大西巨人『神聖喜劇』 | 文学どうでしょう

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神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)/大西 巨人

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大西巨人『神聖喜劇』(全5巻、光文社文庫)を読みました。Amazonのリンクは1巻だけを貼っておきます。

何冊にもわたる大長編小説を読み始める前というのは、なんだか緊張するものですよね。「一体どんな話なんだろう?」とか「ちゃんと最後まで読めるかな・・・」とか、不安と期待の入り混じる、独特の気持ちに襲われます。

特にこの『神聖喜劇』は、軍隊での生活を描いた小説であること、賞賛の声がよくあげられていること、そしてなにより約500ページ×5巻というボリュームに、ぼくは尻込みかつ緊張したんですが、実際に読んでみたら、極めて面白い小説でした。

以前、野間宏の『真空地帯』を紹介しましたが、その時にこの『神聖喜劇』について少し触れましたね。

野間宏は軍隊を日常とは違う、「真空地帯」という異様な空間として描いたわけです。それに対するアンチテーゼとして書かれたのがこの『神聖喜劇』です。

『神聖喜劇』では、軍隊は「真空地帯」ではなく、現実の生活と強く結びついたものとして描かれます。それは具体的には次の二点から構成されています。

まず第一に、学歴によって派閥が生まれていること。軍隊に入って、条件は同じだからみな平等というわけではなく、インテリ(大学出などの知識階層)はインテリで集まり、職業的身分の低い者は馬鹿にされてしまいます。

つまり、現実の生活での身分が色濃く反映されてしまうわけですね。

第二に、そうした身分の問題はより深い所まで描かれます。作中で島崎藤村の『破戒』の名前もあがっていますが、兵隊の中には被差別部落出身の者もいます。

被差別部落は士農工商のその下の身分とされた人々のことで、法律によって建前上はみな平等ということになりましたが、根強い差別に苦しめられています。そうした差別の問題が、軍隊の中でも現れてくるんですね。

軍隊は現実と切り離された特殊な世界なのではなく、現実と同じように、そうした差別と偏見のある世界として描かれます。

では『真空地帯』と『神聖喜劇』が全く真逆の印象の作品かというと、ぼくはむしろ似ている部分が多いのではないかと思います。

どちらも兵隊の目線から軍隊の形がとらえられるわけですが、軍隊には論理や合理性では解決できない、組織ならではの先の見えなさ、意見の通じなさがあります。

ミステリとまではいきませんが、軍隊内で起こった事件の真相究明が一つのストーリーラインになっている所も共通しています。

この辺りから『神聖喜劇』の内容に入っていきますね。この小説は対馬の軍隊に補充兵として教育招集された〈私〉こと東堂太郎の物語です。

実際の戦争風景が描かれるのではなく、対馬での訓練生活が描かれていきます。一応、訓練期間は3ケ月ということになっていますが、訓練が終わった後は家に帰れるのか、それとも戦地に派遣されることになるのかはまだ分かりません。

〈私〉の目から軍隊のおかしな部分、訓練兵たちの間にはびこる差別や偏見が描写されていくわけですが、この〈私〉がかなり変わった人物なんです。極めて特異なキャラクター性があります。

『神聖喜劇』でおそらく一番有名な場面は次の場面でしょう。

「このウストン。」仁多軍曹は、さかんに私への新語を発してあざけったが、三度目の私の反問を完全に無視した、「わが国の軍隊に『知りません』があらせられるか。『忘れました』だよ。忘れたんだろうが? 呼集を。」
 上官上級者にたいして下級者が「知らない」という類の表現を公けに用いることは固く禁物である、ーー入隊前にいつもどこかでそういう話を聞いたうろ覚えが私にあったし、十日足らずの直接見聞によってある程度その事実を私はたしかめてもいた。とはいえ私一個は初めて今朝この問題に面と向かったのである。
「東堂は知らないのであります。」(1巻、47ページ)


いつ集まればよいかまだ知らされていないのに、「忘れました」と言えというんですね。なにか知らないことがあっても、「知りません」ではなく「忘れました」と言うのが軍隊での不文律(暗黙のルール)なわけです。

