コパンのうら
  • 29Dec
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      プリーモ・レーヴィへの旅。

      おいしい和食を食べたシェフ、「ああ、日本人に生まれてよかったあ」とつぶやきました。おそらく「ことば通り」にそう思ってるわけではなく、醤油味、味噌味、出汁を味わった時の「決まり文句」としてそう言っただけなのでしょう。でもわたしのなかのどうしようもない頑なさが、そのことばに敏感に反応します。「そう? わたし、日本人に生まれてよかったって思ったこと、そんなにない」いえ、それも厳密には本音ではありません。その時に読んでいた本『プリーモ・レーヴィへの旅』(徐京植(ソキョンシク)著)に引きずられたせいです、たぶん。でも、わたしはその時こう言ってしまいました。「わたし、和食ももちろん好きだけど、なくても生きていける。和食よりフランス料理のほうが好き。音楽はイギリス、絵画もヨーロッパ、街並みもヨーロッパのほうが好き。でも、ことばだけは日本。日本語が一番好き。日本語の読み書きができるようになれたことについては、日本人に生まれてよかったと思う」『プリーモ・レーヴィへの旅』を書いた徐京植は在日朝鮮人二世の作家です。京都生まれで、母語は日本語。プリーモ・レーヴィはイタリアのトリノで生まれ育ったユダヤ人。アウシュヴィッツから生還した文学者であり、化学者です。解放後、収容所での体験を『これが人間か』という書物にまとめました。「ドイツ人とは何か」「人間とは何か」をずっと問いつづけた彼は、1987年に投身自殺によって命を絶ちました(遺書がない、など異論はあるようですが)。本書で徐京植は、トリノにあるレーヴィの墓、そして自殺現場でもある自宅のあった建物を訪れています。私にとってプリーモ・レーヴィは「人間」の尺度だった。いわば、彼こそがオデュッセウスだった。彼を見よ。人は逆ユートピアを生きのび、帰還して証言することができる。そして「人間」の価値をいっそう普遍的なものに高めるために何ごとかをなすことができるのだ。(本書より抜粋)本書には、もうひとりのアウシュヴィッツ生還者が登場します。ジャン・アメリー、本名ハンス・マイヤー。ウィーン生まれ、文学と哲学の学位を持つ知識人でした。ここに書かれていたレーヴィとアメリーの違いに、わたしはハッとさせられました。レーヴィの母語はイタリア語です。アウシュヴィッツで受けたドイツ語による激しい罵倒、ドイツ人特有の悪意あるブラックユーモアに傷つき怯えながら、レーヴィは暗唱していたダンテの『神曲』に慰めを見いだします。収容所で『神曲』を想起して暗唱しながら、レーヴィはイタリア文化とのつながりを再び手に入れました。頭に刻み込まれているはずの詩句がなかなかよみがえってこないとき、プリーモ・レーヴィは、思い出させてくれるなら命の綱である「今日のスープ」と交換してもいいとすら思ったという。(本書より抜粋)一方、アメリーの母語はドイツ語です。19歳になるまでイディッシュ語の存在すら知らず、自らをユダヤ人と考えていませんでした(それはレーヴィも同様でした)。アメリーはドイツ語の言語学者で、ドイツ語を心から愛していました。たとえばベートーヴェンを思う。そのベートーヴェンをベルリンでフルトヴェングラーが指揮していた。そして大指揮者フルトヴェングラーは第三帝国の名士だった。(中略)アウシュヴィッツでは、孤立したユダヤ人は、ドイツ・ルネサンスの画家デューラーや二十世紀の作曲家マックス・レーガー、バロック詩人のグリューフィウスや今世紀の詩人トラークルもろとも、全ドイツ文化を一人の親衛隊員に譲り渡さなくてはならなかった。(『罪と罰の彼岸』ジャン・アメリー)アメリーは母語であるドイツ語に裏切られ、母語の共同体から追放された。自分に乳を与え、子守唄を唄い、物語を語って聞かせた母親が、ある日突然、お前なんか私の子じゃないといって、自分を殺そうと迫ってくるようなものである。(本書より抜粋)そして、徐京植は言います。私は? 私の母語は日本語である。植民地支配の結果、朝鮮人でありながら在日二世として日本で生まれ育ったために。もしも私がブナ(IGファルベンの強制労働収容所のこと)のような生き地獄に落とされたら、プリーモ・レーヴィのダンテにあたる拠り所が私にあるだろうか。(本書より抜粋)本書を読んでいる間、どういうわけか、わたしはむかしのある出来事を思い出していました。1996年1月19日、パリ郊外のとある町。その町にある大きな講堂で、通っていたパリの学校の卒業試験が行なわれました。朝8時半から3時間の小論文試験、そして午後2時から1時間の筆記試験。わたしは試験そのものと同じくらい、パリ郊外の知らない町で2時間半もの昼休みをどうやって過ごそうか、ということにも頭を悩ませていました。外国人向けにフランス語と経済学の基礎知識を教える学校で、20人ほどのクラスメートは国籍も年齢もてんでバラバラでした。