大天使ミカエルの時代 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ミカエルの時代  〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “さて、これはルドルフ・シュタイナーの言葉なのですが、将来、人間の自由な思考が権力によって禁止されるような時代がくるかもしれません。今の北朝鮮よりもっとすごいですね。人間が思考できなくなるわけです。考えるということができない、禁止されてしまうのです。これは、誰かビッグブラザーみたいなのがいるというのではなくて、人間が自発的に考えることをやめるということなのではないでしょうか。今本当に自分のドタマで考えられる人間なんて少ないですよ。マニュアルの時代でしょう。私は、ドイツでも機会があるごとに警告しているのですが、そのうちに手帳のような物を持ち歩いて、きっとその頃になると電子手帳のような小さなコンピューターになっていて、「これから私は○○さんと会ってこういうことをしたい。これは道徳的なのか」と打ち込むわけです。するとコンピューターが「不道徳」とかね(笑)。「そうかあいつは不道徳なのか、やめておこう」ということになります。「明日、小林直生さんの講演会に行きます」、すると答は「道徳的」(笑)。これだっておかしいわけです。そういうふうに思考がマニュアル化していきます。自分で自由に考えません。失敗するのが怖いのです。失敗しなければ何事も学べないわけですけれども。そういった問題なのです。

 今、我々はミカエルの時代に生きているとルドルフ・シュタイナーは言っています。ミカエルという天使がいるのです。このミカエルという天使は我々を助けません。放っておくのです。何かやるのを待っていて、プロセスを見ているのです。で、結果がでるでしょう。でもミカエルは失敗とか成功とかは全然気にしないわけです。失敗しても成功しても霊的には一つの出来事です。結果に意味を与えてくれる天使のことをミカエルというのです。自分がこうやって、ああやってひどい目に会って失敗した。友人も失ってしまった。非常に落ち込んでいる時に、ぱーっと、「あ!これにはもしかしたら、こういう意味があったのかもしれない」というふうに、あらゆる結果に意味を与えてくれます。こういった時代をミカエルの時代といいます。それが我々の生きている時代です。このような時代で我々にいちばん大事なのは勇気です。”

 

  (小林直生「悪を救済するキリストの力―― 現代キリスト者の使命 ――」涼風書林より)

 

 

・ローマ教皇レオ13世が視た幻  「大天使聖ミカエルへの祈り」

 

 “第二バチカン公会議による刷新の前には、ミサが終わる度に司式者と信徒はひざまずいて聖マリアと、大天使聖ミカエルへの祈りを一つずつ唱えたことを記憶している方はたくさんおられることでしょう。これは実にすばらしい祈りで、それを唱える人たちすべてに大きな恩恵をもたらしてくれます。

 

 「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを守り、悪魔の凶悪なるはかりごとに勝たしめたまえ。天主の彼に命を下したまわんことを伏して願いたてまつる。ああ、天軍の総帥。霊魂を損わんとて、この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、天主のおん力によりて地獄に閉じこめたまえ。アーメン」

 

 この祈りはどのようにして生まれたのでしょうか?ここに記載するのは一九九五年に報道された「エフェメリデス・リタージカ」誌の記事です。

 

 ドメニコ・ペチェニーノ神父記「正確な年は記憶していません。ある朝、教皇レオ13世がミサを捧げられ、いつもどおり感謝の祭儀に出席されていました。すると突然、出席者は教皇が頭を上げられ、身動きも瞬きもされずに司式者の頭上にある何かを凝視しておられるのに気がつきました。教皇の表情には恐怖と畏怖が混ざり合っており、顔色と顔つきが急激に変化したのです。ただならぬ重大な何かが教皇に起こっていました。

 やっと正気を取り戻されたかのように教皇は軽く、しかししっかりと手を打って立ち上がられ、ご自分の執務室へ向かわれました。心配した随行員たちが気遣って、ささやきを交わしながら教皇のあとに続きました。

 『教皇様、ご気分でも悪いのでいらっしゃいますか?なにかお入り用なものはございませんか?』『なにも要らない、何も』と教皇は答えられました。三十分ほどしてから、教皇は礼部省(現・列聖省および典礼秘跡省)の書記官をお呼びになると一枚の紙を手渡され、それを印刷して世界中の裁治権者たちに送るように求められました。その紙はなんだったのでしょうか?それこそ各ミサの終わりに必ず人々とともに称える祈りだったのです。聖マリアへの願いと、天軍の総帥への熱烈な祈りで、サタンを地獄へ送り返してください、と神に嘆願するものでした。

