死者の埋葬について (シュタイナー人智学) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……エジプトのもうひとつの特徴であるミイラというものについても、もうすこし考えておこう。ミイラとして遺体が保存されると、死後の魂はどうしてもそのミイラに目が向き、思いが物質界に縛りつけられてしまうのだそうだ。そうして、自分のミイラが作られたことによって、物質主義の考えになっていくのだという。

 江戸末期から大正、昭和にかけて、「○○家の墓」という先祖代々の墓が広まっていき、墓に家紋が彫られるようになった。それ以前は、戒名を刻んだ個人の墓が立てられていた。家紋は彫られず、戒名の上に梵字が刻まれた。仏の象徴である梵字を拝み、その功徳が死者におよぶことが期待されたのである。葬式でも、遺体を拝むのではなく、柩のうしろに掛けられた仏の名号などの掛軸を拝し、その功徳によって死者の魂の救済を願うのである。

 

 

 “参列者の都合優先で、死者の生活リズムということは無視される。死者の生活リズムというと変に思われるかもしれないけれど、死後の人生にもそれなりのリズムはあるのだ。

 昔は、臨終の翌日に火葬にしてしまうということはなかった。日本では殯(もがり)といって、埋葬のまえに遺体を一定期間安置する風習があった。生から死へと急激に移行するのではなく、徐々に移行していくという考え方から、ほとんどすべての宗教が臨終から埋葬までに数日おいている。

 古代のゾロアスター教では、遺体を「沈黙の塔」と呼ばれるところに置いて鳥葬にしていたが、沈黙の塔に運ばれるまえに儀式がおこなわれるのだそうだ。沈黙の塔に運ばれるまでに、どれくらいの日数があるかというと、「三日間です。ゾロアスター教では、人が死ぬと三日間はその霊魂がこの世界にとどまるといわれていますから、三日間を過ぎるとその魂は風に運ばれて天国と地獄の別れる橋の袂に行くのです」(松本清張「火の路」)ということだ。

 死んだあと、人間は自分の一生を映像のかたちで眺める、と先に述べた。数日経って、その映像が消え去るとき、死者の生命実質は生命界に解消していく。それまでのあいだ、埋葬するのを待ったのである。

 話がそれるけれど、地球という生命体の存続のためには、遺体が埋葬される必要があるのだという。人間の遺体が地球の養分になるのだ。その際、土葬でも火葬でもいいのだそうだ。

 初七日から二七(十四)日、三七(二十一)日、四七(二十八)日、五七(三十五)日、六七(四十二)日、七七(四十九)日のあいだは、死者は「死霊」で不安定な状態にある、と日本では考えられている。百カ日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌のあいだは、死者は「精霊」で、安定化に向かうとされる。そして、二十五回忌、三十三回忌になると安定し、それが過ぎると「祖霊」になるという。

 ちなみに三回忌というのは死後三年目ではなく、二年後におこなう。これも儒教の影響で、儒教では死亡前日から死後の月日を数えはじめ、二年と一日をもって三年とするのだ。”

 

(西川隆範「死後の宇宙生へ」(廣済堂出版)より)

 

*ルドルフ・シュタイナーが創立に関わったキリスト者共同体では、通常は霊魂が肉体から離れるまでに三日間かかるとされ、死後最低三日間は遺体が安置されることになっています。しかし日本では、親族や葬儀場・火葬場の都合が優先されるので難しいかもしれません。老人の霊は比較的早く肉体から離れるようですが、若者や子供の場合はどうしても肉体に対する執着があります。そのような場合は、神仏に故人の霊魂の速やかな救済をお願いするしかないと思います。

 

*病死であれ事故死であれ、人はその魂の奥深いところで自分の死を前もって知っており、故に死後の生活のリズムを乱されることがなければ、どの霊魂も同じような過程を経て、それぞれに相応しい霊界へと自然に導かれて行きます。しかし、自殺だけは例外で、肉体から無理矢理霊魂が引き離されるだけでなく、死後すぐに火葬にされ肉体を失うと、肉体が存在しないということが自殺者の霊魂に耐えがたい苦しみを与えるのだそうです。そのためキリスト者共同体では、霊魂の苦しみを少しでもやわらげるために自殺者の遺体は必ず土葬にするようにしています。尚、自殺者の霊魂の救済の為には、シュタイナーは「霊的読書」を勧めています。

 

 

・「霊的読書」による自殺者の霊魂の救済

 

 “カレッジが始まって数週間経ったある日、クラスメートの一人とお昼を一緒にとりながら、リチャード(注:著者の自殺した息子)のことを打ち明けた。すると同情に満ちたクラスメートの瞳が、ある思いで輝いた。

 「亡くなった人に本を読んであげることが供養になるって、ルドルフ・シュタイナーが言ったこと知ってる?」

 「えっ、本当?詳しく教えてくれる?」

 私は興奮して大きな声を出していた。

 「キリスト者共同体(注:1922年に欧州で始まったキリスト教運動、その設立にシュタイナーが関わっていた)の、ルイス司祭に電話するといいわ。詳しく話してくださると思う」

