本来の日本の葬祭とは 〔川面凡児〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “「……人間のあらわれ来たる以上、生の半面あり、死の半面あり、生まるるを狂喜するに及ばぬごとく、死するをまた恐怖するにも足らぬ。生死は人生の常である。ゆゑに日本の教にはその君生前の忠とともに死後の忠がより以上に大切であり、新天子に仕へまつること旧天子に仕へる如くあらねばならない。更に、父母の生前に孝養ある如く、死後の孝養が大事である。その君その親を失うて、諸行無常を泣くならば、遂には平等不壊の涅槃浄土に行きたくなり、国家も要らず、家も要らず、妻子も要らず、独り生きて独り行くなる夢幻身、ここに覚め来れば、真如法海不変の月、すべてをすててしまひたくなるのである。これでは人生は朝露の如しと覚るのみで、人生に處するの途を誤るのである。死後の忠なくんば忠臣たるの行為を誤る如く、死後の孝なくんば孝子たるの行動を誤るに至る。死後の忠孝あればかなしんでその身を傷つけず、大に父母の意志を全うして、家を興し国を守るが大切である。日本民族は君父の喪にあうて、彌発奮努力霊火を燃やすが道である。何ぞいはんや祖神の垂示としては、子臣のかなしみの気は、死者の霊魂にたどり行きつつあるがゆえに、慟哭の涙は死者の霊魂に流れ込み、死者をして後髪ひかるるおもひにたへざらしめ、むしろ苦痛を招くものである。ゆゑに死者の行く手を祝福せんとおもはば慟哭せざるにあり。涙を流さざるにあり、むしろ死者の徳をたたへまつりて、天津詔勅乃太詔勅(あまつのりとのふとのりと)を奏でまつるにあり。また信仰によりては称名念仏もよし、読経もよし、讃美歌をうたふもよし、神人感応の思想言語を死者に手向くべきである。ゆえに、奈良朝前後までは、その家に死者あれば、朋友知人をはじめ、村人に至るまで集まり来たりて神楽を奏し、死人の徳をうたひ、神の御声としての天津詔勅乃太詔勅を告げ、死者の霊をまつり、死者の霊を慰藉するとともに、子孫遺族をして悲しむことなからしめたのである。子孫遺族をして、神楽の列に入り悲しみの気を散ぜしめ、うれひの心を消却せしめ、快活の気象を発揮し、第二の人生を営むべく奨励したのである。されば奈良朝以前までの日本民族は、海外万里を横行闊歩し、世界を家とした大興国的気象に富んでおったのである。しかるに支那から儒教が来て「喪はその奢らんよりむしろかなしめよ」とて、人の死に向かってかなしみの道を教へ、さらぬだに悲しみつつある人間をして、更に一層悲しむべき道を開いたのである。次に仏教が入り来たりて諸行無常、是生滅法を伝へ、空苦、無我、無常を伝へ、この世を頼みがたき夢幻化したので、国民の英気は消磨し、三韓、南洋とも交通途絶え、花鳥風月の平安朝となり、後生大事の伽藍建立ともなり、死後の往生得楽か、この世の脱俗風雅を尊ぶに至ったもので、死後の忠孝は忘れられて来たのである。しかし神代の遺風は全然消磨せず、王法一体の仏教となり、死後の追善供養を営むに至った。インド仏教にはなきところの月々の月忌祥月命日、年忌供養等は、みな日本精神に化せられたものである。この死後の忠、死後の考、死後の愛を心掛けておらねば、万一の時において不覚を招き人生を誤ることあり、よくよく注意すべきである。」「さりとてはなげきこそせめやつれゆくわが身に母の心ひかれて。」「われはこれますらをの子ぞいたづらになげくを孝とおもふべしやは。」「いたづらになげくばかりを孝なりとおもふは弱き国の教ぞ。」”

 

(金谷真 「川面凡児先生伝」(稜威会)より)

 

