鳥が羽をパッと広げるさまが

“非”で

打ち消す意味を指す。

(諸説あるうちの、今回は“感じの漢字” 高橋政巳著より)



その“非”からの音で

「悲」は形成されているけれど

上記の意味から


心がそこに非ず…悲しいことを

表しているのかなぁと

思うんです。




なんでわたしだけ
いつもわたしだけ
こうなの?


もうダメだ。

先行きに望みを持てない時は

生きていれば

必ず在ります。






楽観的に考えるより

悲観的な考えに

考えるほうが

簡単だなあってわたしは思います。



昨日片付けものをしていて

いろんなものを手にしながら


過去から

今を振り返ったとき

『わたし、全然前に進めてない』

って思って


自分にめちゃダメ出ししてたら

だんだんに

ネガティ部発動…(苦笑)


大事なときこそ


楽観的になること


なれ!と言われると



無理!!って

思うことも多いんですよね。



だけど

悲観的になることって


ほんとに楽だもん。

(易しい)


しかし、シンドイ…



なら


トコトンそんな自分に付き合って


認めてあげて


グッと眠ってみたら


少しは楽になるはず。




だと、思っていたら


フェイスブックで

面識のない方からの

嬉しいメッセージを

頂いたりしました。


それだけで

救われた気分になりました。

ありがとうございます。



捨てる神あれば拾う神あり


本当にその通りです。


そして

不安の先取りは

やめましょうねー



『感じる書』アーティスト 石川呼穹



















“木”を

己の“目”で

じっと見つめる。

そのようすが“相”。

心に

相、対することが

その気持ちが


「想」

に、表されている。




朝方
変な夢見たんよね…



場所は空港。


書塾の姉弟子ご夫妻や
他の塾生数人で
海外旅行に行くのにみんなで
空港に向かっていて


わたしは
古いパスポートのまま
しかも更新し忘れてて

多分行けないなぁ…って思っていて
(うん。それは絶対に行けない)

それをみんなにいつ言おうか
空港に着いてからも言えずに
いる自分…


って夢。


起きてからも

何でそんな大事なこと
言えへんねん?


自分のことにムカついて
自分にダメ出ししてた。

夢なのに(笑)

ま、本当にパスポートの
期限は切れているんだけどね。

とっくに。



どこかへ遠くへ(近くでも)
行きたいんよね。


でも、心のなかで

今は行けないって
ずっと思ってる。


↑だからここ数年
まともに
大阪から出て行けてない。

至極当然。
(苦笑)

来年こそは
またいろんなところに
出かけたいな。

それをするには?って

この夢を見てから
また
自分に問いかけている。

むしろ

既に

旅をしている自分を
想像することも

大事なこと。



でね、

このところ

少しずつ

部屋を片付けているのだけれど


なぜ
そんなに物を処分できないのか?

って考えたとき

その物に 

その当時の
それぞれの
想い出があって

目につく毎に
思い出してしまうから。


そんな時間すら
許されないときには
(引っ越しを迫られていた!)


片っ端から 

捨ててゆくしかなくて

捨てて後悔したものも

あるのだけれど…(苦笑)



捨てはしないのだけれど


過去の作品で
まだ手元にある物を
確認する作業においては

書いた頃の想いや

手にして

今に至る自分を振り返る。



その想いに耽る自分。

初心までも
包括しながら

如何に次に明確に
歩むべきか?


想いは果てない。


そして
そんな想いは
夢にも表れる(苦笑)


