エレナ・ポーター『スウ姉さん』 | 文学どうでしょう

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エレナ・ポーター(村岡花子訳)『スウ姉さん』(河出文庫)を読みました。

 

2014年に翻訳家の村岡花子をモデルにしたNHKの連続テレビ小説「花子とアン」が吉高由里子主演で放送されて話題になりまして、村岡花子の翻訳作品が、再び注目されるようになりました。

 

 

エレナ・ポーターの代表作『少女パレアナ』も、2013年には木村由利子訳で『新訳 少女ポリアンナ』として出版されるなど、村岡花子訳のものはなかなか手に入りづらい状況だったのですが、角川文庫から河出文庫に移る形でいくつかの作品が復刊され、手に取りやすくなりました。

 

 

同時期に『そばかすの少年』や『リンバロストの乙女』で有名なジーン・ポーターの小説の村岡花子訳も河出文庫に収録されたので、近い内にそちらも紹介できたらと思っています。村岡花子訳(というかチョイス)は安心して読めるというか、どの作品もやはり面白いですね。

 

さて、今回紹介する『スウ姉さん』は、エレナ・ポーターの後期の代表作でして、いついかなる時でも明るい面を見つけようとする物語『少女パレアナ』とは対照的に、地味な生活にひたすら耐える主人公の物語になっています。

 

物語の中では「じゃがいもの皮むき」にたとえられているのですが、主人公のスウは日々の雑務に縛られているんですね。家族を代表して、生きていくために働き、家事をして生活を回していかなければなりません。

 

簡単に言えば「主婦/主夫」を代表するような主人公で、そうした「じゃがいもの皮むき」に追われる生活は、妹や弟など、常に誰かのために犠牲になり続ける日々なのです。

 

そうした日々に喜びを感じられれば別に構わないというか、誰かのために生きることは、それはそれで幸せなわけですが、スウにはピアニストになりたいという夢がありました。だからこそ、理想と現実の差に苦しめられるのです。

 

そうした理想と現実のはざまで必死に生きる感じが非常にリアルで、それだけに今なお多くの共感を呼ぶ主人公像なのではないでしょうか。この作品の主人公スウと同じように、やりたいことがやれなくて苦しんでいる人は多いはずなので。

 

作品冒頭には「原作者のことば」として、全世界の無数に散らばっているスウ姉さんたちにこの作品を捧げると記されているのですが、まさに日々の「じゃがいもの皮むき」に追われる人々にエールを送る、そんな一冊だと思います。

 

作品のあらすじ

 

ボストンの邸宅で暮らしているギルモア家は、6年前に母親が亡くなってからというものの、家のことは何でも20歳を少し越えた長女スウにまかせっきり。「スウ姉さんに聞いてごらん」というのが、父親の口癖なのです。

 

ティーンエイジャーの妹メイや弟ゴルドンもスウ姉さんに頼りっきり。そんなスウ姉さんには夢がありました。ピアニストになりたいのです。イタリア人のバルトニ教授に認められたスウ姉さんの耳には、無数の聴衆のアンコールを求める声が聞こえてくるようです。

 

楽しい時、辛い時、いつでもスウ姉さんは自分の気持ちをぶつけるように、ピアノに向かうのでした。しかし、スウ姉さんが言わば職業婦人になることに対して、家族、そして小説家を目指している恋人マルチン・ケントはなかなか認めようとしません。

 

家を離れて、ニューヨークやヨーロッパへ音楽の勉強をしにいきたいと思っていたけれど、ケントの熱のある説得で心が揺れるスウ姉さん。そんな中、驚くべき知らせがギルモア家にもたらされます。父親の経営していた銀行が破綻してしまったのです。

 

ただお金を失っただけではなく、強いショックを受けた父親のギルモア氏は痴呆症になってしまい、なにもかも分からない、おびえた子供のような状態になってしまったのでした。スウ姉さんは父親の面倒を見なくてはなりません。

 

銀行破綻のため、邸宅のものをすべて、大切にしていたピアノも、売り払ったギルモア家は、一家の出身地であるギルモアビルという田舎町に引っ越すことになりました。唯一その町にあった別荘だけが財産として残ったから。

 

都会の暮らしに慣れたギルモア家の面々は、田舎での暮らしになかなか馴染めません。部屋の調度品は粗末で気に入りませんし、人々の好奇の目は苦しく、ピアノは古いがらくたのようなものしかありません。

 

