島崎藤村『春』 | 文学どうでしょう

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春 (新潮文庫)/島崎 藤村

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島崎藤村『春』(新潮文庫)を読みました。

ぼくは作家の好き嫌いというのはあまりなくて、なんでも面白く読めるタイプなんです。

ストーリーが面白くなくても文章がとても素敵だったり、文体は自分とあわなくても、物語にぐいぐい引き込まれてしまうなど、どんな小説にも、なにかしら面白い所はあるものです。

それは人との関係によく似ていて、すべてが素晴らしい人や、なにもかもがダメな人はいません。

みなそれぞれいい所と悪い所はあって、そしてこれは非常に興味深いことですが、長所と短所は必ずしも相反するものではなく、見方によって長所に見えたり短所に見えたりするものなんです。

たとえば、ガミガミうるさい人が、自分が困った時に味方になって助けてくれたりだとか。自己主張が強すぎるのは困りものですが、仲間になって戦ってくれる時に、それほど心強い味方はいませんよね。

なので、対人関係において、できるだけ相手のいい面を見ようとするのと同じように、ぼくは小説でもいい面を探そうとします。物語、文体、テーマなどなど。どこかしらいい部分は見つかるものです。

さて、ここで島崎藤村です。

前からこのブログを読んでくださっている方はもうご存知だろうと思いますが、ぼくのほとんど唯一苦手な作家が島崎藤村なんです。

これは昔からそうで、『破戒』の時はその鬱憤がたまっていたせいか、結局まともな紹介すらできずに終わって、後からちょっと反省したりもしたんですけど・・・。

そういった反省を踏まえて、できるだけいい面を探そうと思って、この『春』をじっくり読んだんですが、やはりストーリー、文体、テーマなど、一つも感じ入る部分がありませんでした。残念ですが。

ただ、本当に残念なのは、「いやいや島崎藤村はこんな所が面白いんだよ」という声があがってこないことなんです。

それだけ現在においては読まれていない作家だということでしょうし、そのこと自体が、島崎藤村の小説の面白くなさを表しているようで、なにやら複雑な思いがしたりもします。

なので、ぼくがこの記事を書く大きな理由は、実際に島崎藤村の小説を読んでもらいたいということなんですね。

きっかけは「立宮翔太が苦手だと言う小説というのはどんなのだろう?」というのでもよいと思うので、ぜひ読んでみて、感想をコメントしていってくださいな。

別にぼくは島崎藤村を批判したいとかそういう考えはないので、島崎藤村に対しての好意的なコメントが集まればいいなあと素直にそう思います。

では、ぼくがなぜ島崎藤村の小説に苦手さを感じてしまうか、書いていきたいと思います。

これは『破戒』とまったく印象としては同じなんですが、登場人物に感情移入ができないこと。おそらくこの一点に尽きます。

島崎藤村は自然主義といって、現実をあるがままに写そうとした作家ですから、この『春』というのは、島崎藤村自身を思わせる岸本捨吉を主人公にして、その青春時代を描いた小説です。

岸本は恋に悩み、人生に苦悩します。こんな風に。

「ーー自分は今、眼に見えない牢獄の中に居る。鍛冶橋に居る兄さんの為には、あれほど他が大騒ぎしても、自分が苦んでいることを見てくれる者が無い。ああ病人は寧ろ幸福だーー身体の頑健なものはそこへ倒れるまで誰も知らずにいる」(300ページ)


病人は具合の悪さが目に見えますから、精神的に悩みを抱えている状態よりも幸せだというんですね。この場面など、岸本が苦悩していることは分かりますが、岸本の苦悩というのは、読者が共感できるものではないんです。

恋も人生における迷いも、状況としてはまったく描かれず、ただ辛い辛いと口で言っているだけで、どんな風に辛いのかはまったく分かりません。それがぼくがこの小説にのめり込めない最大の理由です。