*残された遺族の悲しみが死者の霊魂に悪影響を与えるということは出口王仁三郎聖師も言っておられました。台湾や東南アジアではお葬式の時にはどんちゃん騒ぎをする伝統があるそうですが、本来はそのようなスタイルが望ましいのかもしれません。川面凡児先生は、奈良朝前後までは葬祭では「神楽」が演ぜられていたということを述べておられますが、神楽であれば、歌や踊りを楽しめるだけでなく、皆の意識を神界へと向けさせる効果もあるでしょうし、これこそが理想的なお葬式であるように思います。

 

*明治の神人、川面凡児先生は、長らく失伝していた古流の「禊」を復興させた人物であり、千里眼や予知、天狗を使役するなど凄まじい霊力をもっておられたことでも知られています。戦前は「禊行」は全国各地で行われ、今も川面流禊行を伝える団体はいくつかあるようです。そのうちの一つ、伊勢にある「神道大和教総社・禊之宮」は、直弟子であり伊勢外宮の宮司でもあった巽健翁によって創設された禊道場で、川面流の屋内禊を伝える唯一の団体であり、芥川賞作家、三浦清宏氏の著書「見えない世界と繋がる 我が天人感応」(未来社)の中に詳しい説明があります。

 

*明日は春分の日で彼岸の中日ですが、この時期は霊界の方でも供養を受けることを期待しているそうです。ぜひ、ご先祖の霊のために、お墓参りや仏前でお経や霊的な本を朗読されることをおすすめします。お供えしたお菓子やお茶も、すべて霊界に届きます。

 

・「幽顕問答」 (江戸時代の霊界通信) 

 

霊「死して霊となりたる者は顕世のことには関与せぬものなり。顕世のことは見聞きするのも穢らわしきのみならず、霊は人間のことには関わらぬが掟なり。ただし、生存中に心を残し思いを込めたる事は、霊となりたるのちもよく知れることができ、またよく知れるが故に苦痛が絶えざるなり。およそ霊は人間界の成り行きは知らぬが常なり。されば余も詳しきことは知らず。ただ人体に憑きてその耳目を借りおる間は、人間界のすべてを知りうるものぞ。
 さて、余のごとく人の体を借りるに当たりて、それを病ましむるはなぜというに、人の魂は太く盛んなるが故に、これを病ましれざれば余の宿るべき場所の無ければなり。気の毒なれど余は市次郎(若主人の名)を苦しめてその魂を脇へ押しやり、その空所に余の魂を満たしぬ。
 市次郎の体は今見らるるごとく大病人なれど、内実は余の宿なり。されば前に述べたるごとく幽界に入りては人間界のことは知らぬが道なれど、ただ人体に憑りたる間のことはよく知りおれば、何事にても問われよ。また生前に心をこめし事もよく知りおるなり。」

宮崎氏「さらば人間界において弔祭(供養・祭礼)など催すとも幽界の魂には通ぜぬことにならずや。」

霊「なかなかしからず。考えてもみられよ。神を祀り魂を供養するは、たとえ人間界の催しとは申せ、そはみな幽界に関わることにあらずや。故に祭祀は神にも通じ霊魂にも通ずるなり。金銭のやり取り婚姻等の俗事は穢らわしければ、霊はこれを見聞きするを避くるなり。霊となりては衣食ともに不要なるが故に欲しきものもなく、ただ苦を厭い楽しみを思うのみなり。
 さて祭事を行うに当たり人々俗事を忘れて親しく楽しむ心は幽界に通じ、祭られし霊魂もこれに感応して歓ぶ。歓べば自然に魂も大きくなり、徳も高くなり、祭りを行いたる者も幸福を受くるものにて、人間界より誠を尽くせばその誠よく霊に通ずるものなり。」
 


吉富氏「彼岸盆会には世俗みな霊を祀る慣習なるが、かかる折には霊魂は実際に来臨するものか。」

霊「彼岸盆会は世俗おしなべて霊を祭る時と定めてあれば、霊界にても祀りを受くべき時と直感し、また死せる人も盆会には必ず来るものと思い込みて死せるが故に、必ず現れ来たるなり。・・・・」
 

