「平地人ヲ戦慄セシメヨ」 柳田國男の民俗学 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……柳田國男や折口信夫の提唱した日本民俗学は、あくまでも民間伝承の担い手であり、その記憶集蔵体である「常民」のもつ「伝承世界」(習俗・民俗世界)の存り様を実証的に探ることが目的であった。たとえば和歌森太郎は、「民族史、基層文化の歴史、従って基層文化をより重く荷うところの一般常民の生活史にこれを見ようとし、けっきょく日本人に通じての生活方式や性格を究め、以て国民文化を基層から理解しようとすることも私どもは願うのである。そうした民俗史研究を目的として各民俗そのものを研究対象とする。これが民俗学の課題である」(『日本民俗学概論』)と述べている。宮田登が『日本の民俗学』で指摘しているように、柳田民俗学の郷土研究の具体的対象は、まず第一に、郷土生活の担い手としての「常民」であり、そこからさらに日本人の民族性(エトノス)、国民性を探ろうとしたのである。

 とはいえ、明治四十三(一九一〇)年に出版した『遠野物語』初版序文に、

 

 国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。

 

とすこぶる激しいアジテーションを柳田國男はぶっている。「平地人」とは、先に述べた「常民」とほぼ重なると見てよい。そうしてこの、民俗学の画期を成す道標である『遠野物語』の中で、柳田は天狗や山男や山人らのいわゆる「非常民」に大いなる共感を寄せながら、伝承を採集している。してみれば、宮田登がいうように、柳田は、最初、常民でないもの、すなわち漂泊民、非定着民を前提において出発したといえる。「常民」にとっての「異人(ストレンジャー)」である巫女、山伏、聖(ひじり)などの漂泊の下層宗教者を前提として。折口民俗学は、こうした漂泊する民を「マレビト」という観点から見事にも美しく神学的に位置づけている(たとえば「ごろつきの話」)。

 その後、日本民俗学の主流が「常民」のもつ基層文化の研究に向かったことは民俗学の歴史が示すとおりである。けれども、もちろん、それでは「非常民」の文化は基層的ではないのかといえば、そうではない。それは実に深層的なのである。このことは、心霊研究についてもあてはまる。柳田以降の民俗学の分類に従えば、いわゆる「霊媒」は「非常民」であり、「下級宗教者」と位置づけられよう。しかしその非常民たる「霊媒」が語る内容は、単に「霊媒」個人の潜在意識を超えて、民族の深層意識ないし民族や人類の「神秘的想像力」から噴出している場合も少なくない。問題はそうした「深層意識」なり「神秘的想像力」なりが、常民=平地人のそれとどのように違い、またどのように関係しあっているか、ということであろう。

 「霊学」とは、ここにおいて、まさに民族的な「常民」の世界から「非常民」の世界を経て深層意識の旅を続ける道にほかならないのである。”

 

(鎌田東二「平田篤胤の神界フィールドワーク」(作品社)より)

 

*明日はハロウィンですが、もともとハロウィンとはキリスト教以前の古代ケルト、ドルイドのお祭りであることは多くの方がご存じだと思います。日本のハロウィンはかなり商業的にゆがめられているような気がしますが、アニミズムを信仰し、妖怪にも深い愛着を持つ日本人にとって古代のケルト人の精神世界には何かしら共鳴するものがあるようです。お化けや魔女の仮装も、自分たちの深層意識に存在するものを、無意識に表現しようとしているのかもしれません。特に日本ではキリスト教の影響が少ないので、宗教的な抑圧もなく、それら異界の存在は表面意識に浮上してきやすいと思います。とはいえ、今でこそ娯楽になっていますが、本来の古代のハロウィンは、まだ電気もない真っ暗な闇の恐怖の中で篝火をたいて、何とかして悪霊を寄せ付けまいとするものであったようで、有名なジャック・オー・ランタンも、もともとは魔除けとして置かれたものでした。もしハロウィンの行事が日本に定着することで、異界との交流が活発になり、本来の古代のハロウィンが現代に復活したら、すなわちこの日の夜には死者たちの霊が私たちのもとに現われ、我々の深層意識の中に潜む妖怪や悪霊たちが実体化してそこらをうろつきまわるような、いわゆる「百鬼夜行」のようなことが現実にあるとしたら、たとえ現界に出現してこなくても感覚として強烈に、リアルに彼らの存在が感じられるようになるとしたら、まさに、「遠野物語」の世界であり、私たち「平地人」は戦慄せしめられることになりそうです。

 

 

 

 

 

 

 


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