ガスも電気も自動湯わかしもない台所では働けないと料理人も去っていってしまい、スウ姉さんはやむをえず、今までにしたことのない料理と取り組むこととなりましたが、いいものは作れず、妹や弟からは不平不満が飛び出します。

 

小説家を目指している妹や、ちゃんとした仕事につけるよう、いい学校に行かせてやりたい弟の教育の資金のため、そしてなにより生活をしていくためには、なんとかしてスウ姉さんがお金を稼がなければなりません。

 

目の離せない父親の面倒を見ながら自宅でできる仕事として、田舎町の子供たちにピアノを教えることをまわりの人からすすめられますが、自分のピアノの腕前にかなりの自信があるスウ姉さんは、なかなか気が進みません。

 

唯一の相談相手で、自分たちがいない間、別荘の管理人のようなことをしてくれていたプレストン小母さんに相談すると、つまらない仕事ではない、どんなに高い建物でも、土台がしっかりしていなきゃ駄目だと諭され、はっと気づかされます。

 

「全く、小母さんのいうとおりよ。じゃあ、あたし、これからその土台石を据える役目をしましょう。あたしは、まあ、たとえていったら、大宴会のご主人役になって、すばらしい七面鳥の丸煮を器用な手つきで切り分けようと思っていたのが、急に役が変わって、台所の隅っこへ押し込められて、じゃがいもの皮むきをさせられたようなものなんですよ。だもんで、賑やかな食堂のことを考えると、妙に情けなくなるっていったようなものなんですのよ。
 ギルモアビルの子供たちのピアノの手ほどきじゃあねえ……。自分ながらみじめになっちゃうわ」
「七面鳥とじゃがいもじゃあどっちも負けず劣らず大事な材料だと、わたしなんぞは考えますがねえ――。じゃがいもがなくって七面鳥の丸煮ばっかりじゃあ、どうにもしようがありゃしませんよ」小母さんはスウの感傷的な気分なんかいっこうにかまいつけなかった。(124頁)

 

ピアノの先生として日々の生活に追われるスウ姉さんは、恋人のケントがはるばる訪ねてきてくれても、なかなか相手をすることができず、文句を言われてしまいます。自分の夢の実現を延期して、妹や弟の教育のための資金を貯めるために必死でがんばるスウ姉さん。

 

やがて、ギルモアビルでは、計画中の公会堂建築費を集めるために、「帰郷週間」(オールド・ホーム・ウィーク)という催しが開かれることになりました。そこでピアノを弾くことを頼まれたスウ姉さんでしたが、あることを思いつきます。

 

ギルモアビルには何人かの有名な出身者がいるので、その人々を呼ぼうというのです。野球選手のカイ・ベロウス、小説家のケート・ファーナム、オペラ歌手のビオラ・サンダーソン、ヴァイオリニストのドナルド・ケンダル。

 

特にドナルドは近所に住んでいて、ギルモア家とは子供の頃からの知り合いでした。ドナルドは大将のような態度を取る、癇癪持ちの嫌なやつで、スウ姉さんや妹のメイはよくいじめられていたのですが。

 

そういうわけで、スウ姉さんは「帰郷週間」の催しを成功させるために、ギルモアビルの著名な出身者たちに依頼の手紙を書くこととなったのですが……。

 

はたして「帰郷週間」の催しはうまく成功するのか? そして、ピアニストになるという夢を持ち、日々の生活を奮闘しつづけたスウ姉さんの人生に待ち受けていたものとは!?

 

というお話です。自分のやりたいことと、嫌々ながらもやらなくてはならないことが、七面鳥の丸煮の切り分けとじゃがいもの皮むきとして対比されているわけですが、その感覚、すごくよく分かる気がしませんか。

 

そうした理想と現実のギャップは、スウ姉さんと似たような立場の主婦/主夫の方々なら特によく理解できるでしょうし、あるいは学生の方々でも、共感しやすいのではないかと思います。

 

割きたいところに時間が割けず、「じゃがいもの皮むき」で疲弊する日々の苦しさ。そうした部分が理解しやすいだけに、スウ姉さんに感情移入しやすい物語となっています。面白く読める一冊だと思います。

 

なにせ1920年に書かれた本なので、物語全体のテーマとして、現代的な価値観とは合わない部分もあると、川端有子氏の(やや辛辣な)解説で指摘されていて、その点はぼくも感じなくはなかったのですが、伝えたいメッセージ性が真っすぐな作品なだけに、読後感は非常に爽やかでした。