岸本の周りにいる仲間たちも実在の人物がモデルとなっています。ぼくは普段、実在の人物をモデルにした小説の場合、あまり実在のモデルを意識せずに読みます。

たとえば、有島武郎の『或る女』は一種のモデル小説ですけれど、小説だけ読んでも十分に面白い小説です。

モデルになった人物について調べることは、好奇心が満たされる点ではよいですが、小説を読んでいく上であまり重要ではありません。

一方で、この『春』というのは、単に小説だけ読んでも機能しない部分が多いんですね。

『春』における最も重要な人物として、青木がいます。青木のモデルは北村透谷です。

北村透谷は、おそらくみなさんあまりご存知ないだろうと思いますが、詩と評論のちょうど中間のようなものを、独特の文体で書いた人です。その意見は大きな影響力を持ちました。

またその内、北村透谷も取り上げて紹介したいと思ってはいますが、現在からするとなかなか難解な文章なので、ぼくの手に余るところがあるかもしれません。

作中人物の青木と、北村透谷を切り離して読めるかどうかが『春』を読む上でひそかな問題となります。結論は明らかで、北村透谷という存在を無視して、青木を単なるキャラクターとして読むことはできません。

なぜなら、作中の青木の作品として、北村透谷の実際の文章が使われているからです。つまり、青木と北村透谷は結びつけて読まれることが想定されているわけです。

もし仮にモデルである北村透谷と作中人物青木を無理矢理切り離して、北村透谷を重ねずに青木としてだけ読んだとすると、青木という存在の大きさ、青木が抱えていたもの、青木が岸本捨吉(=島崎藤村)に与えた影響というのがほとんど機能しないんですね。

小説だけで読者を納得させられるように描かれてはいないんです。島崎藤村の文体というのは、ほとんど一本調子で味も素っ気もなく淡々と進んでいってしまいます。

これはやや問題で、北村透谷を知っている人は読む前から分かっていることではありますが、作中でなかなかにショッキングな出来事が起こります。

本来ならそこは物語の大きな波となるはずですが、そこですら感情的な大きな揺らぎは描かれず、すっと過ぎ去ってしまいます。

島崎藤村が青春時代にどんな風にして仲間たちと文学活動していたかは分かりますし、そういった意味では文学史的には価値がある小説かもしれません。

ただ、それにしても青木が岸本に与えたであろう衝撃が、ほとんど描かれていないことには驚きすら感じます。

文学史と重ねなければ面白さは分からず、そうかと言って重ねた所で感情的な揺らぎが描かれていないので、どこか無味乾燥な印象を感じてしまうであろう小説です。

作品のあらすじ


岸本が旅から帰って来て、同人誌をしている文学の仲間たちと再会する所から物語は始まります。

文学史的に言うと、『文学界』という同人誌で、北村透谷、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨などが参加していました。北村透谷は青木、島崎藤村は岸本、平田禿木は市川、戸川秋骨は菅という名前で物語には登場します。

そうそう、名前だけの登場ですが、樋口一葉を思わせる女性も出てきますよ。

同人仲間はみんな20歳前後ですが、青木はやや年上で、みんなのリーダー的存在です。それぞれ恋する女性がいるんですが、「盛岡」などその女性の出身地で暗号のように言い合っています。

青木だけは操という女性と結婚していて、鶴子という女の子も産まれています。お見合いではなく、早くに恋愛結婚したんです。

教師をしていた岸本は、教え子である「盛岡」こと勝子に恋するんですが、うまくいかないんですね。岸本と勝子の関係が具体的にどうだったのかはこの作品だけではよく分かりませんが、家柄の問題などがあって、勝子には他に結婚する相手がいるんです。

教師をやめた岸本は、頭を丸め、お坊さんの格好をして旅に出ます。「何処へということは岸本自身にも解らなかったが、足に任せて目的なしに歩いた」(106ページ)んです。どんどん歩いて行きます。