日本人は他に男の子1人と女の子2人がいましたが、彼らは渡仏したばかりの日本人らしいフレッシュな空気を漂わせていて、すでに渡仏5年が経過して薄汚れた空気をまとったわたしには近寄ろうともしませんでした。一緒に時間を過ごす当てのある友人もなく、講堂のある町はがらんと寂しいところで飲食店も数軒しかないと聞いていたので、いっそのことRER (首都圏高速鉄道)で片道30分かけて一旦パリへ戻ろうか、とさえ考えていたほどでした。経緯はよく覚えていません。結果的に、わたしはほかの日本人を除くクラスメートのアジア人女性たちと連れ立って広東料理を食べに行きました。おそらく、比較的よく話をしていた韓国人の女性から誘ってもらったのでしょう。メンバーの出身地は、北京、台湾、香港、シンガポール、韓国(3人)、そして日本(わたし)とバラバラでした。会話は主に試験に関するものでした。午前中の小論文はどうだったか、どのテーマを選んで何を書いたか(4つのテーマから2つ選んで小論文を書きます。わたしが選択したのは「中世から18世紀のフランスの歴史」と「フランスの経済・社会地理学」)、午後の筆記試験には何が出ると思うか、翌週の口頭試験の準備は進んでいるか。卒業したらどうするのか、といった話もしました。北京の女性は大学で教職に就く予定でした。ほかのみんなもそれぞれその後の進路が決まっていて(大半が帰国して就職する予定でした)、決まっていないのはわたしだけでした。食事を終えてもまだたっぷり時間があったので、みんなでカフェに入りました。パリ郊外ならではの昔ながらの小さなカフェで、店内の席がいっぱいだったのでコートとマフラーを着こんでテラス席に座りました。白いプラスチック製のガーデンチェアを移動させて円陣を組み、薄くてぬるいエスプレッソをちびちびとすすりながらみんなでおしゃべりをしました。あの3時間を、なぜか今もたまに思い出します。それぞれに、日々の勉強、試験準備、アルバイトなどで、異国の都会で忙しい日々を送っていたなか、ぽっかり空いた3時間。知らない町で、毎日顔を合わせてはいるけれど、あまり話をしたことがなかったクラスメートたちと一緒に、凍りつくような寒さの中で青空を見上げました。わたしたちはそれぞれの母国で、異なる教育を受け、異なる文化を吸収し、異なる歴史を抱え、異なる伝統を守り、異なる慣習を身につけてきました。でも、目の前の試験に合格したいという共通の目標を抱え、異国で初めて訪れる町で宙ぶらりんの3時間を共に過ごしました。その短い時間、わたしたちは自分たちが抱える文化、歴史、伝統、慣習の呪縛からのがれていたような気がします。そのほんのわずかな時間だけ。これはおそらくわたしだけが感じたのではなかったと思うのですが、わたしたちはつたないフランス語で話をしながら、ふだん他のフランス人やヨーロッパ人と話をしている時より、なぜか気持ちが伝わっている気がしました。誰かが一言二言ことばを発するだけで、全員が「わかる」という顔をして頷いていました。フランスでよくあるように、話の途中で口を挟んだり、話題を急に変えたり、自分の話ばかりしたがる人は、そこには誰もいませんでした。母語ではないフランス語を使って、わたしたちは確かにつながっていました。母語の日本語はおそらく地獄でのわたしの拠り所になるでしょう。でも母語ではないフランス語は、時間と空間を超えた場所で他者とつながる力を与えてくれる。その不思議な感覚は、フランス語の翻訳をしている今も、毎日のように味わっています。以下、新しい訳書です(すみません、最後に宣伝で)。亜紀書房皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。

  • 09Nov
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      小田和正に騙されて。

      いまや聴く音楽は洋楽オンリー(しかもブリティッシュ専門)なわたしですが、いたいけな中学生時代はニューミュージックと呼ばれるジャンルにはまっておりました。ニューミュージック……死語ですね。訳すと「新音楽」。なんのこっちゃ、ですが、wikipediaによると「1970年代から80年代にかけて流行した日本のポピュラー音楽のジャンルのひとつ。フォークソングにロックなどの要素を加え、政治性や生活感を排した新しい音楽」だそうです。好きでしたねー。チューリップ、甲斐バンド、アリス、荒井(松任谷)由美、中島みゆき、松山千春……とくにわたしはオフコースの大ファンで、中学2年生から高校1年生の1学期くらいまで毎日欠かさず聴いていました(全アルバムを所有してました)。1982年にメンバーのひとり、鈴木康博(ギター)さんが脱退してからパタっと聴かなくなりましたが、それはヤス(鈴木)さんが好きだったからというより、ちょうどその頃に洋楽に目覚め、ロンドンに行くことしか考えていないミーハー高校生に変貌、日本の音楽には見向きもしなくなった、という事情からです。あれから40年(!)、その間、なぜかロンドンではなくパリへ行き、のちに熊本へ移住してフランス料理店をやりながらフランス語の翻訳をせっせとするようになるとは、あの頃のわたしにそっと耳打ちしても決して信じてくれないでしょう。