伊勢湾台風にみた「短冊」のご神力 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “二十六日正午のラジオ放送で――十五号台風は、夕刻の六時頃、紀伊半島に上陸、北東に進む模様、東海地方を襲うおそれあり、とくに東海地方は警戒を要する――ことを知って、昼食後防止資材の準備にとりかかる。木材、ムシロ、俵、カマス等を極力集め、午後三時頃より、まず鶏舎の東面、南面等の硝子窓に板やムシロをあてて防備する。雨は刻々と強まり、風にのって横なぐりに降り続いている。午後六時半、急いで夕食を食べる。落ちついて食べる余裕がない。お茶も飲まないで防備工事を続行する。西面の玄関の出入り口にはヌキを内部から釘付けしたので、出入りができなくなった。九時頃には停電したので懐中電灯とローソクの灯を頼りにして、壁のゆるんだ所や硝子窓の内側に毛布やタタミをあてて防備に努力する。十時頃には二階天井から泥水がポトポト落ち出した。硝子窓や壁の防備もそれまでとあきらめて、二代様の「かみよ」と書いて戴いたお短冊を柱に針金でしばりつけて大神様にご守護をお願いして、ご神前の間の東面の硝子戸へタタミを当て家族六人が交替で死守する。手のすいた家族はご神前で祈願をする。

 後一時間だ、後三十分だとお互いにはげましあって防備に懸命に努力する。風はますます強く、家屋は気味の悪い音をたびたび発する。屋根瓦の飛ぶ音、トタン板の飛ぶ音が風にのって聞こえてくる。足下のタタミは雨水でぬれだした。急に寒気を感じ出し、冬服を出して着る。鶏舎が心配になってきた。しかし、外へ出ることは危険なので東北隅に、二代様のお書き下さった短冊「かみよ」をお祭りして、日常ご守護を賜っているので、こうならば大神様におまかせするよりほかに方法もないことに気付き、ご神前で鶏舎のご守護を祈願する。

 感謝祈願祝詞を何回目かわからないが終わって、「惟神霊幸倍ませ」を奉唱し終わって、次にうつる時、西側の道路で人声がすることに気付いた。子供たちも聞こえたらしく、誰か外で騒いでいる様子だが出て見ようかと言う。雨は止んでいる模様であるし、風も多少は弱くなったようである。二十分くらい経ったと思う頃に子供が帰ってきた。前のKさんの住宅が半壊、前の南隣のTさんの所の東側の壁がほとんど落ちて、部屋中水びたしになっている。八百屋のトタン張りの屋根が全部飛んでいる。屋敷の前のパン屋は半壊して、自宅にもたれかかっているが、鶏舎は不思議と倒れていない模様だと言う。

 家族一同ホッとして、暗いローソクの灯でかすかに顔がほころびた様子である。鶏に一番縁の深い家内が、鶏が無事で何よりだ。明朝はご馳走をしてやり、たくさん卵を産んで復旧費を稼いでもらいましょうという。防備の手を休める暇もなく復旧に着手する。ほとんどのタタミが濡れているので、寝床を敷くのにも困難だ。押入れから出したものを整理にかかる。やっと水気のないタタミが八枚ほど見つかったので、衣類を運んだり床をのべたりする。道路に飛散したトタン板、屋根瓦などを片付けたり、浸水の水を始末しておいて、三時に床に入る。

 朝六時に起床して家屋を一廻りしてから、隣近所へ見舞にまわる。思いのほか被害の大きいのに驚く。二百戸あまりの六軒部落は全半壊十数戸と聞く。部落の鶏舎はほとんど倒れた様子だが、私の鶏舎はもっとも弱々しい建築であり、東南の風あたりの激しいところであったが、破れた所が二ヵ所で〇.五平方メートル。成鶏百七十余羽全部健在であったのは、ひとえにご守護のたまものと感謝のほかない。また、南面の壁が三十六平方メートルも飛散して素通しとなり、三十数メートルの風が住宅へ吹込んだにもかかわらず、たいして浸水もせず家も倒れず、大難を小難に救っていただいた事をひたすら感謝している。”

 

