平和をもたらすもの (宮古島の神々の導き) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “戦いはいろいろの原因によって起きますが、戦いは空間体の中におけるエネルギーの活発な活動から始まるようです。最初に国を守護する神々が激怒して火花を散らしたのが人類に伝わり、人間同志の流血となるのではないか、と私は思います。

 一国内においても、その国民の信仰する宗教が勢力伯仲すると国を乱します。国と国との戦いも、守護神の異なる国家間の融和の乱れからであり、戦争の起きる前には必ず宇宙空間体が異変を起こすのでしょう。

 日本では大きな戦いといえば、日露戦争、第二次世界大戦ですが、どれも戦争の起きる数年前にホーキ星の形のように空間体に異常な光がおき、国難を感じたという古老の経験話には身の毛のよだつ思いがします。

 台風が渦巻く嵐となって騒ぎ出す瞬間、その怒り狂うその場所を、お祈りによって静止する方法はないのでしょうか。人間体内にそのエネルギーが流れ込んで、血が騒ぎださぬ内にこの騒乱を清浄にするお祈りを、天体にお通しできる才能者が地球上に誕生するならば、人類は永遠に平和で幸せであろうと考えたりします。

 神様を信じることは、麻薬を体の中に吸い込んで酔っているようなものである、という説もありますが、無信仰の国にも戦争はあるのです。人命を犠牲にしない戦いはあり得ないことから、その始まりは麻薬に酔い、善悪を決めることのできない人間的才能を失った狂心から出発するのではないのでしょうか。

 人間に、そうした狂心を起こさせないようにする要素が、透明体の限りなく広がる宇宙に存在します。

 人間の現代学問では届かぬ場所に、エネルギーの元素があり、科学が発達して、呼び出してくれるのを待っているように思えてならないのです。

 人間は欲望の持ち主であり、争奪の悪欲が調和を忘れ、戦いを始めるかも知れませんが、国の舵取りの誤算は国の遭難であります。地球を破壊する核爆弾の中に生活している現代は、平和のみが心のお祈りであります。”

 

(新城定吉「宮古島の神秘な石庭」(月刊沖縄社)より)

 

*この「宮古島の神秘な石庭」の著者である新城定吉氏(1921~2015)とは、宮古島で神々に導かれて、たった一人で埋もれていた数多くの石(中には30トンの重さのものも)を掘り起こし、さらに蘇鉄を植え、不思議な「石庭」を造られた方です。宮古島は地球のヘソにあたる島で、この「石庭」は、天体との交信の場でもあるということなのですが、出口王仁三郎聖師が、日本は世界の雛形であり、沖縄は日本の胞衣である、と言われたことを考えると、沖縄本島からは離れていますが、宮古島のこの石庭から放射される力は、実際に世界的に波及していくものであるのかもしれません。新城氏は、神々の指示に従い七冊の本を書いておられますが、髪の毛が天界へのアンテナであることやムー大陸のこと、また彗星の出現は人類への警告であることなど、出口聖師が言われたことと共通する内容がいくつもあります。私はまだこの石庭を訪れたことはありませんが、機会があればいつか行ってみたいと思います。

 

*「霊界物語 第27巻」(『海洋万里』 寅の巻)の後半は、太古の沖縄が舞台となっています。後に琉球の守護神となる常楠(つねくす)仙人とその二人の息子、清彦、照彦の物語です。「宮古島」の地名は出てきませんが、はるか昔、琉球島は今よりも何倍も大きな二つの島であり、その北の島(琉の島)には琉球沼という中央に珊瑚礁がある不思議な沼があって、そこへ渡った常楠親子によって神界の経綸が行われます。

 

〔「霊界物語」第27巻 海洋万里 寅の巻〕

(第16章『琉球の神』より)

 “此島に琉球沼と云ふ至って広き()の密生した沼がある。或夜清彦の夢に‥‥‥清子姫照子姫の二人、沼の対岸に現はれ、白き細き手をさし延べて清彦に向ひ、

『琉球へおじゃるなら、草履(わらじ)穿()いておじゃれ、琉球は石原、小石原』

と歌って踊りしと夢見て目が醒めた。

 土人のエムとセムとの従者に向かって清彦は、

清彦『此島に琉球沼と云ふ広大無辺な清泉を湛へた沼があるか』

と尋ねて見た。エム、セムの二人は言下に首を縦にふり乍ら、

エム『有ります有ります。確かに立派な沼があって、藺が周辺に密生し、比較的浅く、さうして外の沼とは違って、水底は小砂利を以て敷きつめた様な気分の良い沼です。その中央に珊瑚礁で作られた立派な岩があり、其岩には大きな穴が明いて居る。其穴を這入ると中は千畳敷で、時々立派な美人が其穴より二人現はれ、金扇を拡げて踊り狂ひ舞ふとの事です』

《中略》

常楠『何を言っても、ここは世界の秘密国だ。御苦労だが一つ調べて貰ひたい。‥‥‥エム、セムの両人、お前御苦労だが、二人の案内をしてやって呉れ』

 エム、セムの両人は一も二もなく承諾をした。茲に四人は常楠と共に天津祝詞を奏上し、成功を祈願し終わって、草履脚絆の軽装にて、一本の杖を携へ、芭蕉の葉で編んだ一文字笠を頭に頂き乍ら、一天雲なき青空を草を分けて、琉球沼の畔に辿り着いた。里程は殆ど今の十里くらいである。湖辺に着いた頃は太陽は既にセークス山の頂きに没し、山の影は湖面を蔽ふ頃であった。”