 教皇レオ十三世は、それらの祈りのあいだはひざまずくように指示されました。そのとき報道された記事は一九四七年三月三十日、ラ・セッティマーナ・デル・クレロ紙に掲載されましたが、その情報の出所は伏せられていました。しかし、その祈りが、一八八六年に特別な状況の中で、実際に裁治権者たちに送られたことは立証できます。信頼できる証人であるナサリ・ロッカ枢機卿が一九四六年、ボローニャの教区に宛てた四旬節の司牧書簡の中で記しています。『教皇レオ十三世ご自身が書かれた「霊魂を損なわんとて、この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔」という祈りの文には、聖下の私設書記官モンシニョール・リナルド・アンジェリによって幾度もくり返された歴史的説明があります。レオ十三世は、本当にまぼろしの中で永遠の都市ローマに集まって来ようとしていた悪魔をごらんになったのです。教皇様が全教会に唱えるように願われた祈りは、その体験の成果でした。聖下は強く、力に満ちた声でその祈りを唱えられました。わたしたちはバチカンのバジリカの中で幾度となくそれを聞きました。レオ十三世はまた、個人的にローマ典礼儀式書(一九五四年版II C, III, P863)に含まれている悪魔祓いを書かれました。聖下は司教や司祭たちに彼らの教区および、小教区でこれらの悪魔祓いをしばしば読むように薦められました。教皇様ご自身が一日中、よくそれを唱えておられたものでした』」”

 

        (ガブリエル・アモース「エクソシストは語る」エンデルレ書店より)

 

*教皇レオ十三世がご覧になった幻とは、キリストとサタンが会話している光景で、その内容は以下のようなものであったと伝えられています。

 

  サタン 「私は全世界とお前の教会を自由にすることができる」

  キリスト「あなたにそれができるのですか?」

  サタン 「できる。しかしそれにはもっと多くの時間と力が必要だ」

  キリスト「どのくらい?」

  サタン 「75年から100年」

  キリスト「時間も力も与えましょう」

 

 この幻を視て戦慄されたレオ十三世が、教会の守護者、大天使ミカエルへ保護を求める為に作られたのが上記の「大天使ミカエルへの祈り」です。しかし、せっかくのこの祈りも、第二次バチカン公会議以後は、ほとんど唱えられることがなくなってしまいました。それどころか10年近く前から日本のカトリック教会では、ミサの中の聖変化のときにひざまずくことすらも禁止されてしまいました。「大天使ミカエルの時代」という題をつけさせていただきましたが、これは「大試練の時代」と言い換えることもできます。シュタイナーによれば、ミカエルは我々を助けてくれないということですが、これは試練のためであって、我々の霊的な成長のために、あえて助けないのだと説かれています。そして、エドガー・ケイシーも、今はキリスト再臨前の試験期間だとリーディングの中で述べています。というわけで、今は悪魔のやりたい放題の時代であり、既に教会も内部から崩壊しつつあるようで(カトリックだけではありません)、さらに現在の新型コロナウィルスのパンデミックなど、世界的な規模で様々な問題が起こっています。ですが、それでも堕天使ルシファーと戦うのは大天使ミカエルの果たすべき役割であり、勝利を収めるのもミカエルです。確かに、世界は困難な時代へ入りつつあるようですが、キリストが「私はすでに世に勝っている」と言われたように、最終的には神様の介入があるのだと私は信じております。

 

  根底までおちたる人を救はむと ミカエルとなり()れし伊都能売(いづのめ)

                        (「霊界物語」第3巻余白歌)

 

 “大正十年の第一次大本事件が起こる前までは、「天地がひっくりかえる」とか「日本もなくなってしまう」それが立替え立直しである、というような解釈をし、また宣伝したわけです。ところが聖師は側近に『そんなばかなことがあるか。そんな立替えだったら誰も生きちゃおらん。みんな死んでしまう。そんな世の中になって何がいい世の中だ。そんな滅茶苦茶なことをして「みろくの世」がくるもんか。ばかなことを言うな』と言っておられました。”(「おほもと」昭和52年2月号 大国美都雄『聖師と霊界物語』)

