老人の死 ・ 一番いい死に方 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・老人の死  (シュタイナー人智学)

 

 “「死去した老人は、悲しくないのだ」といわれる。

 どうしてかというと、「死去した老人は、その心魂のなかに、わたしたちのことをたずさえて、天に向かうからだ」というのである。死去した老人の心魂のなかには、わたしたちが生きているというのだ。

 老人は、死によってわたしたちから切り離されるのではない。心魂のなかにわたしたちをたずさえて、天に向かうのである。老人の死を悲しむのは、残されたわたしたちだ。死者自身は、悲しみよりも霊的な喜びに浸っているかもしれない。

 その老人の姿は、わたしたちの肉眼からは消える。わたしたちは、その老人と離れ離れになったと思い込んで、悲しむ。しかし、死者の心魂のなかにはわたしたちが生きており、死者はわたしたちと離れたとは感じていないのだという。

 ――死者は悲しんでいないのに、わたしたちは悲しんでいる。わたしたちが悲しいのであって、死者はわたしたちのように悲しんではいないのだ。

 だから、この悲しみはわたしたちの悲しみで有り、ルドルフ・シュタイナーはこの悲しみを「利己主義的な悲しみ」といっている。”

 

 “わたしたちが自分で自信が持てないとき、人から肯定してもらい、励ましてもらえると、ずいぶん元気が出てくることがある。

 同様に、死者に対して、わたしたちがその死者の人生を肯定すると、死者は死後の世界を歩み抜く励ましを得たことになる。わたしたちが死者の人生を肯定的にとらえることが、その死者の歩みを力強いものにするのだ。

 だから、高齢者の死に際して、わたしたちが愛を込めてその人の人生を語ると、それが死者にとってなによりの励ましとなる。年老いて死んだ人の葬儀では、その人の人生を肯定的に語ることが、なによりの供養になるのだ。その死者のことをよく知っていた人が、その死者の人生を語るのを葬儀の中心部分にするのである。”

 

 “また、わたしたちがいつまでも愛する者の死を嘆いて、生きていて欲しかったと切望するなら、その思いは死者を迷わせるという。生から死へと移行したのは宇宙の賢明な叡智によってのことだったのだ、と認識する必要があるのだ。”

 

(西川隆範「死後の宇宙生へ 生命の永遠を生きる」(廣済堂出版)より)

 

・一番いい死に方とは  〔野口晴哉先生〕

 

 “かつてH夫人が亡くなる前、それを予知したお嬢さまが、先生に、

 「母に一番いいことをしてあげたい。どうしたらいいか」

と尋ねたら、先生が、

 「最後の最後まで、助かると思って愉気しておあげなさい。それがお母さんにとって一番いいことだ」

と言ったという。

 『死なしむ』

ということは、こういうことではなかろうか。”

 

(野口昭子「時計の歌」(全生社)より)

 

 

 “……先生が亡くなる少し前のこと。Aさんの真鶴の別荘を管理していたおぢいさんが、いくら電話をかけても出ないので、行って見たら、たった一人で死んでいたという話をAさんから伺って、先生が、

 「それが一番いい死に方だ。羨ましい」

と言ったのである。先生は九種体癖である。心からそう思ったに違いない。

 先生が亡くなるとき、すくなくとも禁点に硬結がでてからは、誰にも会わず、音楽室でたった一人、静かにこもっていたかったろう。そうさせて上げることが出来たのは、私でしかなかったのだ。人から何と言われようと、そうすべきだったのに、それが私には出来なかった。”

 

(「野口昭子「見えない糸」(全生社)より」

 

 

 “私は、先生が私に遺してくれた最大の教えは、あの亡くなる二日前に、はっきりと示してくれた『魂の離脱』だと思っている。

 あの時、私は何故一人きりで離れて坐っていたのだろう。先生は何時もの椅子に斜めに腰かけて、陶然と何を夢みていたのだろう。微かな笑まいさえ浮かべて……・その時だった、すうっと一筋の白い煙のようなものが先生の背後から立ち昇っていったのは。

 

 『死とはこういうものさ』私は今でも、先生がそう語りかけているような気がする。

 しかし、それはすべての人の魂を、また自らの魂を、何よりも大切にして生きた人にのみ与えられる安らぎの笑まいだったのだろうか。”

 

(「月刊全生」昭和54年7月号 野口昭子『鶯谷記(Ⅳ)』より)

 

