おかげ話考 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

 “本誌(「おほもと」誌)には毎号おかげ話(信仰体験記)が載せられている。そして「奇蹟的に災害を免れた」とか、「難病が治った」という話が多い。

 ところで、こういう奇蹟的な出来事というものは、長年信仰していても、そうたびたびあることではないし、神さまを拝んでさえいれば絶対に不幸な目に会う心配はない、というものでもないようだ。それどころか、「あの人が」と思われる熱心な信者が、世間的には不幸な事故に会われたという話を私はしばしば耳にするのである。

 ちょっと見れば、信仰の効果を疑わせるような事件も稀ではないし、私自身、二世信仰で物心のついた頃から朝夕の礼拝を両親と共にし、長年信仰生活をしているが、日常生活でそんなによいことばかりが続いているわけではない。貧乏生活で金に不自由するのはしょっちゅうのことだが、時には病気もするし怪我もする。勤め先で不愉快な思いをすることもある。…(中略)、要するに信仰していない家庭と表面上何等変わるところはないのである。「家をも身をも護り恵まい幸はえたまえ」と毎日神さまにお願いしているにもかかわらず――である。

 それでは「おかげ」は全くいただいていないのか、お祈りは一方通行で、神からは特別の恩恵を受けていないのかといえば、私は、けっしてそうは思っていない。何事もなく日々を生かさせていただいているということも大きなおかげであるが、日常のすべての出来事がことごとく神の恵の賜物であると思う。ただ、それが人間心には災いのように見えたり、損をしたかのように見えるだけである。神の目から見れば、

 1、大難を小難で済ましてある場合

 2、前世からのめぐり

 3、人間を向上させるための試練

等の理由によって、人それぞれにその人に最も適した環境と事件とが与えられているのだと思う。

 大本の二代教主は幼年時代、極貧の境地にあって生米をかじるほどのひもじさを体験され、後年、「これ以上続いていたら盗みを覚えたであろう」と述懐されたということだが、人それぞれの能力に応じて、時には休養を与え、また次には挫ける一歩手前まで苦労させて体験を積ませ、人間の器量を大きくされるのであろう。そういう神のみ心を覚るか否かによって、わずかの試練にへこたれてしまうか、より大きな試練に耐えて向上することができるか、の区別ができる。

 私は、面白くない出来事が起こったら、次の出口聖師のお歌を口ずさみ、「惟神霊幸倍(かむながらたまちはへ)ませ」と唱えることにしている。

 

   許々多々(ここたく)の悩みうれひも御心ぞ やがては深き喜びとならむ

 

       (「おほもと」昭和45年9月号 土井清『おかげ話考』より)

 

 

・シュタイナー人智学

 “・・・わたしたちは天使の介入を、いつも人間的な幸運として体験するわけではありません。わたしはこの本のなかで、こういった例も紹介しました。さまざまな事実が集まって作り出す不可思議で抵抗しがたい力によって、大きな不幸が引き起こされる場合もたびたびあります。また、このような不幸が、なにも知らない善意の人間によってもたらされることも少なくありません。このような体験を、ある一人の母親が話してくれました。
 彼女は、第二次世界大戦のとき、ある大都市から田舎に疎開していました。
 「その頃、わたしの夫は戦場にいました。わたしと子どもたちは、町から遠く離れた村に宿泊する場所を見つけました。ある日わたしは、年上の娘二人に用事を言いつけて、町の家まで使いにやりました。二人は一晩だけ自宅に泊まらなくてはなりませんでした。ところが、ちょうどその夜、町は爆撃によって破壊されたのです。わたしの娘たちは戻ってきませんでした・・・わたしが自分で娘たちを死に追いやったのです」
 このような打ち明け話をしながら彼女は痛みを感じていましたが、この痛みはすでに深い認識へと変化していました。彼女は、「より高い摂理があの出来事を支配していたのだ」と意識していました。こちら側の世界で体験すると、ほとんど耐えることのできないような不幸な出来事でも、向こう側の世界から見ると、わたしたちの判断を超えたある意味を持っているのです。なぜなら向こう側の世界では、死は誕生へと変化するからです。それはちょうど、こちら側の世界での誕生が、霊的な世界にとっては、一種の死を意味するのと同じです。・・・「ぼくは生まれたときに、死んだんだよ」と、むかし、ある少年が話してくれたことがありました。
 たしかにわたしたちは、「天使に助けられた」という報告と同じ数だけ、「天使の助けが、人間を救い、保護する力として働かなかった」ということを証明する事例について語ることもできるでしょう。どうやらわたしたちには、高次の世界について、あまりにも単純なイメージを抱きたがる傾向があるようです。「天使は絶対的な意味において、万能である」などとは、どこにも述べられていません。明らかに天使は、地上存在における人生や幸福を決定的にする観点とはまったく別の視点から人間の運命を見ています。天使は、運命の諸条件を守らなければなりません。このような運命の諸条件は、常にわたしたち一人一人の「個人」と関わり合うものです。
 人間は誰でも、昼も夜もわたしたちを取り巻いている感覚によって知覚される自然はきわめて複雑なものであり、さまざまな対立的な要素に・・・つまり「暖かさと冷たさ」「光と闇」「芽生えと衰退」といった相互に対立的に作用し合う諸力に・・・満ちているということを知っています。もし対立する力の一方だけが支配的になるならば、その原理や力は破壊的に作用することになるでしょう。対立する力が律動的に作用し合うことによってのみ、均衡は生じるのです。この均衡が硬化することは許されません。均衡は常に解消され、また新たに作り出されなくてはなりません。このような自然の本質を捉えるためには、善や悪といった限定された概念だけでは、不十分なのです。”

         (ダン・リントホルム「天使がわたしに触れるとき」イザラ書房より)