人生ってホントわかんない。無計画で行き当たりばったりで生きてるとこうなるんですよ、若い皆さん。でも意外と面白かったですよ、RPGのようで。閑話休題。さて、そうやって「そんなきみもいずれは演歌とか聴くようになるんだよ」と歳上の人たちに言われつつ(内心「絶対ない」と思いつつ「かもですね~」とへらへら笑ってましたが)、いまだにブリティッシュ専門でパンクとかポストパンクとかエレクトロとかばっかり聴いている、高校生で成長がパッタリ停止したわたしですが、年に一度ほど、突然無性にオフコースが聴きたくなる「オフコース期」がやってきます。ちょうど今、前触れもなくその時期が訪れたところですが、今回、聴いていてしみじみ思いました。世間知らずで多感な14~16歳当時、たった3年間といえど初めて夢中になった対象だったせいか(近くに小田さんのご実家(小田薬局)があったのでそこで売られてるグッズもやたら買いましたし、写真集も持ってました。30代のおっさん5人がゴルフに興じる写真をうっとり眺めている15歳……)、オフコース成分は細胞レベルでわたしの内部に染みついているようです。とりわけ、男性像。そう、わたしには男兄弟がおらず(3人姉妹の長女)、父親は単身赴任でほぼうちにいなかったため、身近な男といえば学校の同級生のみ。でもふだんの話し相手はたいていは女子だったので、男子、および男性のメンタリティはほぼ謎に包まれていました。そんななかで、小田さんの歌詞に現れる男性像を、まるで乾いたスポンジが水を吸収するかのごとくに吸収していったのです。たとえばこんな。何も聞かないで。何も、何も見ないで。きみを悲しませるもの、何も、何も見ないで。(Yes-No)ここへおいで。くじけた夢をすべてその手に抱えたままで。(愛を止めないで)ぼくの行くところへあなたを連れてゆくよ。手を離さないで。(YES-YES-YES)愛したのは確かにきみだけ。そのままのきみだけ。(さよなら)誰もあなたの代わりになれはしないから。あなたのままそこにいればいいから。(I LOVE YOU)ほらねー、こういう甘いセリフをさー、ちょっと絶叫気味に、せつなげに歌っちゃうんですよー。何もかも許してくれる、しっかり抱き止めてくれる、どこかへさらってくれる気がしちゃうでしょう?そう、15歳のわたしはね、小田和正にすっかり騙されたんです。やばい、小田さんのあれは嘘だ。そんな男性はどこにもいない。誰もわたしを許してはくれないし、しっかり抱き止めてもくれないし、ましてやどこかへさらってもくれやしない、と気づいたのはいつだったか。……え? そういう男性だっていないわけじゃない? あ、そう? じゃあ、わたしのせいか。ま、そんな気もしてたけどね(←負け惜しみ)。そういう一途で包容力のある男性像のほかに、もうひとつ。誰にもぼくの行く道を止められない。そうだろう、行かせてほしい。きみはきみの歌うたえ。ぼくはこの思いを調べにのせて。(思いのままに)何を見ても何をしてもぼくはぼくのことばでする。やりたいこともやるべきことも今ぼくのなかでひとつになる。(中略)今こそ焦らないで、今まだ語るな今ならまだ戻れる、今なら間に合う。心はどこにある。心は、心は。(決して彼等のようではなく)恋愛を語っていないこの2曲、当時からとても好きでしたが、今聴くと歌詞がしみます(YouTubeを貼りつけようとしたら再生不可だったので断念しました)。中学生のわたしに「生き方」を教えてくれたオトナの声として、当時すごく影響を受けた気がします。中学生のわたしは、小田和正に騙されて、小田和正に教えられてきました。たぶん。生きるのってホントに大変だし、孤独だし、嫌になるけど、わたしはずっと音楽に救われてきました。救ってくれる何か、どんなときも前を向ける何かが、誰にでもありますように。

  • 25Sep
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      さいきんの出来事。

      うちのお店は4店舗の長屋造りの建物のテナントです。うちはこの建物ができた18年前からずっとここにありますが、ほかの3店舗はいずれも2~5回くらい入れ替わっています。最近、新たに建築会社さんが入りました。しかも、うちを除く3店舗すべてを一気に借りられたようです(それぞれ別の用途で)。以来、静かで出入りが少なかったテナントが一転、人と車の行き来が頻繁になり、かなり賑やかになりました。大きなトラック、パンチの効いた(笑)自家用車(白くて大きなレクサス、黒いベンツ、8888ナンバー車など)が出たり入ったり、やや強面のマッチョ系の男性たちが行き交うようになり、うちの常連のお客さまたちは「な、なんか、すごいですね……」と苦笑い。週末には経営者と従業員の子供たちが集まることも多く、うちの営業時間中に駐車場を奇声を上げて遊びまわられた時には、さすがに「あのう、すみませんけど……」と、お願いをしに行きました(一度ではなく数回)。