ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』 | 文学どうでしょう

文学どうでしょう

立宮翔太の読書ブログです。
日々読んだ本を紹介しています。

 

 

ヘンリー・ジェイムズ(河島弘美訳)『ワシントン・スクエア』(岩波文庫)を読みました。

 

少し前に講談社文芸文庫から新訳で出た『ロデリック・ハドソン』を紹介しましたが、あれが面白くて、それ以来僕の中でヘンリー・ジェイムズの株がめちゃくちゃに上がっていて、今最も気になる作家です。これから色々と読んでいきたいですね。

 

さて、今回紹介する『ワシントン・スクエア』は、ワシントン・スクエアで暮らす、さほど器量がよくはない娘キャサリンにモリスという求婚者が現れるも、父親のスローパー博士がモリスに軽薄なところを見て取って、なかなか二人の結婚を認めようとしない、という物語です。

 

ごく少ない登場人物の、非常にシンプルな筋の物語なのですが、これがまあ抜群に面白いんです。ひたすらに地味な小説なので、おそらく読み手によって好き嫌いが分かれるだろうとは思いますが、個人的にはものすごく引き込まれました。好きですね。

 

娘キャサリンを見つめるスローパー博士の視点に、まさに心理描写が巧みなヘンリー・ジェイムズの筆ならではという感じがあるのですが、冷たいというと少し違いますが、非常に客観的というか、まさに何かの実験を眺めているかのように、常に冷静な感じなんですよね。

 

普通は自分の娘の結婚の問題ですから、賛成するにせよ反対するにせよ、もっと感情的になっていいと思うんですよ。ところがスローパー博士は娘の器量や性格、求婚者モリスの性質を分析して論理的に答えを導き出して、心揺れるところがないのです。

 

また、一方のキャサリンもキャサリンでこれまたちょっと変わっていて、父親を尊敬しやや恐れてはいるけれど、決して自分の我を折らない頑固な部分も兼ね備えていて、そんな風にちょっと変わった頑固な父娘の、日常の中での静かな対決が興味深い作品となっています。

 

淡々とした描写の続く、静謐な雰囲気のある作品なので、刺さる人には刺さる、刺さらない人にはまったく刺さらない、そういう作品だと思いますが、文庫本で350頁ほどの、それほど長い作品ではないので、これをヘンリー・ジェイムズ最初の一冊にするのはかなりおすすめですよ。

 

河島弘美による訳者解説では、『ワシントン・スクエア』はこのブログでも以前(2014.03.25)紹介したことのあるヘンリー・ジェイムズの代表作『ある婦人の肖像』の原型とも言える作品だという見方が紹介されていて、ああ、なるほどなあという感じでした。

 

 

ただ、今の僕はもうすっかり『ある婦人の肖像』のことは忘れてしまっているので、ヘンリー・ジェイムズの他の長編作品を色々と読んだ後で、また改めて『ある婦人の肖像』も読み直してみたいと思ったりしました。

 

作品のあらすじ

 

若くして医師として認められていたオースティン・スローパーは二十七歳の時に、「一万ドルの年収とマンハッタン島一の魅惑的な目を持った若い上流婦人」(9頁)のキャサリン・ハリントンの心を射止め、二人は結婚します。

 

待望の長男は夭折してしまい、次に産まれたのは女の子で、キャサリンは出産した後すぐに亡くなってしまいます。男の子でなかったこと、そして自他ともに認めるすぐれた医師であるにもかかわらずキャサリンを救えなかったことに対するスローパー博士の無念の思いが、女の子に向けられます。

 

女の子は亡き母の名をとってキャサリンと名付けられますが、母の美貌は受け継がず、「醜いというわけではない。器量があまりよくなく、おとなしくてさえない顔つき」(17頁)で性格も控えめ。並外れた娘を望んでいたスローパー博士は落胆したのでした。

 

スローパー博士の二人の妹の内、未亡人となっていた下の妹のペニマン夫人が父娘と一緒に暮らすようになり、一八三五年頃、閑静なところで暮らしたいという願いから、スローパー博士はワシントン・スクエアにモダンで立派な家を建てます。

 

キャサリンが二十一歳になった時のことでした。スローパー博士の上の妹であるアーモンド夫人宅で開かれたパーティーで、キャサリンはとてもハンサムな青年モリス・タウンゼントと出会います。ダンスをし、少し話をしたキャサリンとモリス。

