悪魔の実在・悪魔祓い(エクソシズム) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ローマ・カトリック教会の悪魔祓い(エクソシズム)

 

 “「『薔薇の名前』のドメニコ僧のように異端審問官の誰もが狂信的だったと考えるのはまちがいです。あのスペインのイサベラ女王の告解師、トマス・デ・トルケマーダは、一万人もの人間を火炙りにした悪名高い審問官にされていますが、彼が悪魔祓いを行い、解放された人々をその後、自由の身にしていたことはほとんど知られていないのです」

 神父の話を聞きながら面白い事に気づいた。魔女狩りで大勢の犠牲者を出したドイツやフランス、オランダのような国ほど、その後の懐疑主義は徹底している。逆に言えば、悪魔祓いの伝統を否定し、懐疑主義と合理主義を誇る進歩的な国ほど逆に、過去にはバランスを欠いた狂信者を多く輩出したというわけだ。

 ならば悪魔祓い、エクソシズムの儀式は、よく中世の遺物などといわれるが、実際にはどのくらい遡るのだろう。

「聖書には、悪魔祓いの記述が無数にあります。ですから、初期キリスト教時代には、当時の聖人たちの記述からも、頻繁に行われていたことがわかっています。当初は、旧約時代の記述などから魔除けの効力があるとされた灰、腐敗から万物を守る塩、マクダラのマリアがキリストの足を洗った香油、聖人の遺物などが使われた。四世紀のエルサレムで活躍した聖チリッロは、全身に注いだ香油が、体と魂を清め、目に見えない悪の力と戦ってくれると言っていますし、六世紀のジョバンニ・ディアーノは、聖なる塩が、サタンを追い出し、肉を保存するように魂を健全に保つと書いています。形式もまちまちだったのです。聖水を使い、額に十字を切るしぐさが組み込まれたのも六世紀頃のようです」

「水はなぜ悪魔祓いに有効なのですか?」

「ヨハネの福音書には、〈永遠の生命へ湧き出る水の泉〉にキリストを喩えた表現があります。水は、生命や再生と深く結びついた物質です。ただし、司祭が神に祈りを捧げることによって聖霊の宿った水、すなわち聖水でなければ効力はないのですよ」

 アモルス神父は、淡々と続けた。

「エクソシストが、ローマの信者の間で特権的な存在になったのは、三世紀半ばです。イタリア北部の町ブレッシャの司教は、その頃、十二年間エクソシストだったという記録が残っています。そして四一六年には、すでに教皇インノケンティウス一世が、エクソシズムを行えるのは単なる司祭でなく、司教によって委任されたものに限ると宣言しています。現在、我々の手にしている『ローマ典礼儀式書』は一六一四年に作られたものですが、その祈祷文は、八〇四年に没したイギリスの神学者アルクイヌスが、『グレゴリオ典礼』に書き加えたエクソシズムの形式と祈りを、大幅に採用しています。ですから実に、千二百年の伝統を持つわけです。その後の変化といえば十八世紀末、法王レオ十三世は、大天使ミカエルのお取次による悪魔祓いの祈りを自ら創作し、それを司教たちに送りつけています。カンディド神父は、聖母マリアのお取次の重要性を説き、これを祈りに復活させました。これらも、公式エクソシストたちの間では、すでに普及しているようです」”(P55~P57)

 

“ある日、カンディド神父のもとに、ナポリから母親につき添われて九歳の少年がやって来た。同級生に突然ひどい暴力を奮い、授業中におかしなことを口走る。神経科を訪れても埒があかず、ついに公式エクソシストに相談してはどうかと言い出したのは担任の教師だった。エクソシズムとともに、少年は別人のような声で対応し始めたが、その会話の内容は、カンディド神父にとって、一生忘れられないものとなった。

「さっき、もっと強い者がここに来ると云ったが、お前は、どの目で見ているのかね。その子供の目か、それともお前の目なのかね」

 カンディド神父がそう訊ねると、少年はこれをあざ笑った。

「俺は、このガキの目と俺の目で見ているんだ。覚えておくんだな。お前にできることは現象(フェノメノ)を見ることだけだ。お前らが本体(ノウメノ)と呼ぶもの、隠されているものをお前は決して知り得ない。俺は感性と知識とですべてを把握している。俺は、お前も認識しているぞ。お前の中にあるものをな」

 ノウメノというギリシャ語源のその言葉は、新プラトン主義からカントの認識論に転用された用語で、知性だけでは認識できない、感性を通してこそ認識に至れる事がらを意味していた。神父が、このとき、言葉を失うほど驚いたのは、それを口にしたのが、授業についてゆけず、読み書きすらろくにできない九歳の少年だったからではない。そのノウメノという言葉がまさにその瞬間、神父の脳裏に閃いた言葉だったからだった。カンディド神父には、いつまでも、その時の戦慄が忘れられなかった。そして、この少年のことは、グレゴリアン大学の教授たちにも、その後、何度か話している。

