②から続く
(青字は著書からの引用)
○聖徳太子の「輪をもって貴しとする」の意味すること
獲物を求めて移動を繰り返す狩猟採集民には、土地に対するこだわりがない。それに対して農耕民は、農地からの収穫以外に生きる術はないのだから、土地を奪われてしまえば家族もろとも死ぬしかない。
(中略)
日本人の心性が「島国根性」だと批判されるが、囲いをつくって敵から土地を守ることは農耕社会の基本原理で「開放的な農村」というものは原理的にありえない。
(中略)
農耕社会のもうひとつの特徴が「退出不可能性」だ。あなたは生まれた時から私の隣人で、私が死ぬまでずっと隣人であり続け、私の子孫とあなたの子孫は未来永劫、隣人同士だ。
(中略)
政治的決断というのは、共同体のなかで利害の対立が生じたとき、一方の要求を認め、もう一方の要求を拒絶することだ。しかし構成員の退出がない農耕社会では、この政治的な決断が原理的に不可能になってしまう。
⇒日本の社会は昔から妥協による全員一致、もし嫌なら生命をかけて外に飛び出すしかなかった(村八分に近い状態)
○日本のムラ社会ならぬイエ社会の現実とは
日本社会は「血縁」や「地縁」が重視されるというが、日本人の特殊性は、アジア的農耕社会にありながら、血縁や地縁のしばりが弱いことにある。
(中略)
日本社会は血縁よりもイエ(会社や役所)を優先するのが当然とされていたから、露骨な縁故主義はどこでも嫌われた。
この血縁の冷淡さが組織の統制を強め、明治期に近代的で合理的な官僚システム(らしきもの)をたちまちのうちにつくりあげた原動力となった。
(中略)
血族や結社などの社会保障がない日本社会では、イエとしての会社・役所から排除されると生きていくことができなくなる。
さらに日本の人事制度では、公務員は満額の退職金をもらってはじめて労働の正当な対価を受け取れるようになっているから、途中で解雇されるような行為はきわめてリスクが高い。
(中略)
このように日本では、もともと「血」の意識は希薄だったから、経済発展とともに都市化が進むと、旧来の大家族制(血縁集団)はたちまち解体し、社会は夫婦や子どもの「核家族」という最少のイエの集合体になってしまった。
(中略)
地縁も血縁も放棄してしまった日本人は、イエとしての会社がなくなってしまうと、もはや所属すべき共同体はどこにもなくなってしまう。これは社会的動物としてのヒトにとってとてつもない恐怖だ。
(中略)
日本的雇用が危機に瀕するほどに「会社」は貴重になり、ひとびとはそこにしがみつこうとする。イエとしての会社は、あらゆる“縁”を捨ててしまった日本の男たちの最後の寄る辺なのだ。
⇒日本人はムラとしての共同体を会社や役所に委ねてしまったことにより、その社会の衰退や崩壊とともに日本人の無縁社会化が進んでしまう運命にある。
(続く)