ルシアン・ネイハム『シャドー81』 | 文学どうでしょう

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ルシアン・ネイハム(中野圭二訳)『シャドー81』(ハヤカワ文庫NV)を読みました。

 

昔(七、八年前とか)このブログをよく書いていた頃、なにかのきっかけで『シャドー81』が冒険小説の名作だと耳にして、その時すぐに買って何度か読みかけていたことを覚えています。でもその時は最後まで読み通せませんでした。

 

それと言うのも、普通クライム・ノベル(犯罪を主に描いたもの)は、犯罪者の心理が明らかになっていて、そこに怖いものみたさというか、ぞくぞくするような面白があるか、あるいはそれとは真逆に、被害を受ける側の恐怖がスリリングに描かれていることに面白さがあることが多いです。

 

しかし『シャドー81』は、犯罪をする側、そして被害を受ける側のどちらにも寄り添わない不思議な小説。なので、簡単に言うと主人公ですが、読み手が感情移入できるようなキャラクターはいません。物語の半分くらいまで、読み手は何が起こっているのかよく分からないのです。

 

変装した人物が船を買うとか、政治家の様子が描写されるとか、途中まであちらこちらと断片的に場面が飛んで、何か大掛かりな犯罪計画が行われているらしいけれど詳しくはよく分からない、淡々とした描写が続く作品で、三分の一くらいまで読むと僕はいつもそこで頁をめくる手が止まってしまっていました。

 

たとえば、みなさんが友達の恋バナを聞くとするじゃないですか。そうすると、同じ出来事が語られても、彼氏側、彼女側のどちらの言い分を聞くかで、出来事の印象ってすごく変わってくると思うんです。彼氏側の友達だったら彼氏に味方をして、逆に、彼女側の友達だったらそちらに味方をしたくなる、それが普通だと思います。

 

誰がどんな風に語るかはとても大事で、そんな風に小説でも、犯罪者側とか被害者側とか、誰のどの立場の目線によって語られるかによって印象というのは大きく変わるものですが、『シャドー81』はそういう風な、起こっている出来事をつかむとっかかりの人物が存在しない小説なので、僕にとっては結構読みづらい作品だったのです。

 

ずっとそんな印象だったのですが、今回改めてというか初めて最後まで読んでみたら、いやあやっぱり面白かったですね。文庫本で500頁ほどの作品ですが、200頁目まで来てようやくどういう物語なのか(まあ、ハイジャックなんですけど)が分かり、そこから先はノンストップ的に引き込まれていって、最後はまさに大興奮ものでした。

 

作者のルシアン・ネイハムは、著者略歴によると新聞記者をしていた人だそうです。なるほどまさに新聞記事を思わせるような、客観的な、淡々とした描写の連なりからなる作品。そういった表現方法でしか生み出せない鮮やかさみたいなものがあって、1975年に発表された作品ですが、今なお新鮮な読後感のある作品でした。

 

作品のあらすじ

 

ベトナム戦争の舞台となったダナンの上空、猿山(モンキーマウンテン)を最新型ジェット戦闘機TX75Eで仲間とともに飛んでいたアメリカの空軍大尉グラント・フィールディングは、爆撃作戦の最中、行方が分からなくなってしまいます。

 

「……排気装置が両方ともいかれてしまいました……上昇しようとしているのですが……せめてあの山を越えるだけでも……」(85頁)というグラントの通信の様子からすると、敵から攻撃を受けて操縦不能の状態に陥ってしまったようでした。

 

TX75Eは貴重な戦闘機なので、敵に奪われてはまずいことになります。脱出できたのかどうか分からないグラントの生死も含めて、消えた戦闘機の捜索がなされますが、猿山で粉々に砕け散ったのか戦闘機は見つからず、グラントはそのまま戦死扱いとされたのでした。

 

一方、香港で造船所を営んでいるジミー・フォンの元に、ハロルド・デントナーと名乗る西洋人がやって来ます。ぼさぼさの髪、濃い色のサングラスをして、口ひげとあごひげに覆われたデントナー。変装をしていることは明らかです。

 

デントナーは三十トンの荷重に耐えられる特別な船を一隻注文し、大型のモーターボート代わりのおんぼろ漁船も買い入れます。フォンは薬物の密貿易に使うのかと考えますが、デントナーはそういうタイプには見えないので、武器の密売人に違いないと思うのでした。もっとも、お金さえ払ってくれれば何の問題もありません。

 

船が完成するまでの三週間、デントナーはほとんどホテルの部屋にこもりきりでしたが、マネキン工場、服飾品店、軍の放出物資を扱う店、ドラッグストアに行き、スキューバ・ダイビング装具一式や眠気止めの薬など、様々な道具をそろえていきます。

 