小学生の子どもたちが、うちの店のドアをバンッと叩いてから「わーっ」と笑いながら逃げていく、いわゆる「ピンポンダッシュ」的な遊びを始めた時には、「前途多難」と頭を抱えました。従業員の多くのかたが喫煙者でいらっしゃるようで、うちの店の隣に喫煙所を設けられた時は、コロナ対策でドアを開けておくと店内にまで匂いが充満し、お客さまに「すみません、匂い、気になりますよね……」と頭を下げて回りました。「ほかに何も入ってなかったのに、一気に埋まったんですね」と、お客さま。「はい、実は3軒とも同じかたたちなんですよ。そのうち、うちも追い出されちゃったりして、あはは」「えーーー、そんなこと言わないでくださいよー」……と、常連さんたちと冗談とも本気ともつかない会話を交わしたりもしました。ところが、次第に「気持ちのよい人たちだな」と思うことが増えていったのです。こまめに外の草刈りやそうじをされるのですが、そういう時は自分たちのところだけでなくうちのまわりもしてくださいます。朝晩、すれ違うと誰もが「おはようございます」「お疲れさまです」ときちんと挨拶をしてくださいます(しかもたいていは、わたしよりも相手のほうが早く気づいてくださる)。駐車場がいっぱいでうちのお客さまの車が停められなくなり、トラックの前に停めさせてもらっていいか尋ねに行くと、「あ、どかします!」と、きびきびと対応してくださいます。喫煙所もいつの間に一番離れたところに移動してくださって、匂いが気にならなくなりました。最近はずっと、うちの営業時間中はなるべく駐車スペースを空けてくださるよう気を使ってくださいます。子どもたちが駐車場で遊びまわることもなくなりました(たぶん、注意してくださったんでしょう)。そして、極めつきの出来事が。ある日のランチタイムの営業中。ガラス張りの入口ドアの向こうに、小学3年生くらいの少年が立っているのに気づきました。わたし「どうしたの?」少年「……ここってさぁ~、何の店なのぉ~?」店の奥を覗き見るようにして顔をキョロキョロさせ、落ち着きがありません。店内は満席で(といってもコロナ禍なのでスペースは空いてますが)、皆さん、静かに楽しく食事を楽しまれています。わたしはなんとなく本能的に(?)少年が中を覗き込めないよう、ドアを細くして正面に立ちはだかりました。わたし「ここはね、フランス料理店なの」少年「……あのさぁ~」少年はなぜかもじもじしています。わたしの顔を見ずに視線をキョロキョロさせ、落ち着かないようすです。隣の子かしら……見たことがない顔だけど、とわたしは内心思いました。少年「ぼくたちさぁ、公園でボールで遊んでたんだけどさぁ、それでねぇ、そのボールがねぇ、柵の反対側に転がっていってぇー、追いかけたんだけどぉー、ぼくたちは子どもだから届かなくてぇー、でもさぁ、おとななら届くんじゃないかと思うんだけどぉー」……というようなことを、もじもじしたり、言いよどんだり、つっかえたりしながら、ゆっくり長々と訴えます。わたしはじりじりとそれを聞きながら「ええと、この後はシェフの盛り付けを手伝って、こっちのテーブルのお皿を下げて、あっちのテーブルのコーヒーの準備をして、そっちのテーブルの計算もしておかないと」と、考えていました。「ごめんね。今しごと中だからここを離れられないの」「ボールを取ってほしい」という要求をようやく言い終えた少年に対し、わたしは無情にもそう言い放つと、もう一度「ごめんね」と言いながらピシャリとドアを閉めました。テーブルのお皿を下げながら厨房に戻りつつ、「ちょっと冷たかったかな」と反省。ふと、前の公園が市役所の都市計画課の管理下に置かれていることを思い出し、「市役所にお願いすればどうにかしてくれるかも」と思いました。そこで、「市役所に電話してあげる」と言うために、シェフに「ちょっとごめん」と言って再び外へ。少年は建築会社の2軒先のドアの前にいました。その時、ドアの影でわたしからは見えないところにいる人が、明るい声でこう言い放つのが聞こえてきました。「っしゃあ、まかせとけ!」そして、嬉しそうに小躍りする少年に導かれて、マッチョ系の若い男性が公園に向かっていったのです。……惚れるわ。げー、めっちゃかっこいいじゃんっ、と思いながら、なんだか、いろいろと激しい自己嫌悪に陥ったのでした。思えば、少年があれだけもじもじしてたのは、黒いマスクをかけた(コロナだから)白髪のおばさん(おばあさん?)がにらみつけてくる(そのつもりはなかったのですが)から怯えてたのかも。今生では今さらたぶん無理だから、生まれ変わったらああいう気持ちのよい人間になりたいものだ、と心の底から思ったのでした。ということで、うちの隣人さんたちはちょっと強面(?)かもしれませんが、すごくいいかたたちです。わたしなんかよりはるかに。ですので、どうぞ安心してご来店ください。最後にちょこっと宣伝。7月に刊行された訳書です。アマゾンで買うhontoで買う楽天ブックスで買う

  • 17May
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      片付けないと外に出られない症候群(?)

