた、その上に二処、三処赤煉瓦の軒と、亜鉛屋根の引剝が、高い空に、赫と歯茎を剝いた、人を啖う鬼の口に髣髴する。・・・・・・その森、その樹立は、・・・・・・春雨の煙るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも逆に生えた蓬々の髭である。(154~155ページ)


この場面は非常に泉鏡花的なものが出ている所だと思いますが、単なる境内の描写とは確実に違いますよね。「人を啖う鬼の口」のように見えるというのは、これは明らかに死を決意した宗吉の心が投影されているわけです。

お千はどういう風に宗吉の自殺を止めたのか、またお千に似た女はお千なのかどうなのか?

「歌行燈」

最初は軽いタッチで始まります。62、3歳の弥次郎兵衛と70歳ほどの捻平が旅をしています。十返舎一九の『海道中膝栗毛』の真似をした珍道中のような感じです。

やがてお三重という芸者がやって来るんですが、このお三重は芸者なのに、三味線も弾けませんし、踊りも踊れないというんですね。ただ唯一、お能の舞の真似事ならできると言います。促されて、舞を始めるお三重。

 頤深く、恥かしそうに、内懐を覗いたが、膚身に着けたと思わるる・・・・・・胸やや白き衣紋を透かして、濃い紫の細い包、袱紗の縮緬が飜然と飜ると、燭台に照って、颯と輝く、銀の地の、ああ、白魚の指に重そうな、一本の舞扇。
 晃然とあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、玉簪の如く額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の出汐の波の影、静に照々と開くとともに、顔を隠して、反らした指のも、両方親骨にちらりと白い。
 又川口の汐加減、隣の広間の人動揺めきが颯と退く。(240~241ページ)


お三重の舞を見て、捻平は驚き、誰に習ったのかを尋ねます。捻平はなぜ驚いたのか? そしてお三重の話はどんなものだったのか?

「歌行燈」は2人の老人の旅(現在)、お三重の話(過去)と、もう1つの話から構成されています。門附(かどづけ)の男が登場するんです。

門附というのは、家の前で芸を披露してご祝儀をもらう仕事のことですが、三味線を弾きながら博多節を歌う門附がうどん屋に入って行きます。そこでお酒を飲み、按摩(あんま)にある告白をするんです。

「私はね、・・・・・・お仲間の按摩を一人殺しているんだ」(221ページ)と。そして3年前に起こった出来事が、門附の口から語られていきます。殺したとは一体どういうことなのか?

2人の老人、お三重、門附の現在の話に、お三重の過去の話と門附の過去の話が挿入されるという構造です。お三重の話の方は分かりやすいんですが、門附の過去の話は2人の老人の現在の話と交互になったりもするので、今どちらの筋なのかは少し注意しながら読んだ方がよいかと思います。

そうした複数の筋が、ばらばらに展開するのではなく、最後には一つにまとまることになります。

最後の場面がもうすごいんですよ。ストーリーではなく、場面としてのすごさです。能が関わって来ます。これは非常に芸術的なものになってまして、あえてあまり説明しませんけれど、理解できるすごさではなく、理解できないことによるすごさを感じます。

とまあそんな5編が収録された泉鏡花の短編集です。

「高野聖」と「歌行燈」はさすがに泉鏡花の代表作とされるだけあって、不気味さと幻想的な美、そして芸術というものの壮絶さという、それぞれに違った面白さのある作品です。それ以外の作品では、「女客」がとても印象的でした。

男女が話しているだけという、そういうシンプル短編なんですが、伝わってくる空気感といい、2人の幻想がふと打ち破られる瞬間といい、非常に面白い短編だと思います。

泉鏡花は文体としてはやや難解さがありますが、その描写の妖しい美しさに根強いファンがいる作家です。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、後藤明生『挟み撃ち』を紹介する予定です。