(「おほもと」昭和34年12月号 木村管一『伊勢湾台風にみた短冊のご神力』)

 

 

・火防ぎの短冊

 

 “山口県の秋本清氏は数年前の愛善苑誌上で読んだ出口王仁三郎談話が、妙に頭にこびりついて忘れられなかった。それは斯ういう話である。

 

 「火が燃えて来たら、わしの書いた短冊なり色紙なりを二三枚火の前へパラパラとまいてやるのだ。そうすると短冊なり色紙なりに火が燃え移ってそれを焼くだろうが、それと共に火はパッタリと消えてしまう。また、水に追われて、モウ助からんと云う時には、水に一枚くれてやるのだ。そしたら必ず助かる。

 お筆先の中に『いまの人民はめぐりがひどいから、何もなしに助けるわけにゆかんから云々』と出ているだろう。あのお筆先にもとづいて、まさかの場合にお前たちを助けるために、短冊や色紙をやってあるのだ」

 

 まるで夢みたいな話である。秋本氏も半信半疑で、ふしぎに思ったので、いつまでも此の言葉が頭にひっかかっていたものだろう。

 ところが、昨年四月末の真昼間、自宅の裏の路傍に積んである麦棹や稲葉がとつぜん燃え出し、北風に煽られて二間ほど隔たる自宅の牛小屋へ燃え移りそうになった。燃え移れば二頭の牛が丸焼けになる。近所中で「火事だあ、火事だぞ」とののしる声が煙の渦ともつれ合い、牛も小屋の中で暴れ出した。その時、秋本氏の頭にひらめいたのは、例の出口王仁三郎談である。あいにくで出口翁の短冊も色紙も持ち合わせはなかったが、二代教主すみ子刀自からもらった短冊と扇子のあったことを思い出し、牛はあとまわしにして、それを取り出し、いまや炎々と燃え盛って南へなびく火の中へ投げ込んだ。

 一分経つか経たぬうちに風の方向が変わり、牛小屋の軒を舐めかかっていた火先が、急に空に向かって逆立ちした。よく見ると風の向きが変わったのではなく、ハタと風が死んだのである。火勢は頓に衰え、村の消防が駆け付けた時は、ほとんど自滅していた。

 火中からうやうやしく拾い出した短冊は、真ん中が少々焦げたばかり。扇子の方は焦げも焼けもせずなんともなっていなかった。秋本氏はここにはじめて、先年夢うつつに聞いて頭にひっかかっていた出口翁の言葉の裏書を見出し、かつまた、火事場に集った村の衆も、消防手たちも、火に焼けぬ扇子、風の向きを変える短冊の霊験を眼前に見せられて、自然と頭が下がった。”

 

(「神の國」昭和29年6月号 『火防ぎの短冊』より)

 

*出口王仁三郎聖師や出口すみ子二代苑主の短冊や色紙は、戦前からの信者であったお宅には今でもかなりの枚数が残っているはずですし、時々ネットオークションにも出品されているようです。以前は大祭の時の記念品として、よくお二人の作品の複製品が配られていたのですが、それらからも相当な気が出ていると、気功をやっている方から言われたことがあります。なので、たとえ複製品であっても、ちゃんと力を発揮するであろうと思います。ただし、短冊であれ色紙であれ、何かご神宝を授かった者は、各人が何らかの、それ相応のお働きをせねばなりません。

 

 

・ご神宝を授かった者の義務

 

 “昔教祖さんが、信者さんが出て来られると、よく書いてあげられたのや。すると四、五年もたってから、フッと思い出したように、「お澄や、どこそこに書いてあげたの、返してもらって来てくれ」というようなことを言われるのや。私は「いやどすで。人に一ぺんやったものを返してくれなんて」と言いますと、

 「神様にご神徳を頂いたら、頂いただけの活動すればよいのやが、活動もせず、お道もよう広めんような人は、持っていることができんのや」

と言うとってでした。私は教祖さんに「あんたの神様は、どうも勝手なことばかり言うてやなあ」(笑い声)と言うてましたがな。お軸でも楽焼でももらったからというて、私するのはいけませんで。”

 

(「木の花」昭和27年2月号 『花明山夜話(十六)』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

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