ピオ神父の奇蹟 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “104 同時に二つの場所に
 ―バイロケーションについての、アルベルト神父の証言
 1928年5月のある日、私は、ピオ神父が窓の外をじっと眺めているのに気づきました。彼は何かに没頭しているようでした。私は彼に近づいて、彼の手に接吻しましたが、手は硬直している感じがしました。そのとき、彼はたいへんはっきりとした口調で、罪のゆるしの祈りを唱えていました。
 私は急いで長上のトマソ神父を呼びに行きました。そして二人でピオ神父に近づくと、彼は唱え終わるところでした。唱え終えたとたん、ピオ神父は居眠りから覚めたようにびくっと体をふるわせ、私たちのほうを向いて言いました。「ああ。ここにいらしたのですか。気づきませんでした。」
 数日後、北イタリアの街から電報がとどきました。電報には修道院長あてに、臨終を迎えようとしている男のために、ピオ神父を遣わしていただき感謝しますとありました。その電報から、ピオ神父がゆるしの言葉を唱えているまさにその時に、その男が臨終を迎えたのだとわかりました。”

 

 “115 癒しの手
 ―アメリカ・ルイジアナ州のパトリシア・ガリアーノの証言
 1977年12月8日のことです。イタリアのアレッシオ神父様が、ニュー・オリンズ市でピオ神父について講演されました。私は10カ月ほど前から、リューマチ性関節炎でひどく苦しんでいました。両手が腫れあがってスプーンを持つことさえできず、ひざと足全体におそろしいほどの痛みがありました。私の苦しみのためにとりなし、十字架を背負うのを手伝ってくださると信じて、私はピオ神父に祈っていました。
 私はピオ神父の聖遺物が展示している台に近づき、長い間自分がピオ神父の助けを求めて祈ってきたことを、アレッシオ神父様に伝えました。神父様が「子よ、何を苦しんでいるのですか?」と私にたずねたので、「私は両手、両足、両ひざにリューマチ性関節炎をわずらっているのです」と答えました。すると神父様は、ピオ神父の聖遺物を私に手渡してくださったのです。どのくらいの間、その聖遺物にふれることができたかは覚えていませんが、とにかく幸せな気持ちで帰宅したのは確かです。翌朝目覚めると、両手の腫れがひいて、ひざと足の痛みもなくなっていました。私は奇跡的に完治したのです。その1977年12月9日の朝以来、私の体にはいっさいの腫れも痛みも起きていません。神と、ピオ神父のとりなしに感謝でいっぱいです。”

 

 “120 甘美な遺産
 ピオ神父は言いました。「私はもっぱら、すべての人のものです。だれもが《ピオ神父はわたしのもの》ということができます。私はすべての人類を深く愛しています。私は自分の魂、いやそれ以上に、霊的子どもたちのことは忘れることはできないでしょう。もし主が私を呼ばれたら、私はこう答えることを約束します。《主よ、私の霊的子どもたちが全員天国に入るまで、私は天の門のところで待ちます》。」

 ピオ神父は1968年に亡くなった時、「苦しみを癒す家」と呼ばれる大病院のほかに、68,000人もの会員を抱える726の祈りの会を遺しました。今日、この大病院は満室で、障害を持つ子供たちのために22の福者ピオ・センターができ、盲人のためのセンターも一つできました。ピオ神父の祈りの会も、数が2、3倍に増えました。1997年までに、650万人もの人々がピオ神父の墓参りに来ています。そして2002年6月16日には列聖。サン・ジョバンニ・ロトンドのカプチン会士たちは現在でも、新しい祈りの会や霊的子どもたちを、ピオ神父の名において受け入れています。”

 

 (パトリシア・トリース編「魂の酸素 ピオ神父のことば」(ドン・ボスコ社)より)

 

 

 “ボローニャ出身の母親と五人の子供が訪問し、ピオ神父に子供たちを神父の霊的子供として受け入れるように頼んだ。その時以来、五年間毎日、彼女は祈った、「ピオ神父様、私の子供達の事をよく見守って下さい。子供達を保護し、祝福して下さい。」