      「片付けられない症候群」はよく聞きますが、「片付けないと外に出られない症候群」はないのでしょうか。ネットで調べました。……うーむ、どうやらないようですね。20代のころからずっとそうなのです。なので、それがふつうだとずっと思いこんでましたが、たぶん違うんですよね? わたしのなかでは、すべてのものに「あるべき場所」が決まっていて、それがその場所にないと気持ちが悪いのです。クッションは居間の左の壁際、テーブルは壁から20cmくらい、椅子はすべてまっすぐに引かれていないといけない。朝どんなに寝坊しても、あと1分で家を出ないと大事な用事に間に合わなくても、ベッドメイキングをはじめ、メイク用品、洗濯物、タオル、歯ブラシ、食器、扇風機やファンヒーターの位置や角度まで、わたし的な「あるべき場所」にないと気持ちが悪くて外に出られないのです。あ、でもこれって「きれい好き」とは違うんですよ。汚れや埃はそれほどでもなくて、ガラス拭きとか、ラグの下の掃除機がけとか、靴箱の整理整頓とか、ちょっとめんどくさいことは「ま、いっか」で済ませてしまう。でもとにかく「場所」にはこだわる。え、靴箱の整頓は「場所」じゃないのかって? そうでしょ? そう思うでしょ? でもですね、とりあえず靴箱に入れたらそれで「よし」なんです。ええ、都合がいいんですよ、この「片付けないと外に出られない症候群」。だから「きれい好き」ではないんです。これって、パラノイア(偏執)的ってことかしら? それで思いだすのが、パラノとスキゾ……精神医学上の用語から派生して、哲学的な意味で使われて大流行したのが1980年代。ああ、なつかしい。ドゥルーズとガタリ、そして浅田彰。1980年代、半ミーハー女、半サブカルクソ女だった20代前半のわたしは、ボディコンやら合コンやらスキーやらゴルフやらクリスマスやらバブリーで華やかでキラキラした男女の皆さんを眩しく見上げつつ、かといって大衆的なものを忌み嫌ってどことなく精神的・哲学的な深淵さを秘めた(ように見えた)アングラ・オルタナな本物のサブカル男女諸君に意味不明の敗北感を抱いていたという……実に中途半端な立ち位置にいたせいか(前置きが長くてすみません)、パラノとスキゾについても用語だけは知ってて実はよくわかっていなかった、というていたらく。●パラノ(パラノイア):偏執的、定住する、一途、頑固、協調性がある、家族愛がある、一貫性がある、経歴や社会的役割を大切にする、自分のアイデンティティにこだわる、わかりやすい。●スキゾ(スキゾフレニア):分裂的、ノマド的、一匹狼、気分屋、運まかせ、直観的、自由奔放、軽薄、過去の蓄積を簡単に捨てられる、あらゆる価値を尊重する、わかりにくい。あくまで、精神医学的な分類ではなく、哲学的なイメージです。たぶん、ひとはみなどちらの要素も持ち合わせているのだと思いますが、どの程度の割合でどちら寄りで生きるのがもっとも居心地がよいか、というのはひとによって(あるいは国や社会や時代によって?)異なるのではないかと思います。たとえばわたしは、スキゾでありたいともがくのをいつまで経ってもやめられず、かといってそれなりの年齢を重ねてきてパラノ的価値観のありがたみを身にしみて知ってしまったという……うーん、80年代から中途半端なのだけはずっと一貫してるな。あ、そうそう、「片付けないと外に出られない症候群」でした。なんでこんなことを急に思ったのかと言うと、もしもですよ、もしも万一外出先で不慮の事故にあってわたしが急死したとしても、家に入った人は「へえ、きれいに片付いてるんだな」と思ってくれるんだろうな、とふと思ったのです。ただ、その不慮の死(という妄想をさいきんよくするのですが、他意はないので気にしないでください)によって気になることがふたつ。ひとつは、手元のCDコレクションはそれなりに趣味がわかる人に寄贈していただきたい、ということ。お願いだから燃えないゴミの日やブックオフはやめてください(あ、本はブックオフでいいです。わたしは読み方が汚いし、文庫本が多いし)。やめてね、わたしの遺族。もうひとつは、サブスク類。契約者が亡くなった後のサブスク解除に遺族が苦労するケースが相次いでるんですってね、さいきん。とくにうちのシェフは完全なアナログ人間。