絶望の先にあるもの (シュタイナー人智学) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “人生ではもう一つきわめて重要な赦しの形態があります。それはほかの人物やグループに対する赦しではなく、自分自身に降りかかった過酷な運命に向けられるものです。例えば、不治の病にかかったり、不運な出来事に遭遇し、一生涯その結果を背負っていかなければならない場合などです。無実の罪で何年にもわたって刑務所や収容所で過ごす不運なども含まれます。

 このような体験に遭うと、当然魂の中で、内的な葛藤、絶望、さらには諦めなどが生じます。一方で、このような体験を天から与えられた試練とみなして、自分の運命との完全な和解へと導かれることもあります。このような自分の運命の留保のない受け入れは、魂の中で高次の存在に対する感謝の気持ちに変容することさえあります。

 私たちの地上の言語は、この特別な赦しの形態を表現するのに不適格な面もありますが、とりあえずそれを「自身の運命を赦すこと」と呼ぶことにします。真に赦した場合のように、自分の運命を完全に受容するとき、低次の自我の中に高次の自我が力強く浸透していきます。自らのカルマの働きにより不治の病にかかること、突然の不幸によりそれまでの人生がまったく様相を変えてしまうこと、こういったことは生まれる以前の霊界で高次の自我(霊我)に留まっていた自分自身がなした、高度な決断の直接的結果なのです。どのような状況でこのように決断したのでしょうか。ひとつには、自分をとりかこむ神的、霊的宇宙の美しさ、崇高さがあります。もう一つは、自分の幾多の過去世から浮かび上がってくる不適切で、不完全な自分の有様があります。これらの欠陥を修正するために、自発的に(高次の自我の立場からですが)将来の地上の生活で霊を浄化し、気高くするような試練を受けようと決断します。ですから地上の人生で運命の試練を自発的に受け入れ、折り合いをつけ、日常の自我が持つ恐怖、絶望、抗議心などを克服するとき、人間はこれらの試練をもたらした高次の自我と同じ地平に立つことになります。そのとき、その人に働いているのは高次の自我の衝動のみになります。それは守護天使の衝動でもあるので、自分自身を克服し、自分の運命を受容した人間は死後、先に説明したロシア人の死後体験と同じように、守護天使との一体感を築くことができます。

 東欧スラブ民族が彼らの歴史、とりわけ二十世紀に被った桁外れなほどの苦難、悲劇的な試練を考えると、今述べたような歴史の背後にある理由が浮かんできます。東欧で七十二年間続いたボルシェビキ体制がたった一国内で六千万人の犠牲者、死者をもたらしたことは、人類史上でも類を見ない悲劇といえます。

 このようなことから、真の赦しや自分の運命を受け入れるのがいかに困難かが理解できます。真の赦しにおいては、必ずある特別な種類の苦悩を体験することになります。短くて終わることも、長く続くこともある、しかし誰も避けて通ることができないその体験は、内的な無力感です。なぜこのような感情が出てくるのかというと、真に赦すとき相手に対する復讐心を完全に放棄しますが、これは宇宙的なカルマの働きに「助け」を求めるのを放棄する事でもあります。赦すとは、運命(カルマ)の領域でいかなる形であっても、自分の権限を主張するのを完全に断念することだともいえます。それゆえしばらくのあいだ、運命の打撃に対して、また自分をとりまく世界全体に対して無防備になります。

 このような状況が生じる霊学的理由を考えると、赦しの過程で通常起こるある場面に行きあたります。低次の自我を動かす力が退く一方で、まだ高次の自我が感じられない瞬間、それが十分に顕現しない瞬間です。赦しの過程で人は地上的世界から神的世界へと、低次から高次の自我へと意識を高めようとしますが、まだそこまで至らないのです。このような状況は究極の苦痛をもたらします。それでも後退することなく道徳的意志を行使し続けられれば、魂の無力感は内的に克服され、暗雲が突然開かれ太陽の光が射しこむように、高次の自我の働きが勝利をおさめる瞬間がやってきます。