 ついにこの人達はサン・ジョバンニ・ロトンドを再訪する機会に恵まれた。母親はピオ神父に嘆願した、「ピオ神父様、私の子供達を見守って下さい。子供達を保護し、祝福して下さい。」

 ピオ神父は答えた、「同じことを何回私に頼むのですか?」

 「今が、お願いした最初です」と彼女は言った。

 ピオ神父は答えた、「あなたは五年間以上も毎日同じ事を私に頼んできました。」”

 

 “アレッシオ神父の話。

 「私はピオ神父の部屋で肘掛椅子に腰かけていました。ピオ神父はベッドにいました。我々二人とも目を覚ましていました。神父がロザリオを唱えるのが聞こえた。私もまたロザリオを唱えていた。そして突然神父は祈りを止め、言った。『ここへ来なさい。何の用ですか?』」

 「二、三秒後、再び神父は言った。『ここへ来なさい。何の用ですか?』」

 「もっと主張するような声の調子で神父は言った。『ここへ来なさい!何の用ですか?』」

 「それから神父が赦しの言葉を与えるのが聞こえた。『あなたの罪を赦します……罪の償いとして、主祷文五回、天使祝詞五回と栄唱を五回唱えなさい』それから神父は黙った」

 他の時、アレッシオ神父はピオ神父に、冗談めかして、いつ自分たちはルルドに行けるようになるかと質問した。ピオ神父は答えた「自分はルルドに行かなくてもよい。毎晩自分はルルドにいる。毎晩ルルドの聖母に会っている」。

 ピオ神父と起居を共にした修道士たちは騙されやすくはなかった。その一人は、ピオ神父のそばにいた時のことを私に話した。突然、ピオ神父は誰かの告白を聞き始めた。「私には誰も見えなかった」とその修道士は私に言った。「しかし、神父は赦しを与えた。神父は気が狂ったのかと思った」

 「私は全然分からなかった」とその修道士は続けた。「神父がバイロケーションで出かけ、誰かの告白を聞くという説明をその場で聞いた。同時に、神父は誰かと格闘をしているようでした。神父は跳ね返り、回転し、同時に対話を続けた。「どんなに長いこと……そして他に何か……そして他に何か……」

 ピオ神父の逝去後、ある日、フォルトゥナート神父がサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院の廊下を歩いていると、目の前をピオ神父が歩いていた。「ピオ神父、待ってください」と彼は叫んだ。しかし、ピオ神父は消えた。これは人物誤認のケースではない。彼らは同じ屋根の下に長年起居を共にした。フォルトゥナート神父が実際誰か他の人を見たとしたら、その人はどこへ消えて行ったのか?

 修道会士たちにとても尊敬されていたローマの人は、非常な悲しみに打ちひしがれていた時、一度ピオ神父がローマのその人のところに来たと、修道会士たちに話した。しかし一九一八年から神父の死の一九六八年まで、ピオ神父は決してサン・ジョバンニ・ロトンドから出なかったことを我々は繰り返し強調する。

 エウゼビオ神父がサン・ジョバンニ・ロトンドに最初任命された時、彼はピオ神父の聖痕、バイロケーションや奇蹟についての主張に全然感銘を受けなかった。しかし、彼はこれらの主張を調査する決心をした。ピオ神父がローマにいたその人の所を訪れたのが真実かどうか本人に質問した。ピオ神父は答えた。「どのようにそれが可能ですか?長年この修道院から出たことはない。妹が修道誓願をするため、同伴して以来、ローマには行ったことがない」

 「しかし、神父様」と、エウゼビオ神父は食い下がった。

 「その人はあなたが自分の家にいたと主張する。あなたに会ったと言っています」

 ピオ神父はこの質問から逃げられないと実感した。

 「ああ、それは他のことだ」と、ピオ神父は言った。

 「これらの事柄が起こる時、主はその人だけが見ること、とその瞬間だけ見ることを許す。他の誰にも見えない。そうでなければ、どれほど多くの奇蹟を主は行わなければならないだろうか?」