宮崎氏「帰幽せる霊はみな各自の墓所にのみ居るものか」

霊「常に鎮まりたるは余のごとく無念を抱きて相果てし輩(やから)か、あるいは最初よりその墓に永く鎮まらんと思い定めたる類にして、その数、いと少なし。多数の霊魂の赴く先は霊の世界のことゆえ言葉にては告げ難し」

宮崎氏「墓所に居らざる霊魂はいずこにて供養を受くるか。彼らもその供養の場に訪れるものか」

霊「地上にて幾百年も引き続きて行い来たれる祭り事は幽界にてもだいたいそのごとく定まれるものなり。されば勝手に月日を改め、そのことを霊魂に告げずして執行すれば、それがために却って凶事を招くこともあり。
 なぜというに、霊がいつもの期日を思い出し祭りを受けに来るに、すでに済みたるを知り不快に思うが故なり。
 地上にて同時に数カ所にて祭祀を行う時には、霊は数個に分かれてそれぞれの祭場に到り、祭りを受くるものなり。たとえ百カ所にて祭るとも、霊は百個に分かれて百カ所に到るべし。もっとも余のごとき者の霊は一つに凝り固まりて、その自由は得がたし。」

宮崎氏「年号月日はいかにして霊界に知れるぞ」

霊「先に述べたるごとく人間界のことは人の耳目を借らざれば正確には知り難し。われ先月より市次郎の耳目を借りて見るに、あの通り帳面三つ掛けありて、ともに天保十年正月と記せるを見れば、いずれも同時に調整され、今年が天保十年になること明らかなり。また月日を知るは、七月四日が余の忌日(命日)にて、その日は霊界にありてもよく知らるるなり。これはひとり余にかぎらず、他の霊魂もみなその忌日は知りおるものぞ

         (近藤千雄編「古武士霊は語る 実録 幽顕問答」潮文社より)

 

*「幽顕問答」とは、今から数百年前に、無念の割腹自殺を遂げた加賀の武士が、積年の願いを遂げるため、天保十年に筑前(福岡県)のある家の若主人に憑依して出現し、その宿願を果たすとともに、ことのついでに現界と死後の世界とのつながりについて物語ったものの記録です。ここで引用させていただいたのはそのほんの一部ですが、地元神社の宮司で、国学者・平田篤胤の弟子でもあった神道家、宮崎大門らが、武士の霊と交わした問答が克明に記録されており、亡くなった方々に対する供養のやり方を考える上で、非常に参考になる本です。

 

・人智学にもとづく死者への対応  〔ルドルフ・シュタイナー〕

 “人間が死の門を通っていくときには、それまで秘せられていたすべての魂の力や憧れも表に現われて、死者となったその人の魂に影響を及ぼします。その人が生前、心中ひそかに抑えていた願いのすべてが浄化期(カマロカ)を生きる魂の中に現れます。この世で霊学の敵であった人たちも死の門を通った後では、霊学をこの上なく熱心に求めようとします。霊学嫌いな人が死後になると、霊学を求めるようになるのです。

 そうすると、次のようなことが生じます。・・・もしその人に生前、霊学書を手渡そうとしたら、叱りつけられたことでしょう。けれども、死者となったその人に対しては、霊的に深い内容を持った書籍、聖書やお経を読んであげること以上によい供養はないのです。生前の死者の姿を生きいきと心に思い浮かべながら、心の中で、または低い声で、死者たちに読んで聞かせるのです。そうすれば、それが死者に対してもっとも好ましい働きかけになります。そのような例を私たちは人智学運動の内部で数多く経験してきました。家族の誰かが世を去り、後に残された者が、その死者に対して朗読して励ました例をです。そうすると死者たちは提供されたものを深い感謝とともに受け取ります。そしてすばらしい共同生活を生じさせることができるのです。