もしわたしに先立たれた日には、お店の経理ソフト(クラウドサービスのサブスク)から、マイクロソフト(同じくクラウドのサブスク)、AppleのiTunes Match(サブスク)、ネトフリ(サブスク)など、いったいどうやって解除すればよいのでしょう? どうやらシェフ、そういう問題をテーマにしたテレビのドキュメンタリー番組を観たらしく、さいきんは毎日のように「頼むからサブスク解除方法の遺書を書いておいてくれ」と懇願されています。え、死ぬの? わたし、あなたより先に死ぬの?ちなみに「片付けないと外に出られない症候群」については、シェフもそこそこ同様の傾向があるので(わたしほどではないにしても)その点についてお互いにイライラすることはありません。つまり、「片付けて」「いやだめんどくさい」とかいうやりとりは皆無です。実は、ずっとそれが当たり前だと思っていて、これを書いてて初めて気づいたのですけどね。そんなわけで、ソニックユースの「スキゾフレニア」を(実はこれが聴きたかった)。バラももう終わって、もうアジサイの季節ですね。

  • 10May
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      植物がいれば大丈夫。

      地球の歴史上、5回の大量絶滅期があったとされてます。通称「ビッグファイブ」と呼ばれています。古生代のおよそ4億4500万年前には生物種の85%が絶滅しました。同じく古生代の3億7400万年前には生物種の82%が絶滅しました。どちらも気候変動が原因とされています。古生代後期の2億5100万年前、いわゆる「P-T境界」には、地球史上最大の大量絶滅が起きています。三葉虫や床板サンゴを含む、生物種の95%が絶滅しました。大陸同士が衝突しあって超大陸パンゲアが形成され、大気中と海水中の酸素濃度が著しく低下したことが原因とされています。中生代の2億年前には生物種の76%が絶滅しました。超大陸パンゲアが分裂したことが原因と考えられています。5回目の大量絶滅期(K-Pg境界)は6600万年前に発生しました(こうして見てみると、1回目に比べて最近のように思えてきますね)。恐竜とアンモナイトを含む、生物種の70%が絶滅しました。メキシコ南東部のユカタン半島に巨大隕石が落ちたことが原因とされ、この絶滅期は1000万年間も続いたとされています。そして、現在、わたしたちは6回目の大量絶滅期の真っ只中にいます。今回の原因は人類です。人類は地球環境を破壊し、気候変動に大きな影響を与え、有害物質を大量に作りだし、多くの種を絶滅させつづけています。今のところ、規模としては最大とは言えませんが、スピードでは過去の5回に比べてダントツのトップです。K-Pg境界の10万倍の速さで種の絶滅が起きています。このままもし前回のように1000万年も絶滅期が続いたら、地球は火星のように不毛の星になってしまいます。なんでこんなことを書いてるのかというと、わたしは過去に翻訳のしごとで3回「ビッグファイブ」を説明する文章を書いています。そのせいで、上の情報はいまやほとんど空で覚えてしまいました。地球が誕生したのは46億年前、生物が最初に海から陸に上がったのがおよそ4億4000万年前です。5回の大量絶滅期を除くと、生物種は少しずつ増えてきました。46億年かけて、地球はさまざまな生物が共存する豊かな星に成長してきました。それをたった数百年で破壊しつくそうとしているのが人類です。ただ、人類はバカなので、自分たちの破壊行為が自らの首を絞めていることにずっと気づきませんでした。気づいてからも、目先の快楽に溺れて破壊行為をやめられなくなっています。自業自得だよなあ、と思います。わたしは宿命論者ではないですが(たぶん)、人類の智をほとんど信用していないのかもしれません。わたしが信じているのは、地球、そして植物です。きっと地球は大丈夫。人類のひとつやふたつ、どんなに大量絶滅を起こそうが、そのせいで自分たちが絶滅しようが、地球はたぶん大丈夫。そして、きっと植物も大丈夫。地球が再び静けさに包まれても、植物たちは成長し、地表のあらゆる場所に繁栄しつづけるでしょう。先日、こういう訳書を出しました。amazonで買うけっこうこむずかしい哲学書です。今までの訳書で一番苦労しました。一読しただけだと何を言っているのかさっぱりわからないので、多くの資料にあたり、何度も繰り返し読んで、何度もその意味を咀嚼して、自分の脳内でどうにかしてイメージを作りあげてから文章にしました。