丹田と鳩尾  (野口整体) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……要するに体が整っているという目安は腹です。しかも臍から指三本下の丹田というところ、これを腹部第三調律点と呼んでおりますが、その丹田に気が満ちているということがなければ、その人はどんなに勢いがあるように感じていたとしても、それは嘘である。だから丹田に気を満たしていくことは、自分自身の体の勢いというものを奮い起こす方法にもなっていく。

 そこで前にも申し上げましたように、古来、五千年も前から東洋に於いては、この腹部第三調律点である丹田といわれている処を重要視し、健康を維持するうえでも、体力を維持するうえでも重要視して、絶えず此処に力を集めていこうとする健康法がずうっと続いている。腹式呼吸法であるとか、丹田呼吸法であるとか、いろいろな工夫をしてやっております。

 しかし、概ねそれらがよい成果を生まないのはどうしてかというと、その目的が間違っているわけではない。野口晴哉先生も、体の中の最も重要な場所は、この丹田だということを言っております。そこに着眼するということは実に大事なことなんですね。”

 

 “……人間の生命の活動の中心となるものは、この丹田である。これは野口先生のお考えではなく、古来からいわれていることである。そして、その古来からいわれていることは、誠に正しかったわけです。

 では、なぜ丹田を重視したか。東洋の健康法で腹式呼吸などをやって、たいして成果があがらなかったのはどうしてか。野口先生は、これに批判を加えているんです。丹田という処を重視することは、大いに結構で正しいことだが、多くは丹田を重要視し過ぎるために、丹田に力を集めることばかりやっている。力と気を勘違いしてはいけない、丹田に気を満たすことが重要なのであって、力を集めることが重要なのではないんです。

 力一杯集めるから、腹筋の構造が丹田に力が集まるように発達していく。だからお腹が丹田を中心にまん丸になって、所謂お相撲さんのお腹になってくる。それを理想だとしたわけです。腹膜炎を起こしたりするのは気を集めるという、その気というものを力と勘違いして丹田に力を集めるからです。丹田を重要視するのは結構だが、丹田に気を集めることを重要視すべきであって、丹田に力を集めるのは邪道である。これが野口先生の考え方であります。野口先生が加えたもう一つの批判は、丹田、丹田というが、丹田というものが人間の生活の中でどういう動きを表わしているのか、これを知らなければ意味がないと考えて、『実際問題として人間が生活する中で、丹田の気というものは変化するのか、しないのか、変化するならどう変化するか見ていく必要がある』と、野口先生は考えて重要な発見をした。

 気が満ちて充実しているときは鳩尾からは気が抜ける。鳩尾は活元運動を誘導するところですね。鳩尾と丹田の関係は、丹田が実なる状態のときには鳩尾は虚でなくてはならない。丹田の気が抜けて虚になると鳩尾は必ず実になる。鳩尾と丹田は、シーソーのような関係にある。

 そういうことを野口先生は言われていた。長い間の観察の結果です。

 鳩尾の力さえ抜けば丹田には気が自然に集まってくる。

 鳩尾が虚になりさえすれば丹田は実になる、ということだってあるんです。こういうのが生き物としての構造なんです。

 そういう動きの捉え方というのが、今までの東洋の発想の中になかった。丹田というのは丁度、起上小法師(おきあがりこぼし)の中心であって、きちんと此処に気が集まっていれば、転がしても転がしても起き上がるくらいにしか捉えていない。なんでこの中心がずれたり、気が抜けたりしなければならないのかということを追求していない。だから駄目なんです。そこで野口先生は、ただ単に、『丹田、丹田』と言って充実させることだけでなくて、鳩尾が緩んで虚、丹田が充実して実、こういう状態を整体の目的の一つとしたわけです。”

 