そこかしこにそれは在る。


また

何かと見た夢にも

日頃の「想」いが

集約されているのだ。




『感じる書』アーティスト 石川呼穹







木立の枝の上に神がくだる

その神気にあうことを

意味する字。


「逢」




先日の書塾展での
或る出来事。


毎回訪ねてくださる
塾生の知り合いのお客様

展示が始まる
1週間前に
奥様が先立たれたばかりだった。

去りゆくときの
余韻を感じる

『ごきげんよう』

という作品の前で
心がホロリとして

幾点かの作品をはさみ
最後の方で


『逢いたい』

という作品を目の前に
説明する側も
思わず

そのお客様と一緒に
泣いてしまった。


同じ作品を
鑑賞しても

それぞれの状況や
想いによって

感じかたはいろいろ。


そこに
ダイレクトに訴えかけるのも

また
想像をかき立てられるのも

書のよさ
文字のよさ
ことばのよさ

だなあ…と

わたしは思う。


“逢ってみたい”人には

ドキドキしたり
ワクワクしたり



“また逢いたい”人には

キュンと切なかったり


“もう逢えない”人には

さみしさがひときわ身に凍みる。



『逢いたい』


という作品の前で

今のアナタなら

何と感じますか?



人は出逢いと別れに
様々な想いを
巡らせる。



そして
人が生きているあいだの


偶然の出逢いですら
必然だ。


わたしとも

出逢ってくださり

本当に
ありがとうございます。



わたしは
また

逢いたいです。



『感じる書』アーティスト 石川呼穹








窓から

月光が入り込む意。

そこは

神を祀るところであり

神明の意がある。

幽に対する語。

幽界のことが明顕の世界に

あらわれるとされた。

(白川静 著 『字通』より)


おひさまみたい?

お月さまみたい?


「明」


“日”+“月”と書きますが

“日”の部分は
実は窓を指す

“冏”(ケイ)という別の文字。

昔々は
夜何よりも明るかったのは

月あかりだったからでしょう。

「明」は

元々神明をむかえるところを
表すこともあり

だからその場所は
明堂と云われるし

ご神水を
明水とも云われるのも
そういうことから。




ところで


わたしはどちらかと言えば
性質的には

アカルイほうです。

思えば幼稚園のころから

通信簿の所見には

「明るく活発」って

書かれ続けてきたわー


今となって

本当のところは

どう見えるのかしら?(笑)




もちろん
ネガネガな部分も

かなーーーり

持ち合わせては
いますけどね(笑)


『感じる書』アーティスト 石川呼穹 でした。




わたしは
2001年から

師匠(牧田悠有)について
書いています。


気軽に写経したり

ちょっとした
書き方コツを
習っていただけるような

ワークショップもしたいなあ。

って
教えるというか
参加されてる方と
一緒に楽しむ形の会を
開きたいなあ。



自分が独り
落ち着いて書ける

ちいさな空間を
まず得たいし

そこでそんなささやかな
集まりの場を持ちたい…


ちょっとした
理想というか

身近な希望。


とか思う今日この頃…


『感じる書』アーティスト 石川呼穹です。






何度も何度も
繰り返すこと。


「習」


神前で

祝祷(祝詞)を

収める器(口)の上を羽根(羽)で摺って

その祝祷の呪能を刺激し

その様な行為を繰り返すことを

意味する字。




所属しているartclubの
書塾展が
催されている折柄


“書道”と“習字”との違いって?


と、尋ねられることも
少なくないのですが

答えとして
本来その
明確さはないかも
知れないけれど

書法は芸術の1分野として
“書道”と言われ

(成り立ちを調べる際の参考書、白川静先生の辞典より)

なので

“習字”は見たまま字を習うことで

そこから得たものを表し

作品として生み出す行為が

“書道”なのだと

わたしは思う。


よくよく考えたら

“書道”展とは云うけど
“習字”展とは云わないよね(笑)



今日は14回目の
書塾展の最終日。

11時から14時すぎ迄
大阪は道頓堀
松竹座前のギャラリー 香に
わたくしめも
在廊しております。



出した作品

また此処にも

あげてみますね。









わたしは

厳しい。


もちろん

自分にも。




なんのことかというと

お客様と接しているときの

表情のことだ。




基本的だけれど

本当に

表情がない人固い人

いるなぁって。


昨日

お好み焼きとたこ焼きを

食べに行ったんだけど

繁盛店でね

すごく活気があるなかで

一人担当の女の子が

無表情だったの。


気づいていない系。


攻撃は

最大の防御って

いわれるけど

笑顔もそうだと思う。



ただし
使い方を誤ると
相手側を
憤慨させる時もあるので
注意なんだな。
決して笑顔で謝ったらだめです。
笑顔が美しければ美しいほど
余計に腹が立ちます。
(それ間近でみたもん)


