逆髪(さかがみ) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・逆髪(さかがみ)

 

 “日本の芸能の始祖の一人である世阿弥のつくった能楽の中に「蝉丸」という曲がある。前世の報いのためか、盲目に生まれついた延喜帝の第四皇子蝉丸は、その異形・畸型のゆえに逢坂山に捨てられる。蝉丸は杖を持ち、琵琶を抱き、その弦をかき鳴らして嘆くが、わが身の宿業ばかりはどうすることもできない。かれは都をのぞむ逢坂山の山中で琵琶をかき鳴らしてただ嘆き歌うばかりである。

 そこへさすらって来たのが、延喜帝第三皇子逆髪(さかがみ)、すなわち蝉丸の姉である。逆髪は哄笑しつつ次のようにモノ語る。

 

 我王子とは生まるれども、いつの因果の故やらん。心寄寄(よりより)狂乱して、辺土遠境の狂人となって、みどりの髪は空さまにおひのぼって、撫づけどもくだらず。いかにあれなる童べどもは何を笑ふぞ。何我髪のさかさまになるがおかしいとや。実(げに)さかさまなる事はをかしいよな。籾は我かみよりも、汝等が身にて笑ふこそさかさまなれ。おもしろしおもしろし。是等はみな人間目前の境界也。夫(それ)花の種は地に埋もれて千林の梢にのぼり、月の影は天にかかって萬水の底に沈む。是等はみないづれをか順と見、逆なりといはん。我は王子なれども疎人に下り、髪は身上よりおひのぼって星霜をいただく。能みな順逆の二つなり。おもしろや(中略)

 狂女なれども心は、清瀧川と知るべし。逢坂の、関の清水に影見えて、今や引くらん望月の、駒の歩みも近づくに、水も走井の影見れば、我ながら浅ましや。髪はおどろをいただき、まゆずみもみだれくろみて、実(げに)さか髪の影うつる。水を鏡とゆふ浪の、うつつなの我すがたや。

 

 狂女であるが心は清瀧川のように澄みきっているという、その暴力的な無垢(イノセンス)の痛々しい提示。雀の巣のように逆立った髪の毛、眉墨も黒く乱れたその醜怪な異形の身体。その身心の極端なまでの乖離。逆髪の語る「是等はみな人間目前の境界也」というのは、順逆の転倒、すなわち現実原則の正当性を転倒させて、その制度性をあばき、逆に幽的原理の世界を現出させる魔術的な行為(magical production)である。逆髪が幻視していた世界は正しく幽界なのだ。髪が天に向かって逆立っているということは、髪がそのまま天上の神に向かってのび、神の言葉を受託することだと、異装の鬼三郎たる出口王仁三郎ならいうだろう。つまり、逆髪とは、「霊主体従」的人間なのだと。いったい何を順と見、何を逆というのか、この逆髪の諦念と呪いに満ちた問いの根は深い。そしてこの順逆の制度性・正当性を逆転することができるのは、ひとえに逆髪が「面白し」と叫ぶ異形の身体をもった神に仕える巫女(シャーマン)だったからである。

 こうしてみると、先にふれたとおり、髪が逆立つことは一種の憑依状態を示すものであり、サカガミとは「原初においては坂の神であり、坂に集まる異形者そのもの」、また「零落した霊性の所有者、巫女」であるという松田修の指摘はするどくも正鵠を射ている。また、近松門左衛門の浄瑠璃「蝉丸」と歌舞伎狂言「二度の出世」にあらわれた逆髪像を分析して、逆立つ髪が「巫女的霊性・嫉妬・忿怒の発動する神性」という三つの意味側面をもつことを探りあてた服部幸雄の指摘も首肯できるものである。服部がいうように、逆髪とは、どろどろと鳴りひびく鳴神のイメージを宿す龍蛇的身体をもち、ゆらゆらと揺るぎ出る怒れる神、荒ぶる神の憑依を受けて神託を告げる漂泊の歩き巫女なのだ。”

 

         (鎌田東二「神界のフィールドワーク」創林社より)