幽冥界の祝詞 (天狗の修行 / 仙童寅吉) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “それでは、寅吉のいう山人とは、いったいどのような修行、修法をするのか、次に見てみよう。

 寅吉は、いわゆる「十三天狗」や「正天狗」と普通の天狗には区別があることをのべ、天狗にも種々の位階(ヒエラルキー)のあることを語っている。

 

 凡て天狗道に入ては、いかなる貴き人と云へども、現世の人よりは、位卑くなるが、大天狗になりては、段々に世人より、位高くなるなり。

 

 天狗の位はどのようにして決まるのかという問いに対して、寅吉は、「行の重なるに従ひて、位上がるなり。十二天狗の如き、大天狗となりては、正一の位なり」とのべ、天狗にとっては「行」がいかに大切なものであるかを強調している。しかし、その位が何から、あるいは誰から、どのような権利で授けられるかということについては、寅吉は、知らない、と答えている。そして、天狗が神を信仰し、諸神社に参詣するかという質問に、「神々をば悉く信仰して、常に拝をなし、また諸社に参詣する事もあり」と答えている。たとえば、参詣の際の神拝の作法はどのようなものであるかについて、寅吉は、

 

 拍手をうつに、天の御柱と云ひて、大きく一つ拍ち、国の御柱と云ひて、小さく一つ拍て、八百万の神たち、これにより給へと唱へて、祈願を為すなり。祈願をはりて後に、国の御柱と云ひて小さく一つ拍ち、天の御柱と云ひて大きく一つ拍て、八百万神、もとの宮へ帰り給へと唱ふ。神拝に、天の御柱、国の御柱といへば、神々へ祈願よく届きて、聞入れ給ふなり。また日向の御柱、これは身そゝぎの時唱ふることあり、これは大社大国柱の御事なりとぞ。

 

と語っている。また、天狗はとくに愛宕の神を信仰すると聞くが本当か、という問いに対して、寅吉は、『愛宕に限らず、何にても、其山の神を大切に信ず。されど火の行をする故に、愛宕をば常に信仰するなり』と述べ、どの山の神をも信仰することを強調し、愛宕山はとりわけ天狗山人の「火の行」の実修にとって大切な信仰であると云っている。

 寅吉の語る「行」には、たとえば先に記した、弟子入りのときの「百日断食行」や、また、「火の行」、「寒中三十日の水行」、今日のがまん大会のような「冬ひとへ物、夏綿入を著る行」、「寒水に七度入りて、熱に三度入る、年に四度の行」、「テッパンといふ行」などがあげられている。”

 

(「心霊研究」1985年2月号 鎌田東二『平田篤胤の心霊研究⑹』より)

 

*仙道寅吉とは、江戸時代の国学者平田篤胤の著作「仙境異聞」の主人公の少年、天狗小僧寅吉のことです。七歳の時から異界の存在に導かれて度々幽冥界・神仙界に出入りするようになり、そこで彼が体験した様々な出来事、天狗界での修行の内容等は、篤胤によってかなり詳しく記録され、今や現代語にも訳されて出版されています。それにしても、彼が語った神拝の作法について、いったい何故「天の御柱」「国の御柱」と唱えるのかが気になります。それぞれ「天津神」「国津神」の総称であるならば、そのまま「天津神、国津神」と唱えるでしょうし、「天の御柱」というのは古事記の中に登場しますが、天地開闢の際に、伊弉諾尊と伊弉冉尊が国生み御子生みの神業のために廻られた柱のことで、また奈良県の龍田神宮では、「天の御柱」、「国の御柱」とは男女二体の風の神様のことで(崇神天皇が夢で託宣を受けられたのだとか)、竜巻を神格化した神ともいわれています。しかし、天地開闢のときの「天の御柱」は人格を持った存在とは見なされておりませんし、風の神であるとしても、他の神々を差し置いてなぜ風の神に呼びかけるのか疑問です。そして、実は、前々回の記事で紹介させていただいた玉置神社の境内社である三柱神社には、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)と共に、天御柱神(あめのみはしらのかみ)と国御柱神(くにのみはしらのかみ)が祀られているのです。既に「霊界物語」を読んでおられる方はお気づきだと思いますが、原初において、最初に艮の金神国常立尊が、次に坤の金神豊雲野尊が、それぞれ金色と銀色の巨大な円柱となって出現され、互いに左遷運動、右旋運動をはじめられて、それで天地が攪拌されて世界が徐々に形づくられていったのであり(その後二神は龍体化して御神業を継続)、ならば、もしかしたらこの幽冥界の祝詞の「天の御柱」「国の御柱」とは、もともとは根源神である艮坤二神への呼び掛けだったのではないでしょうか。更に皇道大本の教義では「一神即万神」でもあるのです。そうであれば、寅吉が『神拝に、天の御柱、国の御柱といへば、神々へ祈願よく届きて、聞入れ給ふなり』と言うのも納得できます。そして三柱神社には、今なお古代の信仰形態が残されており、祀られているのは単なる稲荷や風の神様ではなくて、実は相当に高い神格の神様が鎮まっておられるのかもしれません。御祭神の倉稲魂神(うがのみたまのかみ)は伊勢外宮の豊受大神と同一神とされていますが、この豊受大神とは国祖国常立尊のことでもありますし、出口王仁三郎聖師によれば、大本神業とは『新しい豊受の神業』でもあるのです。