 彼女は、司祭の電話番号を教えてくれた。彼女にお礼を言うと、食堂の公衆電話へと急いだ。サクラメントに引っ越してきてすぐ、私は一度だけキリスト者共同体の礼拝に出席したことがあった。電話番号をダイヤルしながら、私の心ははやった。読書がリチャードのためになるという気が、確かにしていた。

 電話口に出たのは、ルイス氏本人だった。私が用件を告げると司祭は、本を読むことは確実に、亡くなった人の供養になるのだと語り、シュタイナーの本から何カ所か、死者のための読書を勧めている部分を教えてくれた。

 「亡くなった人のために本を読むことは、たいへんな供養になります。死後(注:カマロカ、生前を逆時系列で振り返るために霊魂が滞在する世界のことで、生存期間の約三分の一に相当する期間をそこで過ごすとされる)、最初に体験することを乗り切る時、死者の魂は精神的な糧に飢えています。彼らのために本を読むということは、とても良い栄養を与えることになるのです」

 「何を読めばいいでしょうか?」

 「精神的な成長を促すものであれば、何でも構いません。たとえば、聖書、特にヨハネによる福音書(13章から17章まで)、詩、瞑想のための詩、スピリチュアルな歌など。もちろん、ルドルフ・シュタイナーの本はどれも最適です。息子さんはどんなことに興味を持たれていましたか?」

 

 “それから数ヵ月後の1988年10月、私は「悪」に関する研究会に出席していた。講演で、当時アメリカの人智学協会の書記長をしていたワーナー・グレン氏が、「自殺者に本を読み、交信することで関わっていかねばならない」と語った。自殺者の霊は、深い絶望の中で孤立しているだけでなく、彼らに残された生命力は、「悪魔的な存在」によって、人間の進化を破壊的な方向へ向けるのに利用される可能性があるということだった。だが、もし私達が自殺者に助けの手を差し伸べるのであれば、彼らの残りの生命力は、大きな善行に活かせるのだという。” 

 

   (ドレ・デヴェレル「闇に光を見出して わが子の自殺と癒しのプロセス」イザラ書房)

 

*出口王仁三郎聖師も、火葬よりも土葬の方を勧められています。火葬はむごたらしく、骨になった愛する人を見た遺族の悲しみが、どうしても故人の霊魂に影響してしまうからだそうです。しかし、日本では土葬は不可能ではないにしても困難であり、相当な費用もかかります。信仰を持っている者であれば神仏が導いて下さるはずですので、どのような葬られ方であろうと問題はないはずですが、できることなら今の日本では、死後最低三日間経ってから火葬にするというのが一番望ましいように思います。

 

*最近、一部のイスラム教徒の方々が、公共の墓地での土葬の許可を求めておられることがニュースになっています。昔は日本でも土葬が普通でしたし、このことによって水質汚染などの衛生的な問題が発生するとは私には思えません。しかし、これは多くの方に知っておいて頂きたいのですが、欧米諸国に比べてイスラム圏からの移住者が日本に極端に少ないのは、日本が原則的に土葬を禁止していることが理由です。コーランでは火葬を禁止しており、そのことが彼らに日本への移住を躊躇させています。もし、土葬が許可されれば、今後イスラム圏からの移住者が日本にも殺到するであろうことは明らかですし、あちこちの墓地で『土葬を認めないのは宗教差別だ』と申し立てられ、全国でトラブルが増加するのは目に見えています。さらに欧米諸国の移民政策が失敗に終わったことからも、土葬以外に様々な問題が発生するであろうことは容易に予想できます(今やスウェーデンの強姦件数は日本の63倍です)。別にイスラム教徒の方々が悪いとかいうのではなく、世界平和のためには、まず「国魂」の秩序が維持さねばならず、「国魂」を無視した移民政策は明らかに間違いです。本来は善良な人物が自分を見失い、犯罪を犯すようになってしまいます。日本人が外国ではその国の伝統的な文化や習慣を尊重し、法律を守らなければならないのと同様、外国人も日本国内においては日本の文化や習慣を尊重し日本の法律を守らねばならないのは当然ですが、たとえトラブルにはなっていなくても、日本の社会の中に分断が生じているような事態は絶対に防がねばなりません。世界情勢が刻々と危機に近づいている現在、万一何か事が起こったら、いくら穏健な人、理性的な人であっても集団的狂気に呑み込まれてしまい、そうなると手がつけられなくなります。「戦争論」で知られるクラウゼヴィッツの言葉に、『初めて戦争の危険に直面した者は、その瞬間に判断の能力を失う』、『流血を厭うものは、それを厭わぬものに必ず征服される』というのがありますが、そのような時に、今の日本人のほとんどの者は征服される側となるであろうことは明らかで、体格が小さく力の弱い子供や女性が真っ先に狙われることになります。非常時には警察は何の役にも立ちません。

 

 

 

 

 

 

 

 

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