どうかすると

忘れてしまうことがある。

誰かに指摘されるまで

まったく気付かないことがある。



それどころでは

無いときもある。


だけれども

たった数秒で

一瞬だけでも

心までも

解きほぐす。

そんな作用を

信じてみよう。



文字の成り立ちとしては

巫女が手を挙げて

首を傾げて舞い祈るさまだとか。


竹は両手をかざした形が

たまたま竹の形に字形化されたもの。


笑みながら

踊る…



あ、盆踊りとかも???


古代では

神意までも

和らげようとするもの

だったらしいから。



『感じる書』アーティスト 石川呼穹










アーティストとして

わたしに
何ができる?

∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞

お勤めのお仕事も
1年8ヶ月が経った。


2年前の年末ごろより

とにかく生活のために
稼がないと…と
藁をも掴む思いで
新しい勤め先を求めて


ほんと
何とか決まった。


就職としての
資格は特になかったし

ま、若くもない…(苦笑)

うん、実際事業所では
いちばんの年長者だしねー(笑)



思っていた以上に
やるべき沢山の業務があって


端末の操作とか業務のやり方は
日々バージョンアップ的に
効率化を求められる。


社会人てして積み重ねてきた経験が
何とかわたし自身をカバーし


個人的に無器用だから
周りに助けられながら
今も続けている。(有り難い!)


面接のとき
「どれくらい(期間)働けますか?」
って言われて


3年も4年も先のことなんて
年齢的にも全く考えられないと


「正直、2年までくらいかも」
答えたと思う。(正直すぎ)




が、年を越すと丸2年。(笑)


思えば事務畑で過ごしてきた
長き前職より
接客の仕事が好きだし

きっと向いていたのかなと
今頃気付く(苦笑)


こんな接客のお仕事なのに
必要とされる

語学力は全くなくて
新しく入る人はみな
バイリンガル以上なのに
(だけどわたしは採用してもらえた)

しかもそこは
逃れられず
夏から
英会話のレッスンに行き始めた。

ふとリビングでね
その「いこーーう!」って
いうことが

いとも突然に
浮かんできてね

紹介とかもなんもなくて
前の住まいでシェアハウスの
すぐそばだったりもして

直感で選んだところに
なぜか通ってる。

↓毎回撮りますから!
と、先生には付き合わせてる(笑)



それは“危機感”から


ではなくて

使う機会があるうちに
少しでもコミュニケーション力を
つけたいって思ったからだ。



あと

そんなこと
やってる場合?

とも思ったけど
淡い希望として


自分の書について
外国の方にも伝えられたら…って
少なからず思ってた


と、言うか


体験レッスンが終わり
本レッスンの
コーディネートしてもらう時に
わたしは
そこを熱く語っていた…(苦笑)


(ガッツリやん)



「なーんだやっぱり忘れてない」

って思った。



(あたり前田)



∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞+∞

じゃあそんなことまで思う
わたしに


何ができるのか?
プラス
何をしたいのか?
何をすべきなのか?



お勤めの仕事に
慣れてきたし
多分そこでのポジションは
ある程度確立されてきた今



自分に
問う。


これ
何度となく
問うている。(苦笑)

