津波から救われた話 (昭和十九年) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “世にも不思議な物語というのは、こういうことをいうのだろう。

 和歌山主会熊野分所の西野美佐子さん(八〇)が遭遇した出来事は、まさに奇跡、常識的・物理的には考えられないことなのである。

 時は昭和十九年十一月はじめ、第二次世界大戦のさ中である。ずいぶん前の話ではあるが、神さまの偉大なお力を如実に示す、不思議な実話である。

 第二次大本事件前と事件中、本部で奉仕していた西野さんは、結婚後、和歌山県・那智勝浦の大勝浦に移り住んだ。

 自宅の目の前が道をはさんで勝浦湾。家業は鉄工所。船の石油タンクなどを製作するいわゆる軍需産業で、三十人ほどの従業員をかかえていた。工場は自宅から歩いて五分ほどのところにあり、事務所は自宅に隣接していた。

 その日、昼食後、西野さんは自宅でご主人らと、談笑しながらくつろいでいた。

 と、突然、家がグラグラと揺れ出した。地震である。取るものもとりあえず外に飛び出した。振動はかなり長い間続いたように思えた。空を見上げるとトビが流されている。空気までが振動し、鳥さえ思うように飛べないほどの強い地震だったのだ。

 西野さんは生まれて間もない女の子を抱え、心の中で「聖師さま、助けてください」と夢中で祈った。

 やがて地震は止まった。しかし、ホッとしたのもつかの間、目を海の方へ向けると、湾の水面が、グン、グンと上がってきているのが、はっきりとわかった。

 「津波がくる」

 西野さんはすぐ家にもどり、大切なものを懐に入れ、赤ちゃんを抱えて裏山へ走った。近所の人たちも皆避難してきた。

 裏山からは自分の家の様子はわからなかった。が、さしたる防波堤もない入江にある西野さんの家が、津波からまぬがれるはずはなかった。

 ただでさえ苦しい時代だった。戦争も激化の一途をたどっていたころである。勝浦でも空襲警報が響き渡る日が多く、アメリカの爆撃機が飛来してくることもしばしばであった。そこへもってきて、地震と津波である。西野さんをはじめ住民らは、悲壮な思いで津波がひくのを待った。

 やがて日が西に傾きはじめた。住民らは自分たちの家の様子を見るため、一人、また一人と山を降りていった。西野さんらも四時すぎ、自宅にもどってみた。町の中はいたるところで、津波のキズあとが生々しく残っていた。

 自宅の玄関を開けた。まず目に入ったのが、板ガラスの木箱であった。ガラスが入っていなかったためか、土間に置いてあったはずの箱が、土間から六十㌢高い畳の間まで、波で持ち上げられていた。さらに部屋の中は、床から七、八十㌢のところに、ありありと浸水の跡が残っていた。

 ところがである。

 畳がまったくぬれていないのである。

 触ってみると襖や壁についた浸水線は乾いており、線の下はまったくもとのままの状態であった。茶ダンスの中の湯のみや小皿もそのまま、浸水線の下になった箪笥の引き出しの中の着物類も、シミひとつない。おまけに事務所の中も無キズで、水面下にあったはずの書類・文房具類もまったくぬれていなかったのである。

 「おどろきました。トイレの中は、海水でいっぱいになっていましたし、どの部屋にも水がきた線がはっきりと残っていたのに、それ以外は津波の前とまったく同じ状態でした。神さまのご守護以外には、考えられないことでした」

 現在亀岡市に住む西野さんの妹、津田順子さん(七七)も、この当時、西野さんの家から少し離れたところに住んでいた。

 「ものすごい津波でした。海が山のようになって、襲ってきました。私たちは山の方へ逃げたんですが、天満街道という方へ逃げた人たちは、波にさらわれて亡くなりました。翌日、勝浦の駅前にむしろをかぶせた遺体が並べてあったのを思い出します。姉の家は信じられないようなおかげをいただきました。ほんとうに不思議なことでした。私の家は床下まで水がきていましたが、大きな被害はありませんでしたし、近くに住むほかの信者さんも、みな大難を小難にしていただきました」

 翌日、近所ではどの家も、畳を干したり、濡れた着物を洗濯したりで大忙し。でも、西野さんの家はふだんと変らない一日であった。

 これが奇跡でなくてなんであろう。神さまは、目にものを見せて、そのお力の偉大さを、はっきりと示されたのである。

 こうした出来事は長い大本の歴史のなかでも、外にはないだろうと思っていた。ところが、昭和三十四年九月の伊勢湾台風の時、同じようなことが起こっていた。

 本誌昭和三十五年三月号に、堀田嘉男さん(現三重主会桑名支部長)の執筆で、そのご神徳談が掲載されているので、一部を転載してみる。

 

 「お母さん早く!」と母をせきたてて二階に避難させ、大神さまのお宮を二階にうつさせていただいているうちに、水かさはますます増して、膝、腰、胸へと迫ってきます。(中略)

 水がひいたその日、階下におりてみてその悲惨さに驚きながら、ご神前の間の襖を開けて、あまりにも意外な光景に二度びっくりいたしました。

 ご神前の間は六畳ですが、壁の一メートルあまりのところに、ありありと浸水の跡がありますのに、畳も、そして敷いてあった布団も、敷いた時のままで、ぬれていないのです。それに押し入れの上段においてあった二面の八雲琴が浸水線よりも明らかに下にありますのに少しもぬれていないのです。白衣、袴、祭具などしみ一つありませんでした。