 

それをきっかけにモリスはスローパー博士の家を時折訪れるようになり、ロマンスの好きなペニマン夫人はモリスをちやほやし、キャサリンとくっつけようとします。しかしスローパー博士は、一目見た時からモリスのことが気に入りませんでした。

 

「紳士としての精神がない。人にとり入るのはいやにうまいが、性質は低俗だ」(71頁)口先だけの伊達男であり、自分の財産を使い果たして現在はまともに働いていないことから、キャサリンが受け継ぐ財産を目当てで近付いたにすぎないと結論付けたのでした。

 

キャサリンはモリスから求婚されますが、スローパー博士は二人の結婚に激しく反対し、スローパー博士とキャサリンはそれ以来モリスの話をまったくしない、冷戦状態に突入します。やがて、キャサリンが許しをもらえる時まで、いつまででも待つ覚悟だと言った時のこと。

 

「婚約は喜ばしい影響を一つ、お前に及ぼすことになるだろうな。それは、わたしの死ぬのが待ち遠しくてたまらなくなることだよ」
 キャサリンは目を見張って棒立ちになり、博士は自分がうまい点を突いたことに満足を覚えた。それはキャサリンにとっては、論駁の不可能な自明の理としての力、あるいは漠然とした深い印象をもって迫ってくる言葉だった。しかも、厳正な真理であるとはいえ、自分にはとても受け入れられない、と感じるのだった。
〔中略〕
 キャサリンはこの問題を思いめぐらした。父の言葉はキャサリンにはたいそう権威があるので、思わず同調しそうになるほどだ。そこには恐ろしい醜悪さがあって、間にはさまれたキャサリン自身の弱々しい論理を貫いて、それがこちらをにらみつけているように思われた。しかし、キャサリンの頭に突然ひらめいたことがあった。自分でも、これは霊感がわいたのだ、という気がするほどだった。
「お父さんが生きていらっしゃる時に結婚しなければ、亡くなってからだってしませんわ」
 このキャサリンの言葉は、再び博士には諷刺的警句に聞こえた。強情で頭のさえない人間が皮肉な言い方をするのは珍しいことなので、一つの固定観念をこれほど自由奔放にあやつれるとは、と博士はなおさら驚いた。(175~177頁)

 

スローパー博士は、自分の許しをえずに結婚した場合、財産を一銭も残さないと宣言します。ペニマン夫人は駆け落ちして秘密結婚してしまうことをキャサリンとモリスの双方にけしかけますが、望んだだけの財産のえられない結婚となるとモリスの心は揺れるのでした。

 

お互いに結婚の気持ちは固まっているけれど、具体的な話は進んでいかず、キャサリンとモリスの婚約は完全な膠着状態に陥ります。スローパー博士はモリスのことを忘れさせるため、六ヵ月の予定でキャサリンを芸術があふれるヨーロッパ旅行へと連れ出したのですが……。

 

はたして、結婚を許さないスローパー博士と許しが出るまで待つ覚悟のキャサリンの対決は、どちらに軍配があがるのか? そして、キャサリンとモリスの婚約の結末はいかに!?

 

とまあそんなお話です。スローパー博士とキャサリンはそれぞれ頑固なところがあり、それぞれの立場を決して崩しません。そこで間を取り持つようにスローパー博士にとっては妹、キャサリンにとっては叔母にあたるペニマン夫人が二人の間をちょこまかと動くことになります。

 

このペニマン夫人のちょっとうざい感じのキャラクターが非常によくできていて、決して悪い人ではないんですけど、文学趣味を持っていてちょっとした空想家なんですね。そして秘密が大好きなんです。なので、よかれと思って色んなことをするんですけど、それがまさに大の迷惑で。

 

スローパー博士とキャサリンの間には張りつめた緊張感があるのですが、スローパー博士からはやや軽蔑され、キャサリンからは愚かだと思われているペニマン夫人の軽薄なキャラクター性が、この淡々とした、静かな雰囲気の作品にユーモラスさを与えています。憎めないですね。

 

登場人物は少なく、ストーリーもシンプル。ですが、それぞれの心理に迫る感じに、ヘンリー・ジェイムズ独特の魅力があって引き込まれる、非常に面白い小説だと思います。興味を持った方はぜひ読んでみてください。地味ながらおすすめの一冊です。