この旅は、簡単に言えば自分探しの旅ですが、人生に打ちのめされて、死さえも意識した旅です。死のうという強い意志ではないにせよ、旅先で死んでも構わないという無鉄砲な旅ですね。お金もほとんど持っていません。

旅先でどんなことが起こったかは伏せておくとしまして、ともかく帰って来ます。行くあてのない岸本の面倒を見てくれたのが青木です。

青木は自分と岸本には似た部分があるとよく言っています。人生に行き詰まった岸本から見ると、青木は尊敬できる成功者なんですが、青木は青木で実は色々悩みを抱えているんですね。

若い頃の自分に似ているという言い方をするんですが、岸本の鬱屈した気持ちが非常によく分かる青木。青木の妻の操は、段々と夫の様子がどこか変だと思うようになります。

お見合い結婚ではなく、強引に結婚した2人ですから、周りからの助けがなく、独立してやっていかなければなりません。ですが、仕事が自分の思うようにできないんですね。青木は徐々に精神的に追い詰められていきます。

人生の先輩として、青木が岸本にとっていいモデルになればよかったのですが、なかなかそうもいかず、岸本は迷い続けます。

文学者としてやっていきたい気持ちはもちろんあるんですが、自分自身の才能に確信が持てない部分があります。「小説、戯曲、論文、それから新体詩までも試みた。一つとして自由に表白せるものは無かった」(267ページ)んです。

文学史的なことに触れておくと、島崎藤村はまずは詩人として世に出て、その後で小説を書くようになります。

岸本が迷う、こんな場面が印象的でした。

石塊の多い山道で、崖の下には谷川の流れがあった。その時、彼は路傍の石塊を拾って、崖の上から落してやった。そんなことで自分の一生の方向を卜おうとしたこともあった。もし石塊が河の中へ落ちるようであったら、文芸の道路を進もう。途中で止まるようであったら、全く方向を変えて、他の職業の中に埋没れて了おう。斯う思い迷った。石塊はごろごろ転って落ちて行ったが、一つは河を越して向へ落ち、一つは河の中に落ち、一つは河まで行かずに手前で止まった。結局どうして可いいか解らなかった。(268ページ)


こうした気持ちは、ある程度誰でも共感できるかと思います。どうしたらいいか分からず、なにかに託して占ってみようとするんですね。しかし、その結果がどうであれ、もやもやした気持ちは残り続けるものです。

人生に行き詰まり、迷い続ける岸本がたどり着いた心境とは? そして人生と文学の先輩青木の身に起こった衝撃的な出来事とは!?

とまあそんなお話です。恋に悩み、文学の道に悩む青春時代。岸本にとっては、それはやがて生きることそのものの辛さになっていきます。

 雨は霙に変ったと見えて、蕭々降りそそぐ音がする。青白い光は、雨に濡れた表の格子戸を通して、この屋の内を薄暗く淋しく見せる。しばらく岸本は冷い壁に倚凭って、霙の音を聞いていたが、やがて思いついたようにこんなことを言出した。
「母親さんはどういう積りで僕のような人間を造えたんですか」
 母親は長火鉢の灰をならしながら、苦笑した。
「そういうことを聞くのは、一番親不孝な言葉だそうだ」(278ページ)


「霙」はみぞれです。その音を聴きながら、ふとそんなことを言うんですね。かなりひどい言葉ですが、それだけ岸本の苦悩の根の深さを表してもいます。

岸本の苦悩は、考えとしてある程度理解は出来るんですが、物語の状況から生まれる感情的なものとして描かれていないだけに、同じ気持ちになることは難しいだろうと思います。

物語としての面白さはないだけに、やはり『文学界』周辺の文学者たちに興味のある人が一番楽しめる小説なのではないでしょうか。

島崎藤村は次、『春』の少し前の時代を描いた『桜の実の熟する時』を読みます。大作『夜明け前』も近い内に読み返そうと思っています。

明日は、大西巨人『神聖喜劇』を紹介する予定です。