すごく時間がかかりました。いくつか、とても好きな文章があります。たとえば、こんな箇所。もしも、動かない、感情がない、自給自足している植物の生命を基準とするなら、自分勝手に動きまわったり、感情を抱いて苦しんだりするのは「病気」とみなされるのではないだろうか? このような生命を生きている個体は、自らの限りある生命、本質的な壊れやすさを知っているがゆえに、つねに脅えながら生きざるをえないのではないか?(中略)ドイツの哲学者、フリードリヒ・ヘーゲルは言う。「生物は、動物のレベルになって初めて〈不安、恐れ、不幸せ〉という感情を抱くようになった。ほとんど未知のものしかない外の世界に脅かされる存在になったのだ」こうして動物は、外の世界につねに立ち向かわなくてはならなくなった。一カ所にとどまっている植物にはそうしたこととは無縁だ。植物にとっての生きる戦略は、環境に順応し、その環境に強いられたものを受け入れるだけだ。さまざまな困難にぶつかっても、植物が敗れることはめったにない。あっても一時的にすぎない。自分自身の残骸からまた復活できるからだ。あるいは、こんな箇所。哲学者のルノー・バルバラスによると、「物質代謝という概念を構築するときの手本とされたのは(中略)植物であることはほぼ間違いない」という。「ハンス・ヨナスにとって、植物は生物の手本であり(中略)、動物は、植物に運動機能、知覚機能、感情をつけ加えたものにすぎない。ヨナスによると、運動、知覚、感情は、植物のように無機栄養吸収と光合成ができない動物に対して「不足するもの」を補うためにつけ加えられたのだという。マックス・シェーラー もこう述べている。「植物はすべての生物のうちでもっとも偉大な化学者だ。(中略)自分だけの力で、無機物だけを使って、有機体としての自らを成長させる要素を作りだしているのだから」植物は、ずっとわたしにとって心癒される存在でした。でも今はむしろ、その姿に背筋を伸ばす思いです。どんなに鬱屈とした気持ちになっても、すくすくと成長する植物たちを見ていると、植物は大丈夫、地球は大丈夫、だから何が起きても「最悪の事態」にはならない、と思います。生命さえ消えてしまわなければ、きっとやり直せる。たとえ何億年かかってでも。「精神的な生命」は一枚岩ではなく、その本質的な特徴は壊れやすさにある。行動の自由は、精神のバランスの崩れやすさとセットになっており、そのことは「精神的な生命」を持つ存在がどれほど「自然」から遠いところにあるかを示している。自然から遠く離れてしまった人間は、でもやはり自然にはかなわないことを思い知らされます。とくに、たった一日でみるみる緑が成長していく今の季節には。今年はあと4冊翻訳を手がける予定です。そんなこんなでなかなかブログが書けないのですが、今日みたいにちょっぴり余裕ができた日に、また。みなさま、お元気で。

  • 16Feb
    • 本が読めない。の画像

      本が読めない。

      書評家の岡崎武志氏は「『本を読む時間がない』というのはウソ」と言いました。読もうと思えば、電車の中、トイレ、風呂、待ち合わせで人待ちをする間など、5分でも10分でもいいから読めるはずだ、と。ええ、わたしも少し前なら迷わず同意していたでしょう。でも、今回ばかりは本当に読めないんです。読めなくなって一年とちょっとが経ちます。長い。長すぎる。いえね、新書一冊くらいならパラッと読めますよ……というのは新書に失礼かもしれませんね、すみません。でも新書のおかげでかろうじて「読書」とつながっていられるので感謝してるんですよ、新書。とにかく、じっくり腰を据えて、コツコツと、ゴリゴリと、長編小説やら、堅めのエッセイやらに向き合ったり、テーマを決めて関連書を次々と読破したり(以前やった「フランス革命」とか「ナチス」のように)、といったことはできない。物理的、そして、精神的にも。さてここで、おそらくほとんどの方には何の興味も関心もないでしょうが、ざっと今のわたしの一日のスケジュールを。9:00 起床 10:00 出勤12:00 開店(ランチ)15:00頃 閉店15:00 昼まかない15:30 翻訳17:30 開店準備18:00 開店(ディナー)21:30頃 閉店22:00 帰宅22:30 夕食23:00 翻訳4:00 就寝お店の混み具合によって多少時間が前後したり、雑用が入ったりすることもありますが、ほぼこんな感じです。