 このとき起こることは、ある意味でゴルゴタの秘儀の小宇宙(ミクロコスモス)レベルでの心的・霊的な体験であるといえます。その結果、自分の魂の中で生けるキリストの存在を直接感じることができるようになります。シュタイナーは、この内的な無力感を通過して復活へ至る過程を次のような言葉にしています。「もし私たちがこのような無力感を体験し、そこから回復することができれば、キリスト・イエスと真実の関係を築くという幸運が待っています。この二つの出来事、無力感とそこからの復活について語るとき、真のキリスト体験がそこにはあるといえます。」結局、真の赦しの体験によって人は自分の魂の中で真のキリスト体験へ至ることができるのです。

 

 自分の運命を完全に受容することが、赦すという行為の一つの側面であるのを考察してきましたが、これは必ずしも個人に限ったことではなく、一民族全体についても同様です。個人に限らず、一つの民族、時には民族集団でも高次の世界から与えられた試練を受け入れることができます。このような試練はいきつくところ人類全体のカルマに起因するとはいえ、その民族が自らの悲劇的運命を受容することは、地球人類全体の高次の自我、すなわちキリスト存在に仕える道を歩むことでもあります。民族が歴史的運命を受け入れるとき、それがいかに過酷なものであろうと不平をもらさず耐えるとき、その民族はキリストに倣う道を歩んでいるのです。”

 

     (セルゲイ・O・プロコフィエフ「赦しの隠された意味」(涼風書林)より)

 

*この本の著者、セルゲイ・O・プロコフィエフ氏(1954~2014)は、ロシアの有名な作曲家セルゲイ・プロコフィエフの実孫であり、ソビエト連邦時代から人智学に関わっておられた方です。このブログでのタイトルは私が勝手に「絶望の先にあるもの」とさせて頂きましたが、この著作「赦しの隠された意味」は、「赦し」についての人智学的な考察であり、ここに引用させていただいたのは私にとって特に印象深かった箇所です。これ以外にも目からウロコが落ちるような、素晴らしく価値のある霊的知識がいくつも述べられており、単なる宗教的、倫理的な教えとして「赦しなさい」と説かれるのではなく、その「赦し」の決断へと至るために必要な認識へと私たちを導いてくれます。もちろん、他者から筆舌に尽くしがたい苦しみを受けた場合や、事故や病気で一生涯苦しまねばならなくなったときなど、そう簡単に加害者を赦したり、自分の運命を受け入れたりはできません。しかし、この本を読んだことで、何か闇の中に光が見えたような、そのような感じを受けました。ぜひ多くの人に読んで頂きたいと思います。

 

*「その民族が自らの悲劇的運命を受容することは、地球人類全体の高次の自我、すなわちキリスト存在に仕える道を歩むことでもあります。民族が歴史的運命を受け入れるとき、それがいかに過酷なものであろうと不平をもらさず耐えるとき、その民族はキリストに倣う道を歩んでいるのです」とありますが、現在のチベット民族のことが当てはまるようです。彼等は仏教徒ですが、彼らが信奉している教義は普遍的なものです。

 

ドゥホボール教徒の世界史的な影響 (ルドルフ・シュタイナー)

 

 “ロシアには深い宗教性を内に秘めたドゥホボル派(霊のための闘士たち)という異端の一派がありました。素朴ながら、非常に美しい形の神智学教義をもっていました。この人々はひどい迫害を受けてきましたから、表面的にはもはや眼に見える影響力をもっていません。唯物論者たちは言うでしょう。彼らがどんな目的をもっていたにせよ、その影響力はすでに失われてしまった、と。

 しかしドゥホボル派の人々はすべて、生まれ変わってきたとき、共同の絆で結ばれ、かつて身につけた教えを後世の人類の中に注ぎ込むのです。人々の出会いは、内的な人と人との絆は、転生を通して消えることなく人類に働きかけつづけます。人が一度体得した理念は、世界の中へ流れていきます。その理念はより深められて、後世の人々に受け継がれていくのです。”

 

       (ルドルフ・シュタイナー「シュタイナー 霊的宇宙論」春秋社より)