 ピオ神父が就寝するのを手助けしていたある晩、エウゼビオ神父は言った。「良い旅行を、神父様」

 ピオ神父は答えた。「ありがとう」

 エウゼビオ神父は付け加えた。「あなたが夜中飛び回る時に、私の許可をもらうべきです」

 ピオ神父は答えた。「私が許可を願うべき人に一回願った。それで充分です」。

 「しかし神父様」と、エウゼビオ神父は質問した。

 「私を一緒に連れて行って下さい。紐でつないで、二人で一緒に跳びましょう」

 ピオ神父は答えた。「上空であなたの紐が解けたらどうしますか?」

 エウゼビオ神父は追及しなかった。

 サングネッチ先生が質問したことから、ピオ神父のバイロケーションの賜物について有意義な洞察を得られる。

 「神が聖人を、例えば聖アントニオをバイロケーションにより他の土地へ派遣する時、聖人に何が起きているか分かりませんか?」とこの医師は質問した。

 ピオ神父は答えた。「この一瞬彼はここにいる。他の瞬間、彼は神の望む場所にいる」

 「しかし、彼は二カ所同時に実際にいますか?」

 「はい」

 「どのようにして可能ですか?」

 「その人の存在の場を広げることによって可能なのです」。”

 

(ジョン・A・シュグ「ピオ神父の生涯」聖母の騎士社より)

 

*明日9月23日の秋分の日は、「聖痕を受けた司祭」ピオ神父が帰天された日でもあり(1968年)、カトリックの典礼暦では「聖パードレ・ピオの日」となっています。ピオ神父が属していたカプチン・フランシスコ会のペトロ神父が主宰される「祈りの園」では、毎年9月23日はもちろん、年に数回日本の各地で「パドレ・ピオの祈りの集い」が開催され、ピオ神父の聖遺物を前にミサが立てられ、ロザリオの祈りも行われていたのですが、最近はコロナの影響で休止されたままになっています。今は「祈りの園」のHPも閉鎖されていますが、Facebookでの活動は続いています。ペトロ神父にピオ神父のお取次ぎを求めるミサを依頼することも可能です。

*相変わらず「ピオ神父が予言された『暗闇の三日間』」などという話がネット上で拡散されていますが、この予言は捏造されたもので、カプチン・フランシスコ会がはっきりと否定する声明を出しています。この「暗黒の三日間」の予言は、もともとは福者アンナ・マリア・タイージ(1769~1837)の手記の中にあったものですが、アロイジオ・デルコル神父(サレジオ会)によると、それが起こる日時具体的な内容については明らかにされていないということですし、そもそも彼女は、『天的なこの災難が何であるかは、神は、誰にも、親友にさえも、お示しになりませんでした』と書いています。ただ、ピオ神父はガラバンダルに行くことを信徒に勧められたりしておられますので、世の終わりに関する予言と関係がないというわけではないようです。しかし、何が起こるにせよ、まず第一に求められているのは人々が神に立ち返ることです。

 

(デルコル神父著「天の母の警告」(聖ヨゼフ修道院)より)

 

*ピオ神父のバイロケーション(同時に複数の場所に存在できる能力)の話は有名ですが、出口王仁三郎聖師にも同じような話があります。また、もとスペインのモンセラート修道院の院長で、長年にわたり山中で隠遁生活を送られ、その後イスラエルとインドにしばらく滞在された後に来日され、長崎県の五島、そして広島県の三原で隠遁生活を送られた故エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父も、このバイロケーションの能力を持っておられました。ただ、近年エスタニスラウ神父について本を書かれた方がいらっしゃるのですが、内容のほとんどが事実とは異なっており、単なる著者の妄想を述べたものでしかなかったのは残念です。この著者はエスタニスラウ神父から、カトリックの修道士に伝わる秘伝の武術を継承したとも言っておられますが、神父は先天的に脚に障害があり、格闘技をされることなど不可能でした。

 

*YouTubeで、ピオ神父の伝記映画「ピオ司祭」を視聴できます(日本語字幕付)。訳に少々問題がありますが素晴らしい映画ですし、必ず『霊魂の糧」となるはずですので、ぜひ多くの方に見ていただきたいと思います。終わり近くにエクソシズム(悪魔払い)のシーンがあり、悪の存在理由について興味深いことが語られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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