出雲大社と大本 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・出雲大社と大本

 

 “明治三十四年の大本の「火の御用」により出雲大社の神火は大本におさまった。

 明治三十四年旧三月七日の大本神諭。

 「―― 出雲へ行って下されたら出雲のご用を出来さして天も地も世界を平均(な)らすぞよ。このご用をすまして下さらんと、こんどの大もうなご用はわかりかけがいたさんぞよ。わかりかけたら早いぞよ」

 この神示により明治三十四年七月一日(旧五月十六日)、出口なお開祖、出口王仁三郎師、その妻すみ子(二代総裁)他一行十五名は出雲大社へ神火をいただきに行くこととなった。簑と笠、さらしの脚絆に紙まき草履、十曜の神紋付きの裃をそろって着用して綾部を出発。当時、汽車のない時代ゆえ、往復とも徒歩。開祖は六十五の老齢にもかかわらず二〇〇キロの長途を往復とも、いつも一行の先頭であった。開祖は「年寄りのお婆さんの私が若い人の先に立って歩くことはあつかましいいと思うし、私もえらいし(疲れるし)、ゆっくり歩こうと思うが、後から神様が押されるので、つい早く歩くのや」と言われた。お伴をされた娘のすみ子師は「ご開祖は背後の神様にもたれるようなお姿で大へん達者に歩かれた」と述懐されている。なお、当時すみ子師は十九才、初の出雲行きである。「この出修で初めて夏みかんを食べて美味しかった」とのこと。途中の鳥取、加露ですみ子師のお腹に太陽が入る霊夢を夫君の王仁師がご覧になる。そして帰りはすみ子師もつわりで苦しまれた。この時、お腹の中におられた直日三代総裁が七〇年後に火の御用記念碑を除幕される。

 さて一行は美保神社参拝の後、中海、宍道湖上は平田まで汽船に乗る。宍道湖上では神様が開祖の梅の杖を握ってグウッと回され「この辺りから因縁の人が出て、神代にかえす御用をするようになる」と言われた。平田からは徒歩で出雲大社へ。新の七月十二日に一行は参拝。ついに大社の神火をもらうが当然のことながら容易にはもらえなかった。檜皮製の三本の火縄に点じて持ち帰ることとなり、綾部へ帰着した時は一本のみが無事だったという。火と同時に大社の境内の砂と拝殿横の御饌井(みけい)の真清水をもらい受けて帰る。この出修は二十日間かかった。神火は百日間、綾部で保存されていたが、百日目に天にあずけられることとなった。砂は宮屋敷どりとして綾部周辺に撒かれた。綾部小学校の土地にも神の命令により撒かれたが、今、大本のものとなり教主館が建つ。お水は綾部の井戸に注がれ、残りは元伊勢の神水と共に日本海の沓島の竜宮海へ注がれた。浄らかな火と水は神界を、後には現界を浄化する働きとなり、立替えの発動となるものである。

 七十年後の昭和四十六年十一月十六日に出雲大社境内に直日三代総裁ご揮毫の「大本教祖火の御用記念碑」の石碑が建立された。場所は二の鳥居の東側広場奥の松木立の間である。一畝=三十坪の神苑を大本が永久に借地したのだ。この場所は、千家尊祀八三代国造が下見され決定されたものである。七十年前の火の御用も破格のことだが、この建碑も全く前例がない。大社側も他所からの数多の建碑願いはすべて断られていたのである。石碑は高さ6メートル、横幅1.5メートル、厚さ1.3メートル。左手には大きな庭石が置かれ、大本聖地の松、そして梅が植えられ、それらを竹と聖地や全国の大本信者から送られた萩の垣根が囲んでいる。正面には建立由来碑が建つ。建碑式には直日総裁もご臨席され、記念碑の除幕をされた。二千五百名の参拝者の見守る中、出雲大社と建碑式場で厳粛なる祭典を執行、とくに大社の八足門東廻廊では八雲琴の演奏奉納が三曲なされた。直日師はその三〇分間、身じろぎもせず聞き入られ、涙ぐんでおられていたという。なお八雲琴はここが発祥地であり、今大本の祭典楽となっている。”

 

   (「人類愛善新聞」昭和53年9月号 『神代の淵源を求めて⑨』より)