谷崎潤一郎『春琴抄』 | 文学どうでしょう

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春琴抄 (新潮文庫)/谷崎 潤一郎

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谷崎潤一郎『春琴抄』(新潮文庫)を読みました。

久々に『春琴抄』を読み返してみて、ぼくはふと近松門左衛門を思い出しました。

近松門左衛門は心中などをテーマにして、人形浄瑠璃の脚本を書いた人ですが、男女の極限状態の愛を描いているという点で、谷崎潤一郎とはどこか共通点があるような気がします。

心中というのは、愛し合う男女が一緒に死ぬことですから、その行為に対して批判は可能ですけれど、ある意味においては究極の愛の形だと言えるでしょう。

離ればなれになるくらいなら、いっそ一緒に死んだ方がよいと思えるくらい誰かを愛せるというのは、それはそれですごいことですよね。

『春琴抄』は心中の話ではありません。心中の話ではありませんが、心中の話に勝るとも劣らない、壮絶で、衝撃的な愛の形が描かれた作品です。みなさんぜひ読んでみてください。80ページほどの短い作品です。

ぼくは日本文学の中で好きな作家はたくさんいますけども、それは日本文学という枠の中での話なんですね。

日本文学という枠を打ち破って、世界文学の領域で心底すごいと思えるのは、谷崎潤一郎ぐらいです。それだけ突出した存在だと思います。

『春琴抄』における春琴と佐助の関係性というのは、想定の範囲を完全に超えてきているというか、谷崎潤一郎でしか書けないものだと思います。これは素晴らしいという以外に言葉がありません。

それは見方を変えれば、普通の男女関係ではなく、どこか倒錯的で変態チックな部分があるということなんですが、そのやや歪んだ関係性が非常に面白いです。

痴人の愛』の所でも少し書きましたが、谷崎潤一郎の魅力というのは、倒錯的でありつつも、どこか共感できてしまう所にあると思うんですよ。

ある種のフェティシズム(性癖)が描かれていながら、それに嫌悪感を感じるのではなくて、自分にそのフェティシズムがなくても、納得させられてしまうような部分があります。

たとえば『春琴抄』における春琴と佐助というのは、三味線の師匠と弟子の関係ですが、春琴が稽古をつけながら怒鳴りつけると、佐助はしくしく泣きます。そこにSとMの関係性を見出すことが十分可能です。

ですが、自分の性質がどうであろうと、春琴と佐助の関係性はすっと受け入れられて、しかもSMという関係性だけに押し込められないなにかもまた感じられるんです。

ここで人形浄瑠璃の話に戻りますが、『春琴抄』のなにがそれほどすごいかというと、この小説が心理小説ではないことです。

まるで人形浄瑠璃の人形を見ているように、ぼくら読者は、春琴と佐助を外側からしか見ることができません。春琴がどう思っていたのか、あるいは佐助がどう思っていたのか、それはよく分からないんです。

物語の中ではいくつか事件が起きます。しかしその事件の真相もはっきりしないんですね。春琴と佐助の関係においてもそうですし、やがて春琴の身に起こったある出来事に関してもそうです。

登場人物の心理が描かれないことによって、物語が凝縮され、より一層深みが生まれている、そういうめずらしい小説なんです。春琴と佐助の、壮絶で衝撃的な愛の形とは一体どんなものなのか?

作品のあらすじ


春琴と佐助のお墓の描写から始まります。それぞれが少し離れた所にあるんですが、ある老婦人はその両方にお参りしていきます。

〈私〉は春琴という三味線の師匠について書かれた「鵙屋春琴伝」という小冊子を手に入れ、それを元にこの小説を書いていきます。

春琴は裕福なくすり屋の娘として生まれましたが、9歳の時に病気にかかって目が見えなくなってしまいました。それがきっかけとなって、三味線を習うようになります。

三味線の師匠の所へは、徒歩で1キロほどあるんですが、それを丁稚(年少の奉公人)の佐助が手をとって連れて行くんですね。

佐助は春琴の4つ年上で、春琴が10歳、佐助が14歳の頃から、春琴のお手伝いはほとんど佐助が専任でつとめることになります。

それがなぜかというと、春琴は非常にわがままで気難しい所があって、たとえばトイレに行きたいとは言わないんです。なので、お付きの人がそう察して即座に対応しなければなりません。他にもたとえばこんな風な言い方をします。

