消費社会と悪魔 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “悪の勢力の増加に作用している第一の要因は西欧諸国の消費主義です。大半の人たちが唯物論主義と快楽主義の生活様式のために信仰を失っています。そのことに対する非難の大部分は、とりわけイタリアでは過去数年間というもの、マルクスの説がマスメディアと文化を支配している社会主義や共産主義に帰せられると思います。主日のミサに出席するのはローマの人口のかろうじて十二パーセントだと見積もられています。宗教が衰微するところでは迷信が発展するというのは周知の事実です。”(P75)

 

“……悪魔憑きというものへの関心が再び取り戻されたのは、映画『エクソシスト』のおかげです。一九七五年二月二日、バチカン放送局は映画『エクソシスト』の監督、ウィリアム・フリードキンと彼の「専属アドバイザー」である神学者、イエズス会のトマス・バーミンガム神父にインタビューを行ないました。監督は一九四九年に実際に起きたと本に記されている事件を映画にしたいと申し出ました。映画は悪魔憑きに関して、なんの結論も引き出してはいません。監督によると、これは神学者たちの問題だったのです。イエズス会の司祭は『エクソシスト』はたくさんのホラー映画の一つなのかもしくは、まったく異なった類のものなのかと訊かれたとき、断固として後者であることを主張しました。彼はその映画が世界中の観客に、悪魔の問題を非常にありのままに扱っていた実証として――いくつかの特殊効果は別として――すっかり忘れ去られていた悪魔祓いへの関心を再び目覚めさせたすばらしい反響について言及しました。

 わたしたちはどういうわけで途方もないサタンの活動の餌食となるのでしょうか?わたしがいおうとしているのは、誘惑のような通常の活動、だれにでも当てはまる活動以外のもののことです。わたしたちは自らの罪によってか、それとも気づかずに悪魔の餌食となります。

 その理由を四つに分類することができます。(1)神の許可で (2)悪魔の魔力の支配下にあるとき (3)頑なな罪のため (4)悪い仲間との交流や、悪い場所への出入りを通じて。”(P78~P80)

 

(ガブリエル・アモース「エクソシストは語る」(エンデルレ書店)より)

 

*この本の冒頭には、ローマ法王庁大使館大使アルベルト・ボッターリ・カステッロ大司教の推薦文と共に、二十世紀最大のエクソシストと呼ばれた、スカラ・サンタ教会のカンディード・アマンティーニ神父(御受難修道会)の推薦文が載せられています。これだけでも、いかに価値ある本であるかがわかります。

 

*悪魔は非常に積極的に活動しており、連中と一切接触することなく生活していくことは不可能ですし、そもそもほとんどの人は悪魔の存在に気づきません。また、人間の力では絶対に彼らには敵いません。聖なる存在と結びついて、守護していただく以外にありません。

 

*この「エクソシストは語る」の本を翻訳・出版された四谷のエンデルレ書店は、2013年に閉店となっています。「無名の順礼者」や「修徳の実践」、「不可知の雲」など、数々の素晴らしい本が今や入手困難となってしまい、ぜひサンパウロかドンボスコで再刊していただきたいものです。

 

・悪魔とのインタビュー

 

 “悪魔 「憎しみこそ、わたしたちの存在理由だ。わたしたちの力だ。わたしたちは、この憎しみをどこまでも広めようと、そればかり考えている。ふん、ばかなあなたたち人間をみんなこの中におぼれさせることこそ、わたしたちの唯一のねらいだぞ……

 現代では、人種差別という憎しみ、階級闘争の憎しみ、イデオロギーの紛争という憎しみを利用するんだ。そのあげくのはては、大暴風のような戦争や災難が起きて、血が川のように流れるってわけさ。それにマスコミは全部、わたしの手にある。あなたたちを亡ぼすためにね。」

 

神父 「おやまあ、あなたたち悪霊にはそんな存在理由しかないとは、おそれいったものだな。……だが、それも一時的なものにすぎないぞ。神が歴史に終止点をうったら、どうする?キリストさまが、こんど裁き手として帰ってきて、最後の勝利を、永遠に続く凱旋を勝ちとったそのとき、あなたたちはどうなるのか?」

 こんどは返事がかえってこなかった。”

 

 (ドミニコ・モンドローネ神父「あくまとのインタビュー」(世のひかり社)より)

 

*1949年に実際に起きた、映画「エクソシスト」のもとになった事件

 

*明日はハロウィンですが、本来のケルトの「死者のためのお祭り」、怖くもあるが子供達にとっては「お菓子をもらえる楽しい日」が、マスコミによってあまりにも歪められ、著しく低俗化した形態で日本に紹介されたために、今や単なる若者たちの馬鹿騒ぎになってしまいました。多くのストレスに晒されている現代人にとっては気晴らしも必要ですし、ハロウィン自体にもともとイベントの要素もあるのですが、既にこの国は様々な娯楽で溢れており、こんなものは日本人をより劣化させるだけのものとしか私には思えません。古代ケルトの人々も魔物に仮装していたようですが、これは魔物の目を欺いて避けようとしたのであって、決して魔物になろうとしていたわけではありませんし、必ず「魔除けの火」が焚かれることにもなっていました。ケルトなりカトリックなり、ちゃんと聖なる存在への信仰を持ち、ほぼすべての村や町に聖職者が居て、日々導かれている人々が行なうのであれば問題は無いと思いますし(但し、古代ケルトでは人間の生け贄が行なわれていたことが気になります)、こういった古代からの祭りには、心理学的な意味、たとえば抑圧された民衆の精神のバランスを保つためといった精神衛生的な意味もあったようです。しかし、無信仰で、霊的に無防備な日本人が安易に闇の存在に関わるべきとは思いませんし、いずれ遊びではすまなくなる事態が発生することになるかも知れません。日本人は悪魔と、比較的害が少なく霊的にも弱い妖怪やお化けとを混同しており、悪魔は人間に対する凄まじい敵意に満ちていることを理解していません。私は報道されるハロウィンパーティー(去年はコロナで自粛されていたようですが)の映像を見る度に、子供の頃に読んだマンガ「デビルマン」の第一巻を思い出します。地下に作られたディスコで繰り広げられる酒池肉林のパーティーで、奇抜な衣装の若者たちが踊り狂い、楽しんでいる最中に、突然デーモンたちが次々と憑依して全員が化け物の姿に変えられて、互いに殺し合うシーンです。若者とは必ず暴走するものですし、もしハロウィンを祝うなら、せめてかつてのアメリカのような、無邪気な子供たちのためのお祭りのままであるべきです。

 

*有名な京都の祇園祭の「お稚児さん」が、「神の依り代」と見なされていることはよく知られていますが、同じように無垢な子供を「神様」や「神の使い」として崇めるお祭りは全国各地にあります。ハロウィンよりも、むしろこのような日本の古き良き伝統こそ、もっとポピュラーになってほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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