 

「数年前、各国からやって来た司祭たちが、彼らの希望でエクソシズムに立ち会っていた時、ある無学な女性が私のラテン語に答え、その後、フランス語、ヘブライ語、さらにアラビア語まで解して、これにイタリア語で答えたことがあります。みんな信じられないといった様子でしたが、私も驚きました」

"悪魔憑き"が、未知の言語を理解する、高次元の哲学論争を始めるといった現象は、十年も経験を積めば一度くらいは体験するものだ、とアモルス神父は加えた。

 すでに十年以上、師と同じようにフルタイムで取り組んできた神父は、これまでにざっと四千人の相談を受けている。中には何年も通う人もいるわけで、実際には三万回以上の儀式を行ったことになるという。神父の場合、そのうちどのくらいの人を、いわゆる本物の悪魔憑きだと見ているのだろう。

「八十四人です」

 神父はそう言いきった。

 確率にして2.1パーセント。97パーセントは精神の病と指摘していたカンディド神父よりさらに低い割合だ。そして、悪魔の実在に対するアモルス神父の確信には、揺るぎないものがあった。神父は、疑い深いインタヴュアーの心理に寄り添い、信憑性を感じるような控え目なエピソードばかりを選びとっているのでは決してなかった。”(P49~P51)

 

(島村菜津「エクソシストとの対話(小学館)より」

 

〔エクソシスト、カンディド・アマンティーニ神父(1914~1992)〕

 

*昔、カンディド神父がおられたローマのスカラ・サンタ教会を訪れたことがあります。既に神父はお亡くなりになっておられましたが、市街地の中心部にある教会で、早朝のミサには20人位の方が参列しておられました。御受難会の司祭であり高名なエクソシストであったカンディド神父のことは、日本ではカトリック信徒にすら、ほとんど知られていませんが、聖パードレ・ピオ(ピオ神父)は彼のことを非常に高く評価しておられたそうです。

 ”「カンディド神父は、ピオ神父の生前、ほぼ毎年のように告解を受けに通っていらっしゃたし、ピオ神父も、神父のことをいたく気に入っておられました。カンディド神父がいらっしゃると、特別に喜ばれて、手をとってご自分の僧坊まで誘われては、静かに語り合っていたそうです。ローマから癒しを求めてやって来る人々に、ピオ神父は、よく、こうも口にしていたそうです。どうして、こんなところまでわざわざ来るんだね。ローマには、カンディド神父がいるじゃないかと。お葬式の写真の裏に書かれた『神の心をもつ司祭』という言葉は、ピオ神父が、カンディド神父を評したものなのです」” (島村菜津「エクソシストとの対話」(小学館))

 

*なお、カトリック教会の修道会の一つである御受難会(パッショニスト)は、日本では兵庫県宝塚市と福岡県宗像市に拠点があり、そこの「黙想の家」では定期的に黙想会が開かれていて、一般の方も参加できます。

 

・エドガー・ケイシー 「人格を備えた悪魔は存在する」

 

 “……この命と真理の御子は、人間がこの物質界において悪に優る善の力へと上昇するために道を説き示し、先導し給わんとして、物質的・肉体的存在となり給うたのだ。それ故に、人格を備えた救い主が存在するように、人格を備えた悪魔も存在するのである。(262-25)”

 

     (ヒュー・リン・ケイシー編「精神革命ガイド・ブック」たま出版より)

 

*私は見ていないのですが、ハリーポッターの映画で、その中で使われていた魔法の呪文は、実際に中世の魔術儀式で使われていた本物の呪文だった、と聞いたことがあります(確認したわけではありません)。二十数年前にテレビで放映されたドラマ「エコエコアザラク」でも、本物の呪文が称えられていたということでした。娯楽作品なのにあまり気にしすぎるのもどうかという気もしますが、やはり霊的な事に関しては、その危険性についても知っておくべきだと思います。

 

*この動画は、20数年前に「世界まる見えテレビ特捜部」の中で放映されたもので、70年代に、世界的に大ヒットした映画「エクソシスト」のもとになった実話を紹介したものです。大天使ミカエルを「神」と呼んだり、翻訳にいくらか問題はありますが、当時実際にエクソシズムを担当したウィリアム・ボーデン神父の助手であったウォルター・ハロラン神父の証言などがあり、貴重な映像だと思います。実際の話を御存じない方にはわかりにくいと思いますが、この少年、家族はもともとイギリス聖公会の信徒でしたが、聖公会の教会では対応できなかったため、祓魔式(エクソシズム)の伝統のあるローマ・カトリック教会へ連れて行かれ、それで洗礼も新たに受けることになったようです。このときのエクソシズムでは、大天使ミカエルが決定的な役割を果たしますが、確かに大天使ミカエルへの祈り、さらに聖母マリアへの祈りには、特別な力があるように思います。