〈私〉と一緒にいた兵士は、「忘れました」と言います。本来ならば、注意されてそれで終わりな話です。ところが〈私〉は「東堂は、それを、知らないのであります。東堂たちは、そのことを、まだ教えられていません」(1巻、49ページ)と言いはり続けます。

これは単に反抗的な態度なわけではなく、なぜ教えられていないことを「忘れました」と言わなければならないのか? という非合理性に対しての、論理的問いかけです。

この一件はのちのちまで尾を引くんですが、他にも「軍人は睾丸を袴下の左側に入れておかねばならぬ」(2巻、314ページ)決まりがあるのはなぜか? などこうした些細な事柄で〈私〉と軍隊とはぶつかり続けていきます。

もしも〈私〉が単なる兵士だったなら、痛い目をあわされて終わりだろうと思いますが、〈私〉には特殊能力とも言えるすごい能力があるんです。

それは記憶力が抜群によいことです。和歌や本など、様々な文章を暗記している〈私〉。学生時代はノートを取る必要がないほどでした。

〈私〉は軍隊の決まりの書かれた条文を暗記していて、その非合理な命令の典拠はどこにあるのかと上官を問い詰めていくんですね。

つまり、今までは絶対的な権力を持つ上官の命令によって、多少の非合理な事柄でも、なあなあで済んでいた事に〈私〉は条文を盾に立ち向かっていくわけです。

上官は当然〈私〉のように条文をすべて知っているわけではないので、答えに窮します。こういった場合、ルールブックを持っているものが圧倒的に強いわけで、さながら法廷で弁護士が相手を論破していくような痛快さがあります。

ただ、〈私〉は軍隊の中でヒーローになれるわけではなく、どこか一目置かれるけれど、確実に煙たがられる存在になってしまいます。罠をかけられるようにして、何度も痛い目にあわされそうになるんですね。

はたしてそれを〈私〉が驚異的な記憶力と論理力を武器にどう切り抜けていくのか? というのがこの作品の読みどころです。

そうした記憶力と論理力に際立った個性を発揮する〈私〉ですが、今風に言うと「空気の読めない」所があって、周りのみんなが噂をしていることを知らなかったり、相手が察してほしいような事でも、うまく理解できないなど、そういった点でもやや変わっています。

抜群の個性を持つ〈私〉が、軍隊の生活で見たものとは一体なんだったのか?

作品のあらすじ


教育招集された〈私〉は対馬に行くことになります。〈私〉の健康を調べた軍医が、中・高・大の先輩にあたる人だったため、健康状態を理由に兵役が免除してもらえそうになりますが、〈私〉は自ら進んで軍隊に行きます。

それがなぜかと言うと、〈私〉はこんな思想を持っているからです。

世界は真剣に生きるに値しない(本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい)、(中略)私は、そういう「主観的な定立」を抱いて、それに縋りついた。そして私の生活は、荒んだ。ーーすでにして世界・人生が無意味であり無価値であるからには、戦争戦火戦闘を恐れる理由は私にはなかった。そして戦場は、「滑稽で悲惨な」と私が呼んだ私の生に終止符を打つ役を果たすであろう。(1巻、33ページ)


〈私〉はどこか虚無主義的な所があるんですね。軍隊の生活で、〈私〉は早速「知りません」「忘れました」問題とぶつかります。上官が〈私〉に腹を立てて、今にも殴られそうになった時、右側から声がします。

「冬木二等兵は、まちがえて、嘘を言いました。冬木も東堂二等兵とおなじであります。朝の呼集時間のことを、冬木二等兵も、忘れたとじゃなかったとで、知らんじゃったとであります」(1巻、49ページ)と冬木という同期の訓練兵が言うんですね。

〈私〉は冬木のこの言葉に感動を覚えます。黙っていれば何事も起こらないのに、自ら進んで火の中に飛び込むような、まっすぐで勇敢な行為だからです。

まだ来たばかりということで、この時はお咎めなしで終わったんですが、〈私〉は冬木に強い印象を受けました。

〈私〉の隊の班長は、大前田文七という軍曹です。戦場での残酷な行為を誇らしげに言う男で、〈私〉を目の敵にしているような所があります。

〈私〉は驚異的な記憶力で条文を盾に、軍隊に潜む非合理性を解き明かしていこうとします。あいまいな軍隊ならではの物事に、論理的なアプローチで立ち向かっていくんですね。

