自殺について | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・自殺について

 

 “これは実際にあった話で、林稔子さんという東京(当時)の信者さんが昭和四十七年七月号の「おほもと」誌に、ご自身の体験として紹介して下さっているものです。ちょっとこの誌面に拝借したいと思います。

 昭和三十年ごろのこと、林さんはある朝不思議な夢をみられました。川底にポッカリと穴があいていて、そこに見知らぬ男の人がうずくまっています。まわりには魚が泳いでいるのですが、穴の中だけは水がなく、どうやらその男の人の生活場所のように思われました。そこへ、林さんが日ごろ親しくしているお友達のお母さんが食膳を運んで来られ、男の人に手渡されました。男の人は、うれしそうに受け取り、食事をするのでした。夢はそこで覚めたそうです。

 数日後、林さんはそのお友達の家に行き、すすめられて夕食を頂かれます。そのときテーブルの端に一椀のご飯が置いてありました。まるでだれかにお供えしてあるかのように見えます。これを見た林さんは、ふと先日の夢を思い出し、その場におられたお友達のお母さんに、夢の話を詳しくされ、

「それで、そのとき男の人に食事を運んで来られたのがお母さんでした」

と言われました。お母さんはサッと顔色を変え、思いがけない身の上話を始められました。

 実は、そのお母さんは結婚は二度目だったそうです。先の夫は病弱でノイローゼになり、今の子供(林さんのお友達)を残して、ある日、水の中に飛び込んで自殺してしまいました。その後、縁あって結ばれたのが今のご主人。今のご主人は熱心な大本の信者さんでした。ご主人から、神さまの話、霊界の話、人生の意義などいろいろ聞かされ、聞けば聞くほど気になるのが、自殺した先の夫のことでした。

「自殺した前の夫は霊界でどんな生活をしているのだろう。ちゃんと食べさせてもらっているのだろうか」

 そんな気持ちで毎日をすごされますが、あるとき思いつかれたのが、いわゆる「陰膳(かげぜん)」でした。今頃は、陰膳という言葉さえ聞かなくなりましたが、昔、たとえば戦争中、戦地へ行った夫や息子のために、本国では兵隊さんの奥さんやお母さんが、家庭で毎日、夫や息子の写真に三度三度食膳を供え、無事を祈られた、これが陰膳です。ただし、林さんのお友達のお母さんの場合、現在のご主人がおられますから、先夫の写真を家の中に飾って食膳をお供えするというのは、気がひけたのでしょう。毎食、テーブルの上に、だれのためということはなしに一椀のご飯を置いておかれ、心の中では、

「自殺した夫のために」

と祈っておられたのです。これも立派な陰膳です。

 

 話は途中ですが、陰膳というのは功徳のあるものです。戦争中、陰膳をしてもらっていた兵隊さんは、どんなに食料の難儀な土地へ行かされても、不思議に食べ物には困らなかったそうです。実は私の父も、戦争中、陰膳で奇跡的なおかげを頂いています。……(中略)”

 

 “話をもとに戻しましょう。先の夫のために陰膳をつづけられたお友達のお母さんの祈りは、やはり霊界にとどいていました。自殺した前のご主人は、林さんが夢で見られたように、毎日食事を運んでもらって、食べることだけは困っていなかったのです。しかし、その境遇はというと、水中での穴ぐらの生活です。聖師さまは、

 

『水にドボンと飛び込んで自殺した人は、ドボンと飛び込んだ瞬間の世界しか霊界では与えられない』

 

とおっしゃったそうです。人生の本当の意義目的を知らずに、授けて頂いた尊い命を自ら放棄するのですから、そうなるのでしょう。自殺は、理由のいかんを問わず、やはり罪深いことなのです。

 では、自殺者は永遠に霊界で救われないかというと、そうではありません。遺(のこ)された者の追善供養により、とくに自殺者に代わって自殺の罪を神さまにお詫びすることにより、必ず救われるものです。ただし、それには自殺した本人が、霊界で自殺の罪を理解し、自らも神さまに詫びる気持ちになることが必要です。神さまの救いのみ手は常に差し伸べられているのですが、それを受けるか否かは本人の意思によるのですから、本人がその気にならないと救われないのです。ですから、遺された者は、追善供養とともに自殺した本人が霊界で自らのあやまちに気づいてくれますようにと祈ってあげることが大切であると思います。

