ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』 | 文学どうでしょう

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ヘンリー・ジェイムズ(行方昭夫訳)『ロデリック・ハドソン』(講談社文芸文庫)を読みました。

 

講談社文芸文庫には、日本や海外の文学作品が数多く収められているのですが、たとえば光文社古典新訳文庫のように、よく知られた名作を出版しているというよりは、知る人ぞ知る作品をラインナップしているという感じです。

 

大袈裟に言えば、たとえ採算があわなくても出すというような印象の文庫で、そのために価格設定が高くなっています。たとえば、今回紹介する本も2,400円(税別)。文庫の値段設定じゃないですよね。

 

他の文庫のようにめちゃくちゃ売れるわけではないから、値段は下げられないけれど、それでも価値のある作品だからどうしても出版したいという、なんだかそんな想いの感じられる文庫が講談社文芸文庫なのです。

 

文芸評論や昔の名訳など、絶版になっていて今ではなかなか手に入らない本が改めて収録されることが多いのも講談社文芸文庫の特徴で、古き良きものを残そうとする立場として、新訳ブームとはまさに逆行している感じだったのですが、わりと最近、新訳の本が出ました。

 

それが2021年6月に出版された、今回紹介するヘンリー・ジェイムズの『ロデリック・ハドソン』で、60年ぶりの新訳とのことですが、かつて文学全集に収録されたのみで、一般にはほとんど知られていない作品なので、本邦初公開に近い感じだと思います。

 

ヘンリー・ジェイムズ自体は、『ねじの回転』や『デイジー・ミラー』など、今なお読まれている人気のある作家で、その知られざる作品が新訳で読めるということで、うきうきしながら手に取りましたが、これめちゃくちゃ面白かったですね。最高でした。

 

文庫本で600頁近くある長編なのですが、それぞれの登場人物の造形、物語の構造、どこをとっても完璧といってよい作品で、このピースはここにしか置けないというところにすべてが的確に置かれているような、非常に美しい作品だと思います。読みながらうっとりさせられました。

 

ただ、逆にいうと、完璧に近い小説であるが故に、揺るがせないピースが多すぎるので、ある種の魅力には欠けるかもしれません。登場人物が予想外の行動をしたり、意外な物語の展開にはなっていったりはしないわけですから。勢いには欠ける作品かもしれません。

 

個人的には、こうした静かな、限られた登場人物の心理の動きが淡々と綴られていく小説がとても好みなので、毎ページ毎ページめくるのが楽しみで、小説を読むということの醍醐味を感じさせてくれる一冊でした。

 

作品のあらすじ

 

事業で成功した父親の遺産を受け継いだため、働かずに、ヨーロッパなどで芸術鑑賞を趣味としてぶらぶら暮らしているローランド・マレット。時折、マサチューセッツ州にあるノーサンプトンで暮らす、仲のよい義理の従姉の元を訪れます。

 

従妹は、ローランドには時間もお金もあるのだから、「あなたの境遇なら世の中の役に立ちたいと思うのが当然です」(10頁)と慈善や寄付を勧めるのですが、これといった心を動かされるものがないからと、ローランドは気が進まない様子です。

 

従妹の部屋に飾られていた小さな像がふと、ローランドの目に止まりました。あらけずりで欠点がないわけではないが、確かな才能の芽が感じられる像。法学を勉強している二十三、四の若い青年ロデリック・ハドソンがその作者だと聞かされました。

 

ローランドは、若くて才能のあるロデリックを金銭的に援助し、立派な彫刻家へ育て上げることを自分の喜びにしようと決意します。そこで自分と一緒にローマへ行かないかと、出会ったばかりのロデリックを誘うのでした。

 

「方法の一つは、自分一人では使いきれないほど金を持つ友人を見つけ、その金の一部を受け取るのを自尊心から辞退したりしないことだ」
 ロデリックはまた一瞬目を丸くし、顔を紅潮させた。「ということは……」口ごもり、すっかり興奮してきた。
 ローランドも少し赤面して体を起こした。ロデリックも飛び起きた。「こういうことなのだ。ロデリック、君は彫刻家になるのだから、ローマに行って古代美術を学ばなくてはならない。それにはお金が要る。ぼくは美しい彫像が好きだけど、自分で作るのは残念ながら無理だ。注文して作ってもらうしかない。そこで君に一ダースほど注文しよう。君の都合の良い時に作ってくれればいい。前金で支払うから、それをローマ行きの費用にあてればいい」
 ロデリックは帽子を脱ぎ、相手の顔を見つめながら額をふいた。「ぼくが成功すると見込んでくれるのですね!」ようやく声を高めて言った。(43~44頁)