 “もう少し追求すると、どんなに鳩尾と丹田とが逆になっていても、鳩尾と臍の中間にある腹部第二調律点、鳩尾が腹部第一調律点、丹田が第三調律点ですね。この間の腹部第二調律点という処が、虚でも実でもない丁度その中間の気の状態を冲といいますが、どんなに鳩尾と丹田が逆になっていても、第二が冲の状態なら必ず正常に戻る力がある、ということを晴哉先生は発見した。そこで整体の唯一の目安というのは、腹部第一が虚であり、腹部第二が冲であり、腹部第三が実という状態である。この虚、冲、実という状態が保持されていることが整体の目安でなければならない。これはもう、恐らく永劫に変わることの無い整体の定義である。これに比べれば、背骨がどうなればいいということなどは、大して普遍性のある定義ではない。どんなに背中が曲がっていようと、息がハーハー浅かろうと、現実にきちと第一、第二、第三が、虚、冲、実である状態が保持されれば、これはもう、まるっきり整体である。何も心配する必要のないことである。こういうことを知らないで、ただひたすらに丹田に力を集める、気を集めるのではなくて力を集めている。丹田にだけ力を集めていると、丹田は確かに実になるけれども、鳩尾も実になり、そのうちに第二は虚になる。こうなってはどうしようもない。いくら丹田に力が満ちているといっても、鳩尾が硬く、第二は冲という中庸を守っていないのだったならば、健康でも何でもない。そこで野口先生は、こういう定義をなさったのです。

 左右の肋骨の合流点から指三本下のところが第一調律点です。その第一調律点はどういう影響で異常が起こってくるのか、ここは常に気が抜けた状態になっていなければならない。虚という状態は、そっと指を当てて気を感じとろうとしていますと、息を吸っても吐いてもどんどん凹んでいくんです。息を吸っても吐いてもスーッと穴が開いていく。冲という状態は、息を吸うと盛り上がってきて、息を吐くと引っ込んでくる。これが冲。実という状態は、息を吐いても吸っても常にグーッと気が垂直に盛り上がってくる、こういう状態を実という。

 腹部第一は、常に虚であることが自然に従った整体の状態である、整体であるためには常にこれが虚でなくてはならない。虚の状態が『順』なのです。正常であることを順といいます。お腹だけは正常、異常という考えがないんです。整体の世界では順といって、これは自然に順応しているという意味です。ですから腹部第一は虚という状態で初めて順である。これが実になっていれば自然に逆らっているということになります。”

 

 “人間というものは心を動かしながら生活していますが、そのどこかに気の許せるなにかがなければ、心というものは硬張るようにできている。そんなに心を緊張させて、最大の警戒を持って事に臨んでいたとしても、最後のどこかに余裕(ゆとり)がなくてはいけない。『結局どんなに事を突き詰めていても、最後の最後は勘なんだ』という余裕があると、どこまでも理知的に分析的に追求しようとする勢いというものは失われないんです。ところが勘というものがなくて、余裕がなくなってしまうと、分析好きの変質者になってしまう。頭ばっかり賢い変質者になっていく。『頭を緊張させないように生活しなさい』と言っているのではない。頭をどんなに緊張させて生活していても、最後の心の余裕というものがなくなると鳩尾が実になる。

 頭は緊張させなければ働かないんですよ。ポカンとしていないで、絶えず全面的に緊張させて生活しなければ頭のある意味がない。しかし頭の使い方、心の動かし方というものは、最後の最後に鳩尾を硬張らせない余裕というものが、心の中のどこかになくてはならない。その最後の心の余裕というものが失われた状態で、鳩尾というものが逆になる。ですから鳩尾が長い間、実の状態が続いているというのは、心の中にどうしても余裕がなくなっている状態である。そういう余裕のない状態では何事もうまく進まない。

 例えば病気の経過にしても、鳩尾が緊張していては絶対駄目です。自然の経過を待っていられない。長い時間を心静かに待っているということができない。鳩尾が緊張しているときには、絶対その人の中に不安がある。熱は体にとっていいものだと頭の中で理解していても、最終的に鳩尾が硬く実である限りは駄目で、熱が余分に出たり、なかなか下がらない状態が続いてしまう。ですから、腹部第一というのは、そういう意味で、概ね心理的な頭の問題であるが、人間の脱力の能力を示している。あらゆる体の硬張りという感じは、みんな鳩尾の実から生まれてくるといっていい。