 

 “聖師さまのお話では、日本には大きな流れとして、饒速日の命と瓊瓊杵の命の系統がありまして、瓊瓊杵の命の方は今の天皇さまの流れであり、饒速日の方が開化天皇の流れであるということになる。饒速日命は、十種の神宝(とくさのかむだから)をもらった鎮魂の家であって、人類の魂と神々の世界を結ぶのが使命です。十曜の紋は十種の神宝をあらわしていると教えられた。

 穴太という地名については、外宮の神様さまが元伊勢から現在の伊勢へ移られる途中、駐輦され云々とあるように、豊受の神業″が行われるわけです。丹波の国が主基(すき)田にされて(悠紀田が近江)、天皇がおあがりになるご飯も、神さまにお供えするお米も、ここからさしあげた時代があります。穴太にある郷神社はその″豊受の神業″の一つの記念として残されており、昭和八年頃に聖師さまは″朝陽(あさひ)″という米を選ばれ、これを日本中に播けとおっしゃって各地に領布されたことがあります。つまり、ここから新しい豊受の神業″をはじめていくのである。穴太はそういう使命がある″とおっしゃったのですが、大本のこれからの使命、謎がふくまれているように思います。”

 

(「おほもと」昭和51年7月号 山藤暁『教御祖のご事績と神話』より)

 

 

*大本においても、神道系教団であれば当然ですが、信徒は朝晩祝詞を奏上しております。ただ、出口聖師の、

 「これからは『物語』六〇巻にのせた神言でないとみろくの世はこぬ」

との指示により、戦後は「天津祝詞」「神言(大祓)」は「霊界物語」第60巻に載せられているものが使用されています。別にこれまでの祝詞、神社本庁制定のものが間違っているというわけではありませんが、できましたら、特に「みろくの世」の到来を待ち望んでおられる方々には、どうかこの「霊界物語 第60巻」の祝詞を唱えて戴きたいと思います。

*出口王仁三郎聖師は、

 「世界中で天津祝詞を唱えるようになったらミロクの世」

とも言っておられます。スピリチュアルがブームになり、神社めぐりを趣味とされる方も多いようですが、本来は神社に参拝された時は、祝詞を奏上するのが作法です(特に龍神は祝詞を聞きたいと願っており、「霊界物語」には龍神族が言霊の力で人体化する話があります)。ただ、聖師は

 「身欲の心で祝詞をとなえると、かえって天地を汚すことになる」

とも言われましたし、下手に自分勝手な願いをすると却って神罰を受けることにもなりかねません。特に幽冥界は規則が厳しいので祝詞の奏上には注意すべきですし、万一龍神や天狗を怒らせるととんでもないことになります。

 

 “このあいだ聴いた話ですが、石川県の浜中家のお祖母さんが年老いて眼が見えなくなった。その時、眼が見えなくなって神様のご用ができなくなったと言われたので、四六時中天津祝詞をあげておりなさいと言ったそうなのですが、それで四六時中祝詞をあげておられたら、聖師様が「浜中のおばあさんは天国に行っておるわい」と語られたそうです。”

 

       (「いづとみづ」№51 『霊界物語第九巻に学ぶ』より)

 

 

