「変わらないね」

が、嬉しい時。




「変わったね」

が、嬉しい時。








面白いことに

変化”については



中身次第なんだけど

真逆のことなのに


両方とも

言われて


嬉しいと感じることがある。







変わらない?



不変な部分とは

何だろう?





変わった?


進化した部分とは

どこだろう?







変われないね


と、言われたら

傷つくのだろうか?


溜め息が

止まらなくなる?



面と向かって

そう口にする人は

なかなかいないとは

思うけれど


わたしから見て

他人が目に見えて

変わった!と思うように


他人は

わたしの変化を

目で見て感じているのだろうか?









問題は


他人目線でなくて

自分目線で見るということ。

比べないこと。



そして

“変わらない”わたしの良さを

に持ち

“変わった”は

変われたと認めてあげる…



たとえ

ちいさくても

変化は必ずあるということを


さらなる変化に向けて

少し確認すべき時が


約2週間後

誕生日を迎えるにあたり


来ているのかなと

思う。



わたしの生活での変化は

激しく



反して

わたし自身に関しての変化は

とても

スローだ。と、思う。



拗ねるは簡単。


切り替えは

重要事項。



自分目線での

適切な取捨選択が

変わることへの

大事な鍵となる。



(そしてスマホからの投稿は、相変わらずデカい…↓)



『感じる書』アーティスト 石川呼穹






このような形から

まったく想像に及ばない

そんな漢字が

多く見受けられるのは

見たまんまなだけではないから




糸の末端を結んで止めること。

すなわち終結の意である。

その全体を始終という。

終天とは永遠の意である。

「終」

(白川静著 『字通』より引用)



終わらせたい気持ちがある。

反して

終わらせたくない

わたしがいる。


糸が

彼方に繋がっていることを

いつまでも信じているが


千切れていれば


もはや

その糸の末端を結んだところで

既に

終わりは迎えている。


糸の繋がりを

確めるために

コチラから引っ張ってみても

誰にも

何も問題がない。


ならば

もう一度引っ張ってみようか?


冷たい朝

冬の始まり…

終」の読みの元は“冬”だ。



『感じる書』アーティスト 石川呼穹







山の如く

不動であることも

また逆に

水の如く

柔軟に形を変えることも




それぞれのフェーズが

相まってこその



ありのまま。





“女”と“口”からなる

「如」

女は手をクロスさせて

神の前に跪づくさまを

口は祝詞を入れた器を

意味している。


巫女は

神の前で舞う。


舞うことでエクスタシーを

得た状態で

神託を受ける。



“そのとおりである”
“同じようである”
“そのまま” 
“ごとし”
“ごとく”


その神託にしたがうことを

信じ、そして絶対だった。





実は

毎日自分に起こったことや

感じたことから

こうして一文字を書いてるわけですが




スムーズに表現できなくて

これまでも

ここでやめてしまったことも

多々ありました(苦笑)



今日も

よく似た

特にこれといったエピソードも

思い浮かばない感じで

お話を

進めています(笑)


 


そんなとき

如何にして

一文字を

伝えられるか?


から


わたしの今日の

「如」の一文字につながる


キーワードとなりました。


短めに


明日になる前

ギリギリに


今日はこんな感じで

失礼します。




『感じる書』アーティスト  石川呼穹


英会話の先生と↓






今年もあと
ふた月となりました。

季節は刻一刻と
移り変わります。

空気も
ヒンヤリを超えて

冷たい季節を
迎えます。



だけども11月は

わたしの生まれ月!


「寒」


屋内に

草を積みあげ

人がその中で
寒を避けている形。

二横線は
敷きものの形で
衽席(寝床)のうえに坐し
草を積んで寒気を防ぐ意。




(白川静著 『字通』より引用)



すっかり寒くなってきましたー!


ベッドの中から
出たくない…(笑)

昔の人も
だから工夫をして
過ごしていたのです。


ベッドのなか
今は一人。

ヌクヌク
互いの温もりを
分かち合いたい相手は
いないんだけど(笑)



いつも
お布団のなかで
思うのは


温かいって
イコール
幸せです。

ってことです。




『感じる書』アーティスト 石川呼穹









心意の定まらぬ、おぼろな状態。

後ろを顧みて立つ姿を表す
文字上部に

心を付けて

後ろに心を残しながら

立ち去ろうとするさまを
巧妙に表現した一文字。

(白川静著 『字通』より引用)