又或る夏の日の午後に順番を待っている時うしろに畏まって控えていると「暑い」と独りごとを洩らした「暑うござりますなあ」とおあいそを云ってみたが何の返事もせず暫くすると又「暑い」という、心づいて有り合わせた団扇を取り背中の方からあおいでやるとそれで納得したようであったが少しでもあおぎ方が気が抜けるとすぐ「暑い」を繰り返した。(19ページ)


つまり、自分が言わなくても察してくれて、しかもわがままをすべて受け入れてくれる人でなければ、春琴のお世話は到底つとまらないんですね。

佐助がえらいのか、佐助がなんでもやってくれるので春琴がより増長したのかは分かりませんが、この2人の関係というのは、入り組んだやや特殊なものになっていきます。

佐助は春琴の三味線の稽古に毎回ついて行くわけですから、その練習している音をよく聴くことになります。佐助が何を思ったかはよく分かりませんが、やがてこつこつお金を貯めて、三味線を買うんですね。そして夜中にこっそり練習するんです。

それがみんなの知る所となるんですが、そんなに習いたいなら教えてやろうと春琴が言って、春琴が11歳、佐助が15歳の時に師匠と弟子の関係になります。

これが非常に厳しい稽古なんです。激しくののしって、時にはバチで殴りつけるくらい。佐助はよくひいひい声をあげて泣きます。

周りがあまりにもひどいと注意すると、春琴は「佐助は何という意気地なしぞ男の癖に些細なことに怺え性もなく声を立てて泣く故にさも仰山らしく聞えお蔭で私が叱られた」(32ページ)と言い、泣くなと言われた佐助はそれ以来、どんなに辛くても決して泣かないようになります。

春琴が16歳、佐助が20歳の時に、2人を結婚させたらどうだろうという話が出ます。春琴は目が見えないので立派な婿を見つけるのは難しく、佐助ならよいだろうと。

春琴はその話を即座に断りますが、やがて春琴が妊娠していることが分かります。父親が誰かは当然問題となるわけですが、春琴は相手の名前を言いません。

周りは佐助が父親だろうと思いますが、春琴は「佐助どん何ぞ疑ぐられるようなことを云うたんと違うかわてが迷惑するよって身に覚えのないことはないとはっきり明りを立ててほしい」(36ページ)と言い、佐助も春琴との関係を否定します。産まれた子供は結局、養子にもらわれて行ってしまいます。

やがて春琴の師匠が亡くなり、春琴は三味線の師匠として独立することになります。その家に佐助もついて行くんですね。途中からちゃんとした先生についた佐助の腕前も、今では相当なものになっています。

春琴と佐助の関係というのは、公然の秘密という感じなんですが、いつ誰が見てもお嬢さんと丁稚、師匠と弟子のようなかしこまった関係なんですね。周りが結婚させようとしても、春琴は決して受け入れません。その理由はこんな風に推察されています。

但し大阪は今日でも婚礼に家柄や資産や格式などを云々すること東京以上であり元来町人の見識の高い土地であるから封建の世の風習は思いやられる従って旧家の令嬢としての矜恃を捨てぬ春琴のような娘が代々の家来筋に当る佐助を低く見下したことは想像以上であったであろう。(38ページ)


厳しい稽古をつけることで有名な春琴。何度か生徒との間で問題が持ち上がります。やがて春琴の身に思いも寄らぬことが起こって・・・。

とまあそんなお話です。どうやら単なるお嬢さんと丁稚あるいは師匠と弟子の関係性ではないらしい春琴と佐助。春琴が産んだ子供の父親は佐助だったのか? 2人の関係は一体どういうものだったのか? 心理が描かれないので、その辺りははっきりとは分かりません。

やや歪んだ2人の関係性も非常に興味深く、面白いのですが、この後物語は鳥肌立つような展開になります。「鳥肌立つ」という意味合いには2通りあって、まずは単純にぞっとする展開であること。

そしてもう一つは、芸術的にはるかなる高みに行くことです。「三昧境」(72ページ)という無我の境地をさす言葉が使われるようになりますが、春琴と佐助のいる世界というのは、ぼくらが生きる現実の世界とはやや違ったものになります。それがとにかく素晴らしいというか、まさに鳥肌立つ感じです。

周りの人が見た春琴と佐助、春琴から見た佐助、佐助から見た春琴はそれぞれ微妙に異なっていて、中でも佐助から見た春琴の像というのは、注目するに価します。

引用した文章からも分かると思いますが、美しいですが読点(、)の少ないやや独特の文体です。正直読みづらい印象もあるでしょう。

ですが短い作品ですし、これほど男女の究極の愛を描いた小説はそうないので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。おすすめの1冊ですよ。

明日は、島崎藤村『』を紹介する予定です。