*「霊界物語」第48巻には、『祝詞くずしの宣伝歌』というのがあります。「天津祝詞」や「神言」を歌としてうたうことができます。

 

*尚、仙童寅吉は、晩年千葉の銚子に移り、そこで生涯を終えました。特に浅間神社にはよく詣っていたらしく、彼は「一族に何か起こったとき、ここに来て訴えれば救われる」と言い残しております(不二龍彦著「日本神人伝」学研)。この神社には、幽冥界への入り口があるのかもしれません。

 

 

・「人間の祈りは〈神〉を完成させる」 〔カバラー(ユダヤ神秘主義)〕

 

 “ハシディズムが重視するのは、ただ一つの行法……祈りだけである。広義の「祈り」には、準備、献身、「トーラー」に対する愛と知識、観照、イクド(注:精神的紐帯の行)、ツェルフ(注:心の中でヘブライ文字を置換する行)、その他すべてが含まれる。ハシディズムの師家は、祈りの方法として、ただ瞑想せよと説いた……それは無論、アブラフィアやアリと比べれば伝統から外れた瞑想法であったが。ハシド(注:神秘家)にとっては、神秘的な意識状態などは日常経験の一部にすぎなかった……それゆえに、行法のほとんどは、ただ如何なる状況においても祈りの態度を崩さないことを説いていた。”

 

 “それぞれの者が、自分なりのやり方でバアル・シェム・トヴの観念……人間の祈りは〈神〉を完成させるものである。なぜなら人間こそ〈神〉の生ける火花なのだから……を実践していたのである。

 

 「汝の唇を出るすべての言葉、すべての表現をもって、イクド(紐帯)を生じせしめることに専心せよ。あらゆる文字は宇宙、魂、善を包含する。上昇するにつれて、それは互いに結び付いてゆき、最後には統一されるのである。すると文字は統合され、結びついて単語を形成する。そうなればそれは実際に〈神の真の存在〉と結合する。そして以上のあらゆる局面において、汝が魂は文字の中に含まれる。」

 

 バアル・シェム・トヴは、祈りと一体化することは〈神〉と一体化することである、と説いた。このような意識の高められた状態に至ると、ハシドはあらゆる肉体感覚を失ってしまう……外来の思考に妨げられることがなく、恐怖や緊張が喜びを妨害することもない。バアル・シェム・トヴは言う、その状態に至った者は「知性が発達しはじめたばかりの小さな子供の如くである」。祈りの言葉を通じて到達するハシドのデヴェクト(注:神への帰依)は愛によって強くなる。彼はそれを恋人のように堅く抱きしめ、手放したくないと願うからである。「それぞれの単語に執心するがゆえに」とバアル・シェム・トヴは義弟への手紙に書いている、「それを引き延ばして発音するのである」。このようにして自分自身と〈神〉のあいだの障壁を取り除いてしまえば、実は原初の状態においてはそこには障壁も悪もなく、ただ自分自身の思考が悪の幻影を構築しただけだったのだ、ということが判る。ハシディズムの解釈では、エゼキエルの見た「出たり戻ったりしていた」人のようなものの幻像は、源に向かって走りたいとは欲しながら、にもかかわらず肉体の中に住んで音を聞き、飲み、食いぶちを稼ぎ、そのためにその地上の領域に戻らなくてはならない人間の魂の寓意である。だが自我を滅却して感覚を消滅させてしまうと、魂は天使のように自由に高く飛翔する。とは言え、バアル・シェム・トヴによれば、高次世界の観念すら〈神〉を人間の世界から覆うもう一つの衝立に他ならない。ハシドは祈りに集中することで天使の群れすら消し去り、再び〈無〉の状態に戻る。アブラフィアのツェルフの師家たちと同様に、彼もまたヘブライ文字の生きた本質を前提とし、その真の実在を吸収すべく努めるのである。自らを〈神〉の道具として捧げるハシドは、〈神〉に即興的に語りかけるか、あるいは既定の祈祷書の語句をのみ用いて語る……いずれの場合においても、彼は意識的に〈言葉〉を操作しているのだ。その〈言葉〉こそ、彼を〈玉座〉の正しい位置に復活させる神聖なエネルギーを完璧な形で凝縮したものである。祈りにおいては、自我を滅却する方法は問わない。重要なのは、より高い位置に進むということなのである。”

 

(パール・エプスタイン「カバラーの世界」青土社より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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