信仰を失うという試練 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・聖パードレ・ピオ(ピオ神父)の言葉


「あまり安らぎがないから神様は愛して下さらないと思うことも間違っています。確かにこのような体験は辛いことだ。私はあなたの心境がよく分かります。しかし、人が神様からより高い霊性の位に呼ばれるときには、このようなことはどうしても必要です。」

 

「人は一生懸命に祈っていても心はカラカラに乾き霊的な飢えもあまり感じないようです。なんの甘美な慰めもなく、ただ無理やりに自分を神様に仕えさせているような気持ちです。自分の立場から見ると、そうしか見えません。しかし神さまの立場から見れば、これは当然な過程です。」

 

「人は世間的なあこがれや罪の危険から離れ、神様に強くつながっていてその愛が燃え上がっている時、神様は甘美な慰めを取り除かれることがあります。そのときにはこれまでの黙想やさまざまな信心で得られた安らぎがなくなるでしょう。」

 

「最も辛いことは祈ることさえできず、黙想して祈る力もなくなることです。霊魂はあたかも暗黒の状態となります。」

 

「神様に見捨てられたと思いこむかもしれませんが、実際は父なる神様からの特別な恵みを受けています。観想生活に移り変わる段階にすぎません。」

 

「時として、祈りができなくなったことも、神からの恵みだと分かったらいいのですが……」

 

「心のかんばしい慰めは、幼い人のためです。これらの慰めは完徳のしるしではありません。愛のしるしは慰めではなく苦しみです。無味乾燥、疲れ、無力感など、こういうものは神の本当の愛のしるしです。」

 

「あなたは苦しんでいますが、次のことを認めなさい。イエス様はあなたの内に、あなたと共に、そしてあなたのために苦しんでおられます。」

 

「辛ければ辛くなるほど、愛を多く受けられます。」

 

「無味乾燥の時に、神様を愛する一語でも、安らぎを感じて話す時の百以上の言葉の価値があります。」

 

(「よい一日を迎えてください パドレ・ピオ」(サンパウロ)より)

 

・スワミ・ブラマーナンダ (ラーカール・チャンドラ・ゴーシュ)

 

 “シュリ・ラーマクリシュナの弟子になったあの有名なベンガルの劇作家ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュが、ブラマーナンダの非凡な力について次のようなことを話している。「私自身に比べれば、ラーカールはほんの子供である。シュリ・ラーマクリシュナがかれをご自分の霊の息子と見ていらっしゃったことは私も知っているが、私がかれに深い尊敬の念を感じる理由は、それだけではないのだ。あるとき、私は重い病にかかって、シュリ・ラーマクリシュナへの信仰を失っていることに気づいた。心が無感動になっていた。大勢の兄弟弟子たちが見舞いに来てくれ、私はみなに自分の不幸な心境のことを話したのだが、誰も何も言わなかった。そこへ、ある日、ラーカールが来た。かれが気分はどうかと尋ねるので、私は自分が苦しんでいる心の無感動と信仰の欠如とを説明した。ラーカールは注意深く耳を傾けていたが、やがて大声で笑った。『なぜそんなことをお悩みになるのですか』とかれは尋ねた。『海の波は高く上がり、低く退いてまた高く上がるでしょう。心もそのようなものです。しかしどうぞ心配なさらないで下さい。あなたの今の心境は、あなたがまさにもっとずっと高い境地に昇ろうとしていらっしゃるという事実に因るものです。心の波が、その力を結集しつつあるのです』かれが帰った後、私の心の無感動状態は完全に去っていた。私は信仰を取り戻し、心は前よりも高い境地に昇った」”

 

(「永遠の伴侶 スワミ・ブラマーナンダの生涯と教え」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

 

・暗闇(くらやみ)の聖人  〔マザー・テレサ〕

 

 “「私がもし聖人になるなら、それは『暗闇の聖人』でしょう」、マザー・テレサは生前、手紙の中にそう書き記した。暗闇の中に生きた自分は、暗闇の中に生きる人々の為に働く聖人になるだろうというのだ。マザーが生きた暗闇、それは一体どのようなものだったのだろう。

 

(喪失ゆえの苦しみ)

 この暗闇を、マザーは「喪失ゆえの苦しみ」と呼んでいる。この闇は、イエスを失ったことによる苦しみだというのだ。

 マザーが1946年9月10日、ダージリンへ向かう列車の中でイエスと出会った話は有名だが、その体験以来マザーの傍らにはいつもイエスがいたようだ。「すべての祈りとミサのあいだ、イエスがわたしに語りかける」とさえマザーは書き残している。寄り添うイエスに励まされ、手を引かれるまま、マザーはスラム街へと出て行き「神の愛の宣教者会」を設立した。ところがそのイエスが、ある日突然マザーの前から姿を消してしまったらしい。1950年ごろのことだ。

 そのころ指導司祭にあてた手紙の中に「私の心は苦しみでいっぱいです。この苦しみは、喪失ゆえの、あこがれゆえの苦しみです」とマザーは記している。この苦しみは、イエスを失い、その愛にあこがれることによる苦しみだというのだ。

 

(イエスの聖心を信じて)

 どれほど呼び求めても、イエスが戻ってくることはなかった。冷たい闇の中に取り残されたマザーは、ただ「盲目的な信仰」だけを頼りに進んでいくことになる。このときの心境をマザーは「わたしはもう『イエスの聖心よ、あなたを信じます』としか祈ることができません」と記している。イエスの愛を実感することができなくなった今、マザーは、イエスの聖心にあふれているはずの愛をひたすら信じて進むしかなかったのだ。

 

(闇を愛する)

 変化が訪れたのは1961年のことだ。ある黙想会の後、指導司祭にあてて書いた手紙の中でマザーは次のように語っている。

 「この十一年で初めて、わたしは闇を愛することができるようになりました。なぜなら、今のわたしは、この闇が地上でイエスが味わった闇の小さな一部でしかないと信じているからです。」

 苦しみは残り続けたが、深い祈りの中でマザーはその苦しみをイエスが十字架上で味わった闇の一部と感じられるようになったらしい。イエスは、十字架上で神のために自分の命さえ捨てようという時に神の存在を見失い「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ。この神の喪失の苦しみをイエスと共に担う使命を神から与えられた、とマザーは受け止めたのだ。その時以来、苦しみはマザーとイエスを結びつける絆としてそれ自体が恵みの源となった。

 闇の苦しみを味わい尽くしたマザーは、神の愛を感じられずに苦しむ人々に心から共感し、彼らのために働く「暗闇の聖人」になることを希望した。マザーは今日も苦しむ人々の傍らにいて、彼らに微笑みかけているに違いない。(片柳弘史神父 イエズス会)”

 

(「カトリック新聞」2010年8月1日号より)

 

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