本来の成り立ちには
そんな意味合いがある。

たとえば
愛する人の元から
去らなくてはならなくても
心は残して
向かうべきところへ。


そのような情景を
想い浮かべてみる。

そこに「愛」は在る。




「愛」は完全無欠

ではない。


先日書いた「無」とは違って
かたちがあるようで
ない。


「愛」さえあれば…

でもない。


おぼろで
後ろを顧みながらも
前へ進もうとする
その人の姿勢こそが



「愛」の強さを
表しているのではないかと
わたしは思う。



結局は
「愛」も

前を向いてるんだね。





『感じる書』アーティスト 石川呼穹







令と口

“令”は礼冠を着けて

跪いて神の啓示をまつもの。

“口”は祝祷を収める器。

神に祈ってその啓示を待ち

その与えられたものを

「命」という。



生きてるだけで
丸儲け。


とは、たしか
さんまさんの言葉。


生きていくために
いろんなことが起こる。



今のわたしの場合
命を脅かされることまで
ではないから

わたしの

いや
わたしたちの

その
いろんな出来事は
いつか一生懸命

暮らしてきた証になる。


それが少し
不名誉で生きてくうえで

苦しい立場であることだとしても

自分がそう思わなければ
よいだけなのだから。



神に祈って啓示を待ち
与えられたものを
「命」という。

生命での
「命」というより
今回は
使命という意味合いからの

「命」を大切に
生きていくには?を

あらためて
考えてみる。

びびってたり
拗ねてたって
仕方あるまい。


『感じる書』アーティスト 石川呼穹








時」の 

長さや

流れを

感じて生きているのは

ヒトしかない。


待っている時の5分間と

愉しく飲んでいる時の5分間は

違う。

時間という定義の上では

同じ長さだけれど。


音楽や芝居などでは

一瞬を

表現するときでも

何分間も

時間を掛けることができる。


これは
さっきYouTubeで
去年の秋の『ヨルタモリ』を
観ていたなかで
話されていたこと。


深いなぁってね
思って
「時」って書いてみた。



Wikipediaでは…


時間(じかん)は、
出来事や変化を認識するための
基礎的な概念である。
芸術、哲学、
自然科学、心理学などの
重要なテーマとなっている。
それぞれの分野で
異なった定義がなされる。

って記されていた。



そこには
砂時計のことも
書かれていて

上部が“未来”
砂が落ちた
下部が“過去”

通過する
くびれの部分が

“現在”だと。





人生の砂時計は


未来の砂が
過去へ落ちきってしまった時点で

The end


だけれども

砂時計を
リセットするときのように

人生の中での
やり直しは
いつだって出来る。


様々な大きさの

いろんな砂の色の

砂時計が

人それぞれに

用意されて
いるのかも知れないって

わたしは思う。




『感じる書』アーティスト 石川呼穹






雨夜の月は


心の目で観る。

       「月」



面白いことに

慣れてくると

目を瞑って書いても


白い紙は

目の前に有って


筆を持ち

墨を落とせば

不思議と

そこにキチンとおさまる。



同様に

雨雲の向こう側に

煌々と

輝きを放ち満ちる月を

心の目で観て

昨夜は

眠った。





日本では

季節感を表す言葉がたくさんある。


空の名前

雨の名前

そして
月の名前も

たくさん存在する

http://hyogen.info/groupw/list/3775


きっと昔は


今のように

楽しみ方が

多くあるわけではなかったから

自然の風景を

歌や画や書などに表現し

こころから味わってきた。


また

ささやかでも

その季節感を愛でる習慣が

わたしたちには

受け継がれている。



うちらの国は

ほんまに

風流やなぁ。




さて

今宵の十六夜は

顔を出してくれるのかしら?


地元の新酒のワインで

お月見気分に浸ろうか?(笑)




『感じる書』アーティスト 石川呼穹




雨乞いの儀式に

袖に

呪飾を施したものを着て

踊るようす。



“舞”を使って表していた


「無」


いつの間にか

足(舛)の部分が取れて

今の字になった。




恍惚文字…(笑)

↑“こうこつもじ”から

変換したらこうなる。


とい

甲骨文字や卜(ボク)字は

見たまんまだから

小難しくなくて

面白い。
   


では

古代に想いを馳せて

想像してみよう。





袖にキラキラの飾りをつけて

踊る姿を。

きっと女性だっただろう。


コチラ

でも踊るさまから

生まれた文字はあるけれど




ここでは

雨乞いのために

無心」になって

踊っているはずだ。



意識が無い極限の状態まで。



それこそ

トランスの状態で。




そのときは

もう

無意識なんだ。




だから

きっと雨は降った。



それは起こるべくして

起こる。



雨乞い成立。




文明の利器に

囲まれて

毎日過ごしているこの

現代の世界では

薄れてしまっている

人間の能力のひとつだと。






潜在的な意識下で

引き起こされる

様々なこと。



今日

仕事中


ちょっとそれを

感じることが

あって…

(書けないけど↑)




あースゴい!

って思う。






「無」は既に「有」で

「有」は無限。


本来限りはないのだ。

と、思う。





今まで

何度も「無」について

書いているはずなのだけど


わたしのなかでは

行き着くところは

いつも同じ。




「無」については


宇宙の如く



未知の広がりの

果てしない空間にある

想像し難い存在なのだと


そこを

想像するのが

好きだ。





そんなことを

考えていると

それこそ無意識に


眠ってしまいそうになる(笑)





『感じる書』アーティスト 石川呼穹









「奈」


“大”の部分は

元は“木”。

“示”は祭壇。


祭壇に供える

かりんの木(の一種)ことを

指す。
 



らしいです。(諸説ありますが)



毎年 秋やなあ…

と、ニュースで

行われてることを知っては

行きたいなあと

思ううちに

いつも終わってる

奈良での『正倉院展』。




借り物画像

琵琶の背面が

モノグラム!!


って話題ですね。


駅に貼ってある

ポスターで見たときは

まさか

正倉院展の告知って

解らなかったわ(苦笑)




わたしの実家のお墓は

奈良にあります。


もうどれだけ

足を運んでいないのだろうと


ちょっと気にかかるこの頃。


『千の風になって』ではないけれど

お墓には

誰もいないのだろうと

常日頃わたしは

思うんですが


お墓参りにいく

って


そういうことでは

ないのですよね(笑)




わかっていながら

遠ざかってるなぁ…(苦笑)


それで


自分の

ルーツを考えたとき


スゴいーー!

って思います。



後継ぎ問題なんてね

この時代

そうそう昔のように

重大ではなくなってきてますけど


先祖代々の

“代々”って

ほんとに脈々と

受け継がれてきた

道のりなんだなあって

しみじみ思います。


親類の中でもね


ここはみんな

子供が娘だから

ここで途切れるのね…

とか

本家や分家だとか


まあ

事情は様々で。


うちも


結婚してるけど

子供いないし。


とにかく


近々


奈良のお墓に


行ってみようかなあ

と、いうところからの

「奈」でした。


『感じる書』アーティスト 石川呼穹



横向きー(笑)