 

(第17章『沼の女神』より)

“清彦『ここは琉球の中心地点 夢の中なる恋妻(こひつま)

 堅(  かき)()常磐(ときは)に隠れたる 高砂(たかさご)(じま)(うづ)(しま)

 珍(  うづ)の女神の御玉の住処(すみか) 琉球へおじゃるなら

   草履( わらじ)穿()いておじゃれ 琉球は石原小石原

   唄(  うた)って聞かした二人のナイス 今はいづくと身をかくす(以下略)”

  

 

・エドガー・ケイシー

 

 “ケイシーの千年期の予言のうち、1940年6月に語られたふたつのリーディングのなかでは、集合意識に飛躍的な効果を与える境界値の人数が特定されている。ケイシーは二十世紀の世界でこれほど多くの動乱が起きる理由について、人々が神を忘れ去ってしまったからだと言っている。このような状況はあるべきことではなく、どこかの国や地球全体が背負っている宿命といったものでもない。さらに続けて彼は、たとえただのひとりでも祈る人がいれば、ひとつの都市を救うことができると言明する。

 また、同じリーディング(3976-25)のなかのもうひとつの予言では、第二次世界大戦を間近にひかえた当時、ケイシーは六十四人の集団に向かって、彼らにはアメリカの運命を変えるだけの霊的な力があると断言している。

 

 「ここに集う六十四人が祈り、その祈りにしたがって生きるなら、アメリカを侵略から護ることもできる… それがあなたがたの望みであるなら」

 

 最初の予言では、ひとつの共同体や都市の未来を変える境界値は、旧約聖書で語られた十人さえいらないとしている。おそらく、神の意志に沿う人間がひとりいればよいということだろう。ふたつめはさらに挑発的でさえある。これはケイシーの公開リーディングを聞きに来た六十四人の聴衆に向けられた言葉だった。ここには、国家全体の未来に及ぶ影響力がどのように作用するかが示唆されている。ちょうど、アメリカの領土が侵略の脅威にさらされているときだった。この時期、すでにヨーロッパや東アジアでは第二次世界大戦が始まっていたことを考慮に入れておく必要はあるが、それでも合衆国が参戦するまでにはまだ一年と半年の猶予があった。したがって、一九四〇年六月の時点でのケイシーの予言は、かなり大胆なものだったと言える。たとえ六十四人であっても祈り、神の構想に沿うように生きるのであれば、アメリカ国民の未来(侵略を受けること)を変えられるというのだ。しかし、どうやら意識の臨海質量は達成できなかったらしい。その後、二年もしないうちに真珠湾が空襲を受け、アメリカ国民はその領土が侵略されたのを知ったからである。

 ここで非常に興味深いのは、その日公開リーディングに出席したひとりの人物の報告である。それは、リーディングが終わったあとに、メンバーの間で交わされた話を伝えるものだった。この席では、「それではどのような祈りがふさわしいのだろう?」あるいは「皆がそろって祈りに参加するには何時ごろがよいか?」といった疑問はまったく出なかった。かわりに、人々は声をはりあげ、「攻撃を受けるのはいったいどこだろう?」と言い交わした。こうして恐怖が忍び寄り、ケイシーの言葉にこめられた希望の兆しを黒い影で覆ってしまったのだった。

 それから四十年以上もたった今のわれわれからすれば、この一団の人々は愚かにも見え、恐怖に取りつかれて自分を見失ってしまったようにも見える。また、彼らがなぜ兆しとして見えていたはずのものの意味を見落としてしまったのか、なぜ目の前に差し出された魂を向上させる好機をつかみそこなってしまったのかと疑問にも思える。しかし、考えてみれば、われわれも今、おうおうにして同じ様なことをしてはいないだろうか?原理や数は今も変わりはない。状況はやや違っているかもしれない。第二次世界大戦の勃発も終戦も過去のことになった。それでも今日、われわれの世界には同じような脅威の予兆がいくつもある。そして、現代でもやはり、アメリカ規模の国家に変化をもたらすのには六十四人の人間がいればよいのである。

 それでは今のわれわれの反応はどうか?最初に地震に見舞われる地域はどこかと気をもむだけだろうか?経済恐慌がおきたら、その結果どんな暴動が発生するかを懸念するだけだろうか?われわれの目の前にはまだ、集団の意識をいっきに発酵させるわずかなパン種となる機会が見えている。これはひたむきな人々の小さな集団が未来の進路に途方もなく大きな影響を与えることができるという力強い概念である。それは、われわれに約束の感覚と責任への挑戦を授ける思想である。そして「臨界質量」の魔術が人間意識の領域に働きかける作用がはっきりと見て取れるなら、われわれはなにがしかの希望を抱いて、その責任をすすんで担うことだろう。”

 

            (マーク・サーストン「21世紀ビジョン」中央アート出版社より)