次第に同期の訓練兵の中で派閥が生まれていきます。学校出のインテリはインテリで集まり、被差別部落出身の者には差別と偏見の目が注がれます。そんな中、〈私〉はどこにも属さず、1人で辞書や田能村竹田の本を読んでいたりします。

やがて、ある事件が起こります。違う班の訓練兵の銃剣に異常が見つかるんです。折れた鞘(さや)を無理矢理戻したらしく、真ん中辺りで横一文字のふくらみ(反対側には凹み)が出来てしまっているんですね。

どうやら誰かが壊れた銃剣の鞘(さや)を入れ替えたらしいんです。支給品を壊した時点で重大事ですし、それを隠蔽しようとすることは大きな問題です。

当然犯人が探されるわけですが、真っ先に疑われたのが冬木でした。

〈私〉ははっきりとは把握していませんが、冬木には2つの噂が流れているんです。出自のことと、そして前科者なのではないかという噂。

差別と偏見の目から冬木に嫌疑がかかっていると知った〈私〉は、信頼できる仲間と冬木を救う手立てがないかを相談します。様々な証言を総合して、真犯人らしき男が浮かび上がって来ますが、〈私〉はこう言います。

 *東堂 それは、まだ決められない。状況証拠ばかりで、動かぬ証拠はないのだから。それに、・・・・・・さっきおれは、「真犯人追及の手がかり」だの「シャーロック・ホームズになったつもり」だの、いくらか不謹慎に言ったけれども、犯人を突き止めたり捕まえたりする必要も任務も、おれたちにはないもの。
 *橋本 ふぅん? ・・・・・・そんなら、何が、そん、・・・・・・おれたちの・・・・・・「必要」やら「任務」やらじゃろうか。
 *東堂 まちがった思い込みとか片寄った考えとかに立って、冬木に嫌疑を掛けること、確実な証拠もないのに、冬木を犯人扱いにして責め折檻すること、そんな理不尽な仕打ちを上官上級者などに止めさせることが、おれたちの必要やら任務やらですよ。(5巻、132~133ページ)


この作品には、こういう風に戯曲風になる所もあります。

〈私〉が合理性を重んじているのが非常によく分かる場面ですよね。犯人らしい人物を安易に告発することは、冬木に対してなされていることと同じだというんですね。

はたして〈私〉の立てた作戦とは? そして冬木の運命はいかに!?

とまあそんなお話です。軍隊に潜む非合理性と戦い、様々な身分の問題を取り込んだ交響曲的巨編です。

この小説にはもう1つ大きな特徴があって、驚異的な記憶力を持つ〈私〉によって過去の出来事が回想されたり、様々な本の文章が引用されることがあります。

特に軍隊に行く直前に、女性と最後の交わりをする場面が印象的でした。それは料理屋で働いている女性で、何度か〈私〉とあいびきをしているんですが、恋人というのとは少し違います。

お互いに少しずつ心の距離を取り合っている所があって、密接な関係ではなく、さみしさやむなしさのようなものが間に入った独特の関係です。

この2人が和歌を中心に会話をし、やがて何故かお互いに剃毛して交わることになるんですが、一種独特の空気感が漂う、とても印象的な場面でした。

回想や引用文の多い形式の小説は、わりと読みづらいことがあるんですが、この小説の場合は回想や引用がそれぞればらばらにあるのではなく、音と音が重なって和声が生まれるように、重なり合って意味が生まれるような仕組みになっています。

それによって重厚さが生まれる、まさに「交響曲」的な小説です。

わりと長い小説ですが、思ったよりも読みづらさというのはなかったです。やや独特のねばりのある文体と引用文の重なりによる濃厚さはありますが、あらすじで紹介したように、わりとシンプルなストーリーかつ法廷もののような痛快さのある、とても面白い小説です。

興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、泉鏡花『歌行燈・高野聖』(新潮文庫)を紹介する予定です。