老人へのあこがれ 〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “‥‥‥シュタイナーによれば、魂と肉体との関係において、古代人と現代人とには、基本的な相違がある、というのです。ひと口でいえば、太古の人間の魂は、肉体の老いとともに、肉体から解放されて、よりいっそう軽やかになれたというのです。すでに四十代になる頃には、霊性の目覚めを体験して、魂は自由となり、いわゆる「不惑の年」を迎えます。そして五十歳以後は自分の望む通りの生活をしても道理に反しない、「見霊者」的な人生を送ることができたというのです。そういう老人を古代の青年達は崇拝していました。そして「人間、年はとりたくない」ではなく、「老いるというのはすてきなことだ」と感じました。なぜなら、老人になり、見霊的な能力を獲得することによって、以前は経験できなかったような人生を送ることが出来るようになるのですから。ちょうど、車のおもちゃで遊んでいる子どもが、本ものの車を運転する大人たちに対するように、古代の青年は老人たちに対して、いつかは自分もそのようになりたい、と願ったのです。いつかは自分も老人となって、自分の内部から何か大切な事柄を霊感によって汲み出すことができるようになりたい、と願ったのです。

 ところが現代人は、すでに十代の終わり頃には、まだ肉体そのものが未熟なうちに、魂を肉体から独立させてしまいます。そしてその未熟な肉体と魂は葛藤しはじめるのです。ですから身体に悪いと思っても、タバコを吸いすぎたり、お酒を飲み過ぎたりします。身体の本来の健康に反しても魂がそうできるというのは、魂が身体に依存しなくなった証拠です。私たちの魂はすでに十代の終わり頃には、身体から切り離されて、孤独な状態に陥ってしまっているのです。そして三十五歳を過ぎて、生体の中に老廃物が沈殿し始め、それに伴って生命活動が不活発になってくると、その後の魂はもっぱら肉体の衰えを意識させられ、経験と知識と技術がかろうじてそれをカヴァーしているだけの存在となってしまいます。本来の魂の成長はとっくに停止しているのです。もっと正確にいえば、魂は無意識の中でしか成長しなくなってしまうのです。

 シュタイナーは魂のこの潜在的な成長過程をふたたび顕在化し、意識化することが、現代文化のもっとも重要な課題だ、と考えていました。そして、「それではどうしたら、そのような意識化が可能になるのか」という問いに対して、「それは子どもの教育によって可能になる」と答えたのです。

 シュタイナーによれば、正しい教育(もちろん正しい教育とは自己教育を含めての教育のことです)を受けられなかった人は、自分の魂の成長を三十歳ぐらいまでしか実感することができません。三十歳以後になると、自分の魂が内的に変化を遂げて別のものになった、という体験を持つことができなくなってしまうのです。もちろん大きな事件が起これば、どんな年齢の人にも魂の変化は生じます。しかしここでいうのは、内部から必然的に生じてくるような変化のことです。そしてそのような変化がないからこそ、現代人は自分を唯物論者にもすると同時に、自分を内的必然性からも自由な存在にしているのです。

 そのように現代の人間は、自分の魂の内的な発展の道を見失ってしまい、そのことによる「内的な自由」を手に入れてからは、もっぱら知的存在であることを頼りに生きていきます。―― 「もしも禁断の木の実を食べて、すべてを知的に論証、または批判したいと願うようになってしまったら、私達はこの論証や批判の中でもはやどんな内的進歩も体験できなくなります」(一九二二年十月十二日の講演)、とシュタイナーは語っています。”

 

 “自我にとっていちばん大事なのは何かというと、自分でなければできない何かを眼の前に持つことです。それと向かい合うたびに、自分の個的存在が実感でき、それと共に自我が力づけを受けます。他の人にもできるような仕事をしていて、しかもその仕事に自我が関わってゆけないとき、つまりその仕事が愛せないときに、―― たとえば、毎日の家事の仕事が山のようにあって、お掃除をしたりお茶碗を洗ったりしなければいけないのに、これは自分がやらなくても、お手伝いに頼めばできるとか、自分がやるべきことではないとかと思いながらやっているようなときに、その人の自我はだんだん老化していきます。