*私自身もですが、ほとんどの方は、集まった家族に看取られながら、愛する家族の愛情に包まれながら安らかに息を引き取るというのが理想的な死に方だと思っておられるのではないでしょうか。しかし、やはり本人、そして家族の皆が覚悟を決めて、積極的に死を受け入れようすることは滅多になく、ポワ(チベット仏教の意識の転移)などの知識も力もありません。また、家族であれば、もっと長生きして欲しいと願うのは当然で、特に亡くなられるのが若者や、年寄りでもまだまだ元気な方であれば、残される者達は当人の死をすんなりと受け入れることなど出来はしません。そして、そのような親族の「死なないで欲しい」という想念は、霊魂がまさに来世へと移行する一番大事な瞬間に、死者の霊に混乱をもたらしてしまいます。なので、やはり野口先生が言われるように、死ぬときはただ一人で死に、誰にも何にも邪魔されることなくすんなりと霊界へと移行できるのが一番よい死に方なのかもしれません。もちろん、家族の誰かが、たまたま他の皆が外出中で一人で家に居るときに亡くなったとしたら、残された者は「一人にしなければよかった、側にいてあげればよかった、もっと早く帰ってさえいれば……」と、いつまでも後悔の念に苦しむでしょうが、もしそのような方がいらっしゃれば、実は亡くなった本人にとっては、それが一番幸せな死に方であったということを、どうか、何とかして知っていただきたいと思います

 

*もちろん、孤独死してから何週間もたって、遺体が腐乱した状態で発見されるとしたら悲惨ですし、そのような人はまともに供養してもらえる環境にもないと思います。やはり、死ぬときは一人でも、死後二、三日以内に発見されて、葬式、そしてその後の供養もしっかりしてもらえる、というのが理想です。おそらく、そういった死を迎えられる人というのは、実は素晴らしく幸運な方でしょうし、当然ながら穏やかな死に顔をしておられるのではないかと思います。また、たとえ一人暮らしで身寄りのない方であっても、神仏への信仰をしっかり持っておれば、必ず安らかな臨終を迎えることができますし、死後も善い世界へと導いてもらえるはずです。

 

 

・鳩尾(みぞおち)への愉気 (野口整体)

 

 “‥‥‥彼の死に関する哲学と実践は、もう一方で、人間の生体を流れる生命エネルギーの複雑なネットワークの知識とそれにもとづく身体技法によって、しっかりと裏打ちされていた。鳩尾の硬結が死の予兆である。そう彼は言っていたはずだった。野口晴哉の死の思想と実践を支えるもう一本の太い柱は、この死にかかわるプラクティカルな身体技法である。それについて、わたしたちは、これから見てみることにしよう。

 鳩尾の「禁点」に硬結ができると、四日目に死ぬ。それは、彼にとって体験的に確証された明白な「事実」だった。”(P54)

 

 “‥‥‥野口晴哉の独自性は、死の兆候としての鳩尾の硬結を考えるだけではなく、死のプロセスで苦しんでいる人に対する具体的な援助の方法として、鳩尾への愉気という単純なやり方を教えたことである。この方法が、実際にたしかな効果を持っていることを、わたしたちは知っている。

 

 「夜も明けて朝方六時ごろ『何とも死ねずに苦しんで』という電話、過日愉気の方法を教えてきたことを思い出し、鳩尾に愉気するように話した。その後、間もなくまた電話があり、一生懸命愉気をしたところ、すぐふっと息を吐いて、苦しそうだった顔が、急に安らかな顔に変わり、眠るように亡くなったとのこと、有難い有難いと、泣きながらお礼を言われ、祖母にまでと、先生の御恩は忘れられない」(渡辺剛志「霊感」『月刊全生』昭和五一年九月号)全生社)」

 

 野口晴哉の弟子のなかには、多くの医者や看護婦がいたが、彼らは、この愉気による死のプロセスの援助を実際に行ない、たしかな効果を感じていた。死ぬ間際になって、最後の息を吐く直前に苦しんでいる人だけではない。死んでしまってから後の人にも、この鳩尾への愉気は有意義だと、野口晴哉は考えていた。死んでから人相が悪かったり、体がこわばって棺の中へ入らない場合には、鳩尾に少し愉気するとすぐ柔らかくなって、間もなく人相がよくなる。愉気するうちにすぐ人相がよくなる人もいる。それは、生きている間の観念で人相が悪かったので、その観念から解き放たれるからなのだと、彼は説明している。”(P57~P58

 

(永沢哲「野生のブッダ」(法蔵館)より)

 

 

・臨終のときの意識の転移(ポワ)  (チベット仏教)

 

永沢 そうか、そうか。いや、お父様のときにはね、チベット仏教の、頭頂から意識を抜いてあげる「意識の転移」をされてはどうでしょう。

藤田 ああ、そういうのがあるんですね。ポワですか?

永沢 ええ。亡くなるとき、全身を循環しているプラーナの生命エネルギーは、心臓に収束していきます。その後、意識がどこから外に出るか、頭頂から出ていくのがいいという考え方が、チベットにはあります。まずは、自分で「意識の転移」の修行を行う。それではっきりした印が出たら、純粋に利他的な動機をもって、ほかの人のためにもやってかまわないことになっています。でも、それが難しい場合には、どうしたらいいか?チベットのお坊さんに「これは誰にでも教えていい」と言われているんですが、呼吸が止まって、エネルギーが心臓に集まってきたのを見計らって、頭のてっぺんの髪の毛を引っぱる。すると、実際にやってみるとわかりますが、意識がクッと上に向かいます。僕は、父が亡くなったときには、それをやりました。もう一つ、非常にまれですが、遠くから意識の転移ができるお坊さんが、何人かいるので、お願いしました。