 

 津波と台風の違いはあるが、まったく同じようなケースの奇跡である。

 「ほかの部屋はそりゃもうグチャグチャでしたが、ご神前の間だけは、ほんとうにぬれていなかったんです。敷いていた布団が水をすいこんだのかと思って、布団をさわってみましたけど、ぬれてなかったです。もっともそれくらいの水量ではないですからね。ほんとうに不思議なことでした」

 その布団に寝ていた堀田嘉男さんの母親・京子さん(八五)が、当時の様子を、電話でそう話して下さった。

 話は西野さんの方へもどる。

 津波から数日後、ご主人の登実三さん(故人)らが聖地へお礼参拝にでかけた。その時、中矢田の農園で二代さまにご面会、お言葉をいただいた。

 二代さまは、和歌山で地震があった時、震源地が勝浦沖だということを聞かれ、和歌山の信徒のことをとても心配しておられたという。そして信徒の安否を聖師さまにおうかがいされた。

 その時聖師さまは、こう言い切られたという。

 『紀州の信者はみな元気や。今、わしが行ってきたから心配せんでもいい』

 その聖師さまのお言葉で、『津波の奇跡』の謎がとけたのである。(本誌・成尾陽)”

 

(「おほもと」平成2年4月号 『津波から救われた!!』)

 

*「お筆先」には、『信神せねば、神は助けたくとも助けられぬ』とあります。密教では「加持(加+持)」と言いますが、神様のご守護を受けられるかどうかは神と人の相互的な作用であって、信仰がない者には神様としてもどうしようもありません。神道でも仏教でもキリスト教でも(カルトは論外ですが)、何らかの信仰を持つことは絶対に必要ですし、善良な人間であっても信仰がなければ、むしろ悪霊のターゲットにされてしまいます。

 

*「お筆先」には、『信仰していれば、九分九厘のところで助けてやる』というのもあります。できれば九分九厘ではなく、せめて七割か八割くらいのところで助けて欲しいものですが、そういうわけにはいかないようです。いくら助けてもらえるにせよ、九分九厘のどん底まで落ちたくなければ、やはり自分自身も全力を尽くさなければなりません。

 

*以下のように、家族全員で念仏を称えて救われた話もあります。


 “その先生はよく仏壇に手を合わす信心深い人であった。これは先生が子供だった太平洋戦争たけなわの頃の話である。
 ある夜、誰に起こされたわけでもないのにふと目が覚めて、あっ、着替えて仏間に行かねば、と思った。手早く寝間着を着替えて仏間に行くと、家族全員が集まっている。父さんも母さんも爺ちゃんも婆ちゃんも兄弟も。
 もともと信心深い一家でみんなで仏壇に手を合わせること自体は別に不思議なことではないのだが、こんな真夜中に家族全員が集まることは珍しい。
 誰が呼んだわけでもないのに仏間に集まった家族たちは、わけがわからずぽかんとしている。
 「なんや、お前も来たのか、じゃあこっちへおいで、一緒にお勤めしよう」
 父に促されたので襖を閉めて、仏壇の前に座り、家族全員が仏壇に手を合わせ、念仏を唱えはじめた。
 それが朝まで延々続いた。
 「さあ、もう終わりにしよう」
 念仏を終えて仏間から出ようと襖を開けると、隣の部屋がない。
 あたりは瓦礫と化し、煙がたちこめ、ぷすぷすと音をたてて燃えている。
 焼夷弾が落ちたのだ!
 しばし呆然と立ち尽くす家族たち……。
 家族のものは誰ひとり焼夷弾の炸裂する音を聞いていないし、仏間の襖は爆撃の風圧さえ受けていない。だがもし、空襲に気づいて指定の防空壕に避難するか、そのまま知らずにほかの部屋にいたならば、絶対に助かっていなかっただろう。こんなことがあって以来、先生は前にもまして仏壇に向かうことが多くなったという。”

         (木原浩勝+中山市朗著「新耳袋 第一巻」(角川文庫)より)

 

*あと、危険予知の方法として古くから伝えられているもので「三脈術(三脈法)」というのがあります。これを覚えておくだけで、万一の時に自分や家族の命が助かるかもしれません。ぜひ多くの方々に知っておいていただきたいと思います。

 

 

・「三脈法」   〔野口晴哉先生(野口整体)〕

 

 “あれは敗戦の色が濃くなり、東京が連日連夜の空襲に脅かされていたころのこと——―。

 先生は道場に通ってくる人達に、『三脈をみる』ということを教えてくれた。

 

 「左手の親指と中指で、両耳の下の脈を軽く押さえ、その左手首の脈を、右手の中指で軽く押さえる。三つの脈が揃っていたら、その場に居てもいい。もし乱れていたら、すぐに其の場を離れなさい」

 

 体は危険な場所を、すでに知っているということであろう。講習生の中で「そんな非科学的なことを‥‥」と、せせら笑った人がいた。そのAさんに、或る日バッタリ、目白駅で出会った。すると彼は息をはずませて、

 「一昨日の空襲で防空壕に飛び込んだ時、三脈をみたんですよ。揃っていないので、『ここは危険だぞ!』と叫んで飛び出したら、三人ばかりがついて来たので、夢中で走って走って逃げました。やはり爆弾が落ちたんですよ」

 Aさんは何ともいえない複雑な表情をした。防空壕には、まだ大勢の人が残っていたという。”

 

(「月刊全生」昭和56年11月号 野口昭子『予知』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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