「形を成すものを
提供できるじゃない!」

と、言われ
日々考えるわたし。

アーティストとして
わたし(の作品)が
求められるとしたら
どうしたらよいのか?を

自分の作品を眺めながら

あらためて
問うている。




『感じる書』アーティスト 石川呼穹







『言うは易く行うは難し』

と、
諺では
いうけれど

「言」の一文字の中に
もう既に

そのすべてが
含まれているように
わたしは思う。





とても辛口なのだ。


見た目だけではなく
全くもって
甘口とは思えない

「言」
という文字の
おはなし。



成り立ちとして

辛+口

で、「言」は構成される。



古代では

“辛”は
刺青を施すための鋭い針

“口”は
誓約書を入れる器


神前での儀式として

その針と
神と契りを交わす文書を
書き記した物とを置いて
自らの誓いをたてる様子から

「言」となったらしい。


自らの誓いに反した場合
入墨という
厳しい刑が待っている。


だから
刺青用の針を目の前にして
神に約束をするのだ。



冒頭に話を戻すと


『言うは易く行うは難し』

この諺は

「言」という文字の
成り立ちに
集約されているんだなあと

調べている間に
感じたわけで…





そして

そこから

人偏に言の

「信」の

存在を考えると

如何にまた
この一文字に

大切さが
込められているか?と

これも
うかがい知れると

思いませんか?



今日の一文字は

「言」でした。


『感じる書』アーティスト 石川呼穹







見たまんま(笑)

「人」

人間って
二足歩行になって


最初は
今みたいに背筋伸びて
いなかったんだろうなあって
文字1つ取っても
そう思わされる。

横から見たまんま。


人偏として
文字が構成されるとき
漢字の成り立ちでは

「人」とは

男性のことを指す。

なので
社会における
人間関係の様子から

これも?あれも?って
生まれた漢字は多いようだ。


「比」の

“匕“ 

↑これ、二つは人。

人の背中を見てるの。
面と向かってないよね。

人の背中を眺めながら

人って
他人と比べてる。

そんな様。


もうひとつ挙げると

「北」もそうらしい。


こちらは人が

背中を向けあってる。

だから
北は

寒いんだって…

人間関係から
方位を指す文字が生まれたの?

ってスゴいな…


※参考文献※『感じの漢字』高橋政巳著





でね、

なんで今日書いたのは

「人」なのかは

こう思ったから…




“いい人”やめよう。



昨日お仕事していて
あった些細な出来事で
想ったこと。



子供の頃から
特に思春期から現在に至るまで 
わたしの

“いい人”の呪縛は続いている。



きっとそれは
わたしの特性。

わたしの
良いところ。

はたまた
優しい部分でも
ある。


…だと思って
やって来たのだけれど
(実際そうだし)



はっきりいって
ものすごく疲れる(苦笑)




“いい人”やめよう。

今更だから
一変は出来ない。
ちょっとずつだけどね。


だけど
良いところとして

こう感じた時は

自分のこと
褒めてあげよう。


とも思った。





今回書いたものを

スマホのアプリケーションで
それぞれ
編集してみたのだけれど

なかなか面白いね。


10月15日の一文字は
「人」でした。

今日も
長文だったな(笑)


『感じる書』アーティスト 石川呼穹








巷では

『熟成』された
(名付けられた)もの

が流行っているような昨今。



味噌やお酒は
よく知っているけれど

肉や魚は

そんなに知らない。


何でも
『新鮮』なのがいちばん
良いわけではないってのは解る。


日本語で
難しいのは
この『熟成』のように

ひっくり返して
『成熟』とも使えるところも
その一つだと思う。


『熟成』は
どちらかと言えば

させる方

『成熟』は
どちらかと言えば

する方

な感じ?かなあとか
思う(笑)

でも
『機が熟す』るタイミングを
見守りながら
待ってることには
変わらない気もするし…(苦笑)


でね

夜中眠る前

またこれが
茹で卵の
『半熟』についても
考えたの(笑)

トロッとした黄身の
茹で卵は
『半熟』で
固茹でパサッとした
黄身の茹で卵は
『完熟』?か?


って
感覚からしたら
変な感じでね



ま、どっちでも
いいんだけど(笑)



人によっては
固茹で卵を
『完熟』って表現しても
違和感ない方もいらっしゃって

調べてみたら
こんな
表現もあるみたい。



わたしが

『熟』で思うことは


本当に『熟女』好きな男性は
存在するのか?ってこと(笑)



なんて
これも
どうでもいいか?



あ、このオチのあとに
自分の画像

いつもみたく
貼りたくないなー(苦笑)


でも貼るよ↓
(英会話の先生と毎回レッスン後撮ってる!)