藤田 遠隔治療的な感じですか。そういうノウハウ、みんな知っておいてもいいですよね。はい、やってみますよ。死にかかっている人に、何かいいことをしているわけですからね。何もできないよりは。触ることはできるし、足を揺するぐらいはできますからね。

永沢 そう思います。身体の動きや緊張は、感情と深く結びついているわけですね。それをどうやって自然にリリースするか。ミンデルのワークは、微細な運動を増幅して、つかえているエネルギーを活元運動的にリリースするための方法です。ただし、チベットでは、呼吸が止まって、エネルギーの収束のプロセスに入ったときには、今度はあまり触らないほうがいいといわれています。

 

(藤田一照 / 永沢哲「禅・チベット・東洋医学 瞑想と身体技法の伝統を問い直す」(サンガ)より)

 

 

*狂信的なカルト集団のせいでひどく誤解されてしまいましたが、「ポワ」とは本来チベット語で「往生」を意味する言葉で、この「意識の転移(=ポワの技法)」とは、臨終の時に、魂=意識を阿弥陀如来のおはします極楽浄土に転移させるために行なわれるものです。1980年代にチベット文化研究所の主催で、インドのダラムサラからポワの権威であられるチベット僧、アヤン・トゥルク・リンポチェをお招きして数日間にわたり五反田の仏教伝道会館でポワの講座が開かれたことがあります。そのときにアヤン師は、阿弥陀如来の加持力について繰り返し強調しておられました。結局、ポワを成就できるかどうかは、阿弥陀仏の恩寵にかかっているのであり、正式にポワを学ぶ者は、伝授に先立って、まず金剛薩埵と阿弥陀如来の灌頂を受けることになっています。ここで紹介させていただいた文章では、テクニックの事しか書かれていませんが、やはり神仏への信仰は絶対に必要です。

 

* 今日は、カトリック典礼暦では「灰の水曜日」で、この日から復活祭に向けての四旬節に入ります。「灰の水曜日」のミサの最後、司祭が一人一人の信徒の額に、

「汝は塵、ゆえに塵に還る」

と、「創世記」に記された神がアダムに告げられた言葉を唱えながら、灰で十字の印をつけます(灰を頭にかけるだけのところもあります)。何だかユダヤの伝説にあるゴーレムになった気分ですが、特に高齢になってからは、「死」を意識しながら生きてこそ、充実した人生を送れるような気がします。

 

・メメント・モリ(死を想え)

 “メメント・モリ……「死を想え」。肉体を侮蔑する最も説得力のある方法は、腐敗と崩壊の多様な段階にある、人間の身体の現実描写に加えて、死の醜悪さの黙想であった。中世の修道士の瞑想法では、自分の死を可視化し、自分の身体が徐々に腐肉となり、骨となり、最後には塵となるさまを観想することが求められた。これはチベットのタントラ仏教の瞑想修行を想い起こさせる。身体は心の中で破壊し尽くされ、より具体的な修業では、修行者は死体を墓地の中に瞑想しなければならない。非日常的な意識状態に関する現代の研究は、この種の修行が病気の話題に異常なまでに没頭することをはるかに超えていることを証明している。必然の生物学的な腐敗という最悪の事態も含めて、人間の肉体性を心底から受け入れることは、人間が身体を超えた存在であることを悟り、また肉体の超越と霊的な解放の必要条件となる。ただひたすら世俗の快楽や権力、富のためにのみ生きるべきではないというのが、「アルス・ウィウェンディ(生の作法)」のメッセージである。それは必ずや人間を堕落させる。そうではなく、この世を超越した実在に眼を向けることを学ぶべきなのである。”

 “「モルス・ケルタ、ホラ・インケルタ」(死は必定なれど、その時は定めがたし)。この格言は、あらゆる知恵の始まりである、死を自覚することを教えている。邪悪な行いを避けるために、人生の中に絶えず不寝番を立たせることも提唱している。主要な関心とすべきは、万難を排し、あらゆる実行可能な手段を用いて長生きや延命をすることではなく、神の律法に従って正しく人生を送ることである。死がいつ襲ってくるのか、誰もわからない。したがって、人生の一瞬一瞬を、あたかも最後の時であるかのように送らねばならないのである。
 このことは、必ずしも死の不安や予期に始終怯えながら生きるという意味ではない。このような態度に対しては、もっと楽観的な解釈もできる。すなわち、多くの取るに足らぬ目的を追い求めて時間と精力を浪費する程度を小さくし、代わりに、今この瞬間に歴然と存在している人生という賜物を、最善を尽くして全うしようと努めるのに役立つのである。

       (スタニスラフ・グロフ「死者の書 生死の手引き」平凡社より)

 

 生前に死後のそなえのなき人は 死期せまるとき無限の悔いあり

 

 おおかたの人のあわれは死してのち 天国あるをさとらぬことなり

 

 世の中に死後の世界を知らぬほど 淋しきものはあらじとおもう

 

 天国に生くるのぞみのあればこそ げに人生は楽しかりけり

 

        (出口王仁三郎「愛善の道」瑞光社より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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