 

 “王仁が出たのはお筆先をあわさぬようにする為である。お筆先が当たってたまるものか。(昭和二十年)”(木庭次守編「新月のかけ」)

 

 

・エドガー・ケイシー・リーディングより

 “地球の変動との関連でいえば、これらは預言を通してばかりではなく、占星学の視点からも、高い地位にいる人々や集団の考えを通しても指摘されている。「時の完了」というべきものの中で、こうしたことが起きているのである。

 だが、地球にキリストが到来し、天の父とのとりなしを人類にお与えになって以来、「神の報復」と呼びならわされているものの多くをくつがえす力がきている。

 そこで、宇宙の法則に関する権威を与えられた人々の心が、恐るべき終末という考えに煽(あお)られるか、霊的覚醒の展開を予兆する事柄に煽られるかは、国々の情勢の中に今起きつつあることが母なる地球の表面の状態と関係していることに気づいた、この人に代表される人達の活動にかかっているのである。

 預言されていることについて、また地球の変動をくつがえす行動をとってきた、今後もとるべき人々の活動については、多くの質問があるだろう。

 まず最初の前提がある。罪が物質的な形をとった原因が何なのかを知りなさい。そのようなことを起こすのが、神の目的だろうか?それとも、表現を求める力が表現され、積極力と消極力になったのだろうか?

 一方の力を自覚してある方向をとることが消極的な力となり、他が積極的な力となった。地球の物質界の中で展開する魂の経験にも、同じ結果が出てきている。

 人間が経験し自覚する一方のそれら記録の中にも、このような理解が多く暗示されている。つまり、宇宙的、霊的、普遍的な法則が、人間経験の一部となりつつある。これは、岩の中の記録にも示されている。かつてあったこと、今あること、今後起きることを霊的理解の中で解こうとする者たちに「しるし」として残そうとの試みが、ピラミッドに暗示されている。

 その解釈はいろいろあるが、問題なのは解釈する人間の意識である。最初の前提に戻れば、解釈する人がどのような線をとっているのかに、すべてはかかっている。悲観的な解釈か、楽観的な解釈か、積極的か、消極的かということだ。

 消極的という意味は、地球と宇宙におけるその位置に関係して、魂がそこにどう働きかけるかを考慮せず、神の御言葉、約束、働きをほとんど考慮せずに、世界がただ呪われているとする見方である。主は、求道者を建設的な力に目覚めさせるものを、地上に現わされた。

 同じことは、主の人間に対する道、お約束を求める者たちへの導き、しるしとして与えられている聖書の預言にもいえる。個人の生涯と活動の中で、立てられたり与えられたりした誓いや約束についての解釈が、考慮されなければならない。

 宇宙空間を通る地球の運行が、いわば、預言された「時」と一つになる今の時代に起きることを、それは示しているのである。

 こうして、魂は、創造主を探し求めてゆく中で、道であり、真理であり、光である主の中に、忍耐が、かつても今も、今後も現れ続けることを知る。

 再び言えば、しるしや兆しの解釈は個人的な経験となる。そして、この人のように、魂の誰もが、同胞との関係の中でこうした活動を生きる機会を、特権を与えられている。示されているものを満たし、成就し、解釈するにあたって、恐怖ではなく希望を、憎しみではなく平和を、破壊ではなく建設的なものを、人々の人生と心と胸に導入する方法をとりなさい。(1602-5)”(レイモンド・ウィレット「世界の運命、未来への警告」中央アート出版社)

 

(スペイン、ガラバンダルの大天使ミカエルが出現した場所)

 

〔大天使聖ミカエルへの祈り〕  (デルコル神父訳)

  大天使聖ミカエルよ。

  戦いにおいて私たちを守り、

  悪魔の凶悪なはかりごとに勝たせてください。

  神が悪魔に命じてくださいますよう、

  伏してお願いします。

  ああ、天軍の総帥よ。

  霊魂をそこなおうとして、

  この世をさまようサタンと他の悪霊たちを、

  神のおん力によって

  地獄に閉じ込めてください。

  アーメン。