 ところがお茶碗のひとつひとつに愛情を持って、このお茶碗は自分にとって大事だからきれいにしようとか、片づけをするときでも、われながらずいぶんきれいに部屋を片付けたものだとかいう思いを持つたびに、お掃除すること、お茶碗を洗うことに個性が刻印されていき、それによって自我が目覚めていくので、衰えることはありえないのです。要するに態度の問題なのですが、積極的に関わることができるものが何もない、受け身の状態の中にいると、自我の力は弱まっていきます。

 いちばん受け身でいられる環境を提供してくれるのはテレビです。‥‥‥”

 

    (高橋巌「シュタイナー教育の方法 子どもに則した教育」(角川選書)より)

 

*上記の文に続いて、テレビを見てはならないというわけではないが、その悪影響についても認識しておくべきこと、また、老人と子どもたちが交流することで、双方がどのような恩恵を受けることが出来るかといったことなどが詳しく述べられています。教育の荒廃と共に、老人の自殺も増加しているようですが、これには核家族化、単独世帯化の進行も影響しているのかも知れません。ただ、最近は若い世代の親との近居が増えているそうなので、その点は改善されつつあるように思います。

 

*野口整体の野口晴哉先生の言葉で、「年をとって惨めな生活を送る人は、年をとって惨めな生活を送るような生き方をしてきたのだ」というのがあります。そしてシュタイナーも、子どものころ正しい教育を受けられなかった人には、あまり霊的な成長が望めないと述べています。確かにその通りかもしれないと思うのですが、シュタイナーによれば「すべてを知的に論証、または批判したいと願うようになってしまったら、どんな内的進歩も体験できなくなる」ということなので、そうなっていない限りは大丈夫だと思われます。

 

*エドガー・ケイシーは、「失われた時間を取り戻すことは可能でしょうか?」との問いに、「何も失われてはいない」と答えています。魂は永遠であり、無限の可能性があるのであって、何かを始めるに遅すぎるということはなく、老いてからでもアクションを起こしさえすれば、たとえ肉体の寿命が尽きてしまっても、死後、そして来世にその努力を持ち越すことができるのだということです。

 

*老人が、いつまでも若々しくあろうと努力することは良いことですが、それだけではあまりにも唯物的で、肉体面のみならず霊性をも高めるよう意識することが重要だと思います。いくら努力しても肉体は自然の法則に従わざるを得ません。出口聖師は、人は六十歳を過ぎたら、つねに神様の事を考え、できるだけ「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」を多く唱えるように、と言われています。

 

*以前も紹介させていただきましたが、エドガー・ケイシーは、肉体の若返りに最も効果がある運動は、猫のように背骨をストレッチすることだと述べています。ヨガのバランスボールに仰向けに横たわると簡単に出来ます。ケイシーは、「人は年をとらなければならないという必然性はない」とも言っています。アンチ・エイジングのために努力することは、別に悪い事ではありません。

 

 

 “アメリカ・アイオワ州のある医療団体の調査では、祈りや黙想をすることで、身体的に若返っていくという結果が出ました。そして何と、人は1年黙想するごとに、1年分も若返るというのです。ですから例えば、45歳の時から黙想を始めると、55歳になった頃には身体的な若さは、35歳になっているはずなのです。なぜ、アメリカで長寿人口の多くがシスターであるのかが、見えてくるかもしれません。
 さすがに不死身になるなどということはありえないでしょうが、きっとあなたも、気楽に祈りや黙想を日々行うことで、新たな力がわき出てくるのを実感するでしょう。
 自分の弱さや痛みを、祈りや黙想でプラスのエネルギーに転換すれば、それは人生を前向きに生きる原動力となるに違いありません。”

 (マシュウ・リン、シーラ・リン、デニス・リン共著「いやしを求めて」(ドン・ボスコ社)より)