 まさにこのことにおいてこそ、霊学が実際生活の中でどんな意味を持ち得るのかがわかります。霊学は単なる理論なのではなく、人生に働きかけて、生者と死者の間の壁を取り除くのです。断絶に橋が架けられるのです。死者たちには読んで聞かせてあげること以上によい助言はありません。

 そこで次のような問いが生じます。・・・一体死者は、霊界で教え諭してくれるような霊的存在を見出すことができないのでしょうか?ええ、見出すことはできないのです。死者は、生前結びつきのあった霊的存在たちとしか関係が持てません。死者がこの世で知ることのなかった神霊や死者たちに出会っても、死者はその存在を素通りしてしまうのです。どんなに役に立ってくれそうな存在に出会っても、生前関係がなかったのでしたら何の役にも立ってくれないのです。(1913年1月21日、ウィーンでの講演)”  

 

(「シュタイナーの死者の書」ちくま学芸文庫)

 

*ルドルフ・シュタイナーによると、生前に何の信仰も持っていなかった人は、死後いかなる霊的な存在の援助も受けることが出来ません。しかし、親族や友人たちの声は届くようなので、彼らによる供養が何よりも重要なものとなります。 

 

 “カレッジが始まって数週間経ったある日、クラスメートの一人とお昼を一緒にとりながら、リチャード(注:著者の自殺した息子)のことを打ち明けた。すると同情に満ちたクラスメートの瞳が、ある思いで輝いた。

 「亡くなった人に本を読んであげることが供養になるって、ルドルフ・シュタイナーが言ったこと知ってる?」

 「えっ、本当?詳しく教えてくれる?」

 私は興奮して大きな声を出していた。

 「キリスト者共同体(注:1922年に欧州で始まったキリスト教運動、その設立にシュタイナーが関わっていた)の、ルイス司祭に電話するといいわ。詳しく話してくださると思う」

 彼女は、司祭の電話番号を教えてくれた。彼女にお礼を言うと、食堂の公衆電話へと急いだ。サクラメントに引っ越してきてすぐ、私は一度だけキリスト者共同体の礼拝に出席したことがあった。電話番号をダイヤルしながら、私の心ははやった。読書がリチャードのためになるという気が、確かにしていた。

 電話口に出たのは、ルイス氏本人だった。私が用件を告げると司祭は、本を読むことは確実に、亡くなった人の供養になるのだと語り、シュタイナーの本から何カ所か、死者のための読書を勧めている部分を教えてくれた。

 「亡くなった人のために本を読むことは、たいへんな供養になります。死後(注:カマロカ、生前を逆時系列で振り返るために霊魂が滞在する世界のことで、生存期間の約三分の一に相当する期間をそこで過ごすとされる)、最初に体験することを乗り切る時、死者の魂は精神的な糧に飢えています。彼らのために本を読むということは、とても良い栄養を与えることになるのです」

 「何を読めばいいでしょうか?」

 「精神的な成長を促すものであれば、何でも構いません。たとえば、聖書、特にヨハネによる福音書(13章から17章まで)、詩、瞑想のための詩、スピリチュアルな歌など。もちろん、ルドルフ・シュタイナーの本はどれも最適です。息子さんはどんなことに興味を持たれていましたか?」”

 

“それから数ヵ月後の1988年10月、私は「悪」に関する研究会に出席していた。講演で、当時アメリカの人智学協会の書記長をしていたワーナー・グレン氏が、「自殺者に本を読み、交信することで関わっていかねばならない」と語った。自殺者の霊は、深い絶望の中で孤立しているだけでなく、彼らに残された生命力は、「悪魔的な存在」によって、人間の進化を破壊的な方向へ向けるのに利用される可能性があるということだった。だが、もし私達が自殺者に助けの手を差し伸べるのであれば、彼らの残りの生命力は、大きな善行に活かせるのだという。”  

 

(ドレ・デヴェレル「闇に光を見出して わが子の自殺と癒しのプロセス」イザラ書房)

 

 

 

 

 

 

 


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