 腹部第二というのは体の同化力である。ですから腹部第二というのは栄養の同化吸収であるとか、刺激の受け入れ、そういうものと非常に関係がある。栄養の吸収力というのは腹部第二が虚であれば、もう何を食べても栄養は満ちません。しかし同化力というのは栄養だけではないのですよ。例えば、或る人のアドバイスを素直な気持で受け入れられるというのは同化力です。この腹部第二が冲でなくて、逆に実とか虚であったりすると、そういう状態の人にいくら貴重なアドバイスをしても、絶対に受け入れてくれない。”

 

 “第三は、体の中でいえば腰と最も関係がある。腰が抜けると、もう第三は満ちない。だからどんな腰痛も必ず第三は虚になる。第三が虚になると、ぎっくり腰を起こすのか、ぎっくり腰になって、第三が虚になるのか分からないけれども、ともかく腹部第三、丹田というのは、この腰と大いに関係がある。腰の腰髄という神経は大雑把に言えば、排泄力、排泄機構と関連している。ですから、老人になると腰が衰える。老衰の徴候というのは、この腹部第三、丹田で見ることができますが、老衰の徴候が起こる丹田というのは、腰と関連があり、その腰は体の中の排泄能力から老いていく。

 例えば、ひどい便秘というのは単に便の出がわるいとか、ここ三、四日出ない、というのは便秘のうちに入らないんですよ。もう十二日間出ませんとか、十八日間出ませんとか、本当に便が詰まった状態、そういう状態のときは、必ずお腹の第三、丹田という処が力がない、気が抜けてしまっているんです。これが虚の限りは、どうやっても出てこない。そういう意味では、全ての体の恢復の兆というものは、ともかく此処から起こってくる。そういう意味で丹田というものを少し過大評価してみますと、これは体力の象徴であるといえるわけであります。

 言い換えれば、体の排泄する機構というものは体力の象徴であるともいえる。多くの人が丹田を重視する本当の気持というのは何かというと、人間の体の中の三大排泄機構、腎臓、腸、それと生殖器です。なぜそんなに丹田を重要視するのかというと、生殖器と最も関連があるからです。ですから生殖器に異常があると丹田が順でなくなってくる。人間というものは、どこかで生殖器の働きが老いていないということを心の中で願っているんですね。”

 

(「月刊全生」昭和60年8月号 野口裕之『勢いということ 2』より)

 

 

*丹田呼吸とか、腹式呼吸とかを実践している方は多いと思いますが、この丹田と鳩尾、そして野口晴哉先生が腹部第二調律点(鍼灸でいう中脘のツボ)の関係について御存じの方は少ないと思います。鳩尾が硬く強張っている限りは、いくら腹式呼吸をしても丹田に気は集まらず、鳩尾を緩めて虚の状態にしさえすれば、ほぼ自動的に丹田が実になるとは、目から鱗でした。

 

*太極拳では「含胸抜背」ということがいわれますし、道院・紅卍字会の「先天の坐」も、やはり鳩尾が自然と虚になるような型になっています。また、野口晴哉先生は、『呼吸を意識しているうちは駄目だ。それでは呼吸法にならない』とも言われています。理想的な呼吸とは仙道でいう「胎息」つまり胎児の呼吸です。

 

*「霊界物語」には、『臍下丹田』と書いて『あまのいはと』あるいは『したついはね』とルビが振られています。もし「天之岩戸開き」が、各人の臍下丹田の目覚めのことと解釈できるなら、「大本神話」の内容、つまり原初において龍体であった艮の金神、国祖国常立尊が根の国・底の国に封印され、時節めぐりて御再現になられるというのは、各人の尾骶骨に眠るクンダリニーが目覚め、上昇して各チャクラ、下丹田、中丹田、上丹田を活性化し、全人類の意識を覚醒させるということかもしれません。ただし、ヨガでは、準備の出来ていない者のクンダリニーの覚醒は破滅をもたらすと言われています。「天之岩戸開き」とともに「大峠」があると示されていることにも納得できます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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