完成した船〈ソリチュード号〉で航海を始めたデントナーはやがて、南シナ海上にあるパラセル諸島の最東端にある島に到着しました。いくつかの国が権利を主張しているが故に、紛争を恐れて今はどの国も近づかない無人の島。そこに船を隠すと〈プライバシー号〉と名付けた漁船で香港に戻り、デントナーは空港から飛行機で飛び立ったのでした。

 

一方、行方知れずとなっていた空軍大尉グラント・フィールディングはレーダーに見つからないよう、高度や速度を調整しながら慎重に飛行を続け、パラセル諸島の島に到着すると戦闘機の翼、胴体、尾部のマークをペンキで塗りつぶします。そしてソリチュード号に戦闘機を載せて網で隠すと、航海を始めたのでした。

 

自分の戦死の知らせを聞かされた両親の気持ちを思うとグラントの胸はうずきますが、仕方ないことだと自分に言い聞かせます。航海中は退屈なので本を見ながら磁石式チェス・セットでアメリカのボビー・フィッシャー対ソ連のボリス・スパスキーの世紀の対極通りに駒を並べたり。

 

やがて海上でアメリカの二つの軍艦、ニュージャージー号とエンタープライズ号に思いがけず出くわしてしまい、驚いたグラントの胃は締めつけられます。万が一、不審に思われて点検されたら一巻の終わりです。なにしろひそかにジェット戦闘機TX75Eを積んでいるのですから。

 

グラントは、もし軍艦に行く手を塞がれたらソリチュード号を爆破してすべての証拠を消す他ないと覚悟を決めますが、こちらの船を観察しているらしきニュージャージー号とエンタープライズ号の無線のやり取りが受信できたので、マネキンが並べられたサンデッキへと駆け出します。

 

「よし、よし。ほかに何が見える、ローゼンソル? 甲板の上のことだが?」
「テーブル、椅子、アイスボックス、ビール……待ってくださいよ……椅子に若い女性が一人います」
「で、その女の様子は?」
「少尉、ブラジャーを着けておりません……眠っています……トップレスです」
「そうか……続けたまえ……」ベイカーは生つばを飲みこんだ、どうやら興味津々のようだ。
〔中略〕
「ベイカー少尉、見たとおりを申し上げればよろしいのでしょうか?……つまりその……率直に申し上げてかまいませんか?……」
「もちろんだとも、ローゼンソル。早くしたまえ。ぐずぐずしてると日が暮れちまうぞ」
 グラントはデッキの上で両手に缶ビールを持ってふりまわしながら、気が触れたようにジグを踊りはじめた。
「これはパーティです……なにか乱痴気騒ぎをやっているようです……きっと堕落した変態の集まりですよ、少尉……待ってください……船名がわかりました……ソリチュード号というのです」
 ローゼンソルは腹をかかえて笑った。
「ソリチュード号ですとさ」と彼は繰り返した。「おふざけもいいとこです……海の上の売春宿であります、少尉」(129~131頁)

 

それからしばらくの日が経って。パシフィック・グローバル航空81便のジャンボ・ジェット機は、管制塔の許可を受けて、滑走路から飛び立ちました。するとバートン・ハドレー機長は奇妙な通信を受けたので怪訝そうな表情をします。それは「PGA81便、貴旅客機はただいま乗っ取られたことを通告する」(204頁)というものでした。

 

なんと、武装したジェット戦闘機がぴたりと後ろをつけてきているのです。もし攻撃を受ければジャンボ・ジェット機は、187人の乗客の命もろとも海のもくずとなることは疑いようがありません。「シャドー81」と名乗ったハイジャック犯は、二千万ドル分の金塊を要求して……。

 

はたして、前代未聞のハイジャックを受けたジャンボ・ジェット機の命運やいかに!?

 

とまあそんなお話です。ジャンボ・ジェット機の機長、管制官、乗り合わせた政治家、捜査にあたるFBI、事件のことを嗅ぎつけた記者、そしてもちろん犯人のシャドー81など、様々な視点からこのスリリングなハイジャック事件が語られていきます。

 

ハイジャックが実際に起こるまでは、明かされる情報が少ないですし、色んな場所に視点が飛ぶので、一体何が起こっているか全体像が分からなくてやや読みづらいのですが、事件が動き出してからは抜群に面白いです。一体どんな結末になるのかと物語にすごく引き込まれました。

 

ハイジャック犯や、あるいは銀行などでの立てこもり犯を描くクライム(犯罪)ものって、わりと膠着状態がずっと続くというか、物語としては動きがないものになってしまいがちなものですが、様々な視点から描かれることで、この作品は必ずしもそうなっていないところに独特の魅力があると思います。

 

地味なようでいて今なお新鮮な驚きが秘められている、『シャドー81』はそんな小説で、冒険小説の名作と言われているのもうなずける感じでした。多くの冒険小説が持っている「ロマン」には欠けますが、こういう小説はこういう小説でまた面白いと思うので、おすすめ度はかなり高いです。興味を持った方はぜひ。