 

ロデリックの家族を安心させるため、ロデリックの母ミセス・ハドソンと、一緒に暮らしている遠縁のメアリ・ガーランドに会い、話をしたローランド。最初は思いがけない話に不安がっていた二人でしたが、やがてロデリックを旅立たせることに納得してくれます。

 

ローランドは決して美人ではなく、控えめな性質のメアリに強い印象を受けました。深く知り合うことなく旅立たなければならないことを残念に思いますが、やがて船の上で、ロデリックとメアリが婚約したことをロデリック本人から聞かされます。

 

ローマに着き、芸術の研究と実作に打ち込むロデリックとそれを見守るローランドは、派手な服を着た中年婦人、昔風の恰好をした初老の男、そして大型のプードル犬をひいた美しい令嬢が連れ立って歩いているのを目撃します。

 

その令嬢の美しさにローランドとロデリックは驚き、特にロデリックは、「美しいなんてもんじゃない! 美、そのものだ! 彼女は美の権化だ。この世のものとは思えない。夢想だ。空想だ。幻影だ」(111頁)と叫ぶのでした。

 

初めの彫刻こそ成功をおさめたものの、段々と行き詰まっていき、いつしか賭博と女遊びにふけって借金まみれになってしまったロデリックをローランドは見捨てずに助けてやります。

 

やがて、以前見かけた、プードルを連れた美しい令嬢であるクリスチーナ・ライトと知り合ったことで、ロデリックの創作欲は再び燃え上がり、クリスチーナに胸像のモデルになってくれるように頼み込み、その制作に没頭します。

 

次第にクリスチーナに夢中になっていくロデリックを眺めるローランドは、華やかで利発で、まわりを振り回す魅力的な美女クリスチーナと、故郷でロデリックの成功を待つロデリックの婚約者メアリの違いについて考えます。

 

そしてメアリは、「もしかすると平凡な顔立ちの場合もあるだろうが、男性を魅することはまれでも、いったん惹きつければ永久に愛される」(195頁)そういうタイプの女性だとローランドは思うのでした。

 

完成した胸像を前にクリスチーナはそれが、まわりの人が自分のことを言うような、無分別な娘の像に見えるかどうかローランドに尋ねます。その人がどういう人間か判断するのに半年はかかるだろうと答えるローランド。

 

するとクリスチーナは、「六ヵ月待ってもいいわ。その代わり、判断の結果を、本当に率直に言ってくださるわね? あたしは忘れませんよ。催促しますからね」(200頁)とローランドに約束させるのでした。

 

ロデリックの婚約者メアリに忘れられぬ印象を持つローランド、芸術的感性に富むローランドの言葉を気にかけるクリスチーナ、クリスチーナの恐ろしいまでの美に引き込まれるロデリック、遠き故郷でロデリックの成功を待つメアリ。

 

絡み合う人間関係の中、ローマでの芸術的成功に賭ける日々は続いていき、やがてクリスチーナは母親が長年望んできたように、立派な貴族の跡継ぎとの結婚話が持ち上がるのですが……。

 

はたして、みなから期待されているロデリックの彫刻家としての運命はいかに? そして、ローランド、ロデリック、クリスチーナ、メアリ、それぞれの恋の行方ははたして!?

 

というお話です。ローランドの心理というのは読者に開示されていて、ロデリックの心も会話からある程度分かるのですが、謎めいたところのあるクリスチーナ、そして遠く離れているメアリの心理はよく分かりません。

 

なので、四角関係というか、誰から誰への恋心の矢印が出ているのか、はたまた感情はどのくらいの強さなのかは、はっきりとは分からないのですが、もつれあった人間関係に面白さがあります。

 

静と動の対比というか、静かさを持つ登場人物と動きやきらめきを持つ登場人物の対照的な感じが鮮やかで、それぞれのキャラクター性に魅力がある小説です。

 

とりわけ、ファム・ファタール的な(魅惑的で、男性を破滅に追い込むような)クリスチーナの歪んだ(あるいは歪められた)感じのキャラクター性はずば抜けて魅力的で、心理が開かれていないだけにこの時本当は何を考えていたのだろうと、より一層興味を引かれます。

 

わりと盛り上がる出来事もなく淡々と進んでいく感じの小説なのですが、登場人物たちの関係性や心理がじわりじわりと変わっていく様が面白く、頁をめくる手が止められなくなりました。面白い小説なので、あらすじを見て気になった方は、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。