 もし、読者のみなさまの近くに自殺した人があった場合、どうか神さまのみ救いにあずかれるように祈ってあげて下さい。また、「死にたい」などと言っている人があれば、人生の意義目的を教えてあげて下さい。それは、私たちに与えられた神さまからの大きなご用であると思います。”

 

          (「おほもと」平成5年11月号 串崎哲『自殺の話』より)

 

 

・シルバー・バーチ
 

 “自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。
 地上の誰一人として、何かの手違いのために、その人が克服できないほどの障害に遭遇することは絶対にありません。
 その障害物は、その人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのです。苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。それはあり得ないことです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。
 あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き換えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。
 いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に沈む勇気が湧き出てきます。責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。
 背負いきれないほどの荷はけっして負わされません。なぜなら、その荷は自らの悪業がこしらえたものだからです。けっして神が“この人間にはこれだけのものを負わせてやろう”と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。
 宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです。”

     (近藤千雄「シルバーバーチの祈り ― 祈りの先にあるもの」潮文社より)

 

 

・ルドルフ・シュタイナー

 “ルドルフ・シュタイナーによれば、自殺以外のすべての死は、事故死などを含めて六日前から始まるといわれています。日本でもある人が事故死したという訃報が入った後、「そういえば、三日前に会った時、あの人の影が薄かった」とか、「虫の知らせがあった」という表現をすることがありますが、これはシュタイナーの「六日前説」に一致するのではないでしょうか。事故死などは当人のカルマと転生の問題を究明しなければ、その本当の意味を見出すことが不可能です。凡てとは断定できませんが、多くの事故死もまたひとつの「自然死」であるということが可能なのかもしれません。
 
 しかし自殺は決して自然死ではありません。普通は、心的・体的に死の準備がある程度完了してから人間は死ぬのですが、自殺の場合は、非常に一面的な心の状態が死への引き金となり、体的な死の準備の全く無いまま、無理やり体から魂を、何らかの手段によって引き裂くということが起こるからです。これは本当の死ではないのです。だから多くの自殺者は霊的世界へ赴くことができずに、いわば地上世界と霊的世界の中間をしばらくさまよわなければならない、とシュタイナーは考えていました。その期間は非常に個人差がありますが、おおよそ、その自殺者が自殺しなければ生きていけたであろう年数の間とされています。すなわち、その人が二十歳で命を自ら断ったとしますと、本来その人が予定していた七十歳までにまだ五十年もあるわけですが、この五十年間、その人は霊的世界に入ることができず、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうというのです。多くの場合、自殺すると比較的早く自殺以外による解決法がわかり、自分の肉体に戻ってはやく問題を解決したいと熱望するようになるのです。それで、もはや肉体は死んでいて地上世界に帰れないという事実に本当に苦しむことになるのです。
 ですから、キリスト者共同体では、自殺者の葬礼は必ず土葬にすることにしております。土葬ですとまだしばらくの間自分の肉体が存在するので、自殺者に若干の安心感を与えることができるからです。日本の多くの都市では土葬は困難でしょうが、可能なら土葬にしてあげることが当人にとっての大きな供養になるのです。しかし、土葬が全く不可能ならば、全遺骨と個人にとって愛着のあった品々や服などを一緒に入れて墓に納めてあげると良いかもしれません。
 
 しかしありがたいことに、本当の意味での自殺はごくごく稀なのです。一般的に自殺をする多くの人々は、鬱病や分裂病などの心の病を患っている場合が多く、その他にもドラッグによる心の錯乱やアルコール依存症などによる意識の混濁などを挙げることができますが、自殺への決意と実行が「健康」な意識によって行われることは全くないのです。ですからこの場合の「自殺」は本当の自殺ではなく、むしろ「病死」か「事故死」に近いものであるということができましょう。本当の自殺とは、完全に澄んだ明るい意識の下で論理的に思考した結果、死を選ぶ結論に至ることが前提となるのです。ですから、其の自殺は本当に稀であると断言できるのではないでしょうか。以前、東京のある葬儀社の方から、新聞には出ないけれども日本の都市では本当に自殺が多いということを聞いたことがあり、若干長くなりましたが、自殺について人智学ではどのように考えるかをここに記しておくことにしました。”

(小林直生「死ぬことと生きること―キリスト者共同体は「死」とどう向き合うか―」涼風書林より)