毎日毎日、判を押したように変わらぬ日々。まあ、そのこと自体は16年前、お店をオープンした時から変わらないのですが、この一年ほどで何が大きく変わったかというと、やはり翻訳の込み具合。つまり、それによって物理的な時間がない、というのがひとつです(睡眠時間も2時間短くなりました)。翻訳。ええ、好きでやらせてもらってるお仕事ですとも。愚痴なんか言ったらバチが当たります。お仕事を頂けることはありがたく、とても幸運なことで、お世話になっている関係者の皆さま、読者の皆さまには心から感謝をしています。ええ、これだけは、誤解されると困るので前もってきっちり申し上げておきますが。数年前、お世話になっている翻訳会社のおふたり(女性と男性、そしてどちらもご自身が翻訳家)から「コパマネさん、翻訳の作業は楽しい人? 苦しい人?」と尋ねられて、「苦しいです」と即答したことがあります(お仕事下さってる方たちにこんな返事をするのもどうかと思いますが)。するとおふたりとも「やっぱりー? わたしたちもー」とちょっと嬉しそうにおっしゃいました。社内には「翻訳の仕事が楽しくて楽しくてしかたがない」という翻訳者さんもいらっしゃるそうで、「えー、うらやましい」と、わたしも羨望と感嘆の声を上げたものです。そういう方たちって何なんでしょう、天職なんでしょうね、天才なのかも? ああ、本当にうらやましいです。ええと、「翻訳はものすごく深い読書」と言ったのは誰だったでしょうか。もうね、吐きたくなるほどそのとおりです。これは同意してくださる方はきっと多いと思うのですが、わたしは読んだ本の内容を活字ではなく映像として記憶します。だから、たとえば一年くらい前に読んだ本など、たとえどんなに感銘を受けたものであっても、思い出すのはそこに「何が書かれていたか」ではなく「何を見たか」。そのせいで、たとえばある物語のあらすじをどこかで読むと「あ、これ知ってる、映画で観た。あれ、違ったかな、本で読んだんだっけ?」と、本を読んだか映画を観たか、どちらかわからなくなることがしょっちゅう(本当にしょっちゅう)あります。実は、「記憶」だけじゃなくて、文章を読む時の「理解」も映像に頼ってます。だから、翻訳をしている時も、フランス語で読んだ文章を一旦脳内で映像にして、その映像を日本語にしています。なので、その映像がクリアに作れないと日本語にできない。翻訳を始めた当初は、その映像に「あいまい」なところがあっても、なんとなく日本語にしちゃってたんですね(いいのか?)。それはたぶん、日本語で読んでいる時の映像の作りかたがそうだから。すべての映像がクリアでなくても、日本語で読書をするぶんには問題がない。多少わからないところがあって読み飛ばしてしまっても、全体の理解にはほとんど影響がない。でも、翻訳の場合、一字一句に対してクリアな映像を作らないといけません。いや、でもそれでは仕事にならないので、とりあえず「あいまい」なところは残しながら前へ進めていって、一段落、一章、一部、一冊ごとにその「あいまい」な個所に戻ってきては、全体から推測してその部分の画像の解像度を上げていく。あるいは、ネットや書籍で収集した情報によって欠けた画像を補ったりする。または、作者のバックグラウンドを徹底的に洗ってヒントを見つける。それでもどうしてもわからなかったら、その一行なり、一語なりをじーーーっと何十分も、一時間でも見つめつづける。その部分をくり返し音読する。そうするとですね、なんとまあ、不思議なことにわかってくるんですよ、だんだん。作者がどういう心理の流れでその段落の文章を作っていったか。その一語、その単語を、ほかの単語ではなくてどうしてその単語を選んだか、どうしてそういう言い回しをしたか、が。その瞬間、ブラウン管の粗い映像がクリアな4Kになる。で、ようやくきちんとした日本語として書けるようになるんです。だから「翻訳はものすごく深い読書」なんです。遠藤周作は「読書のたのしみのひとつは、私にとってこの他人の人生を生きること、他人になれる悦び」と言いました。それと同じように、翻訳をしている時、わたしは著者自身になります。でも、他人になるのはすごく疲れます。だから、トイレに入ってる5分、こうしてブログを書いてる時間でも「せっかくだから別の本を読もうか」という気になれないのは、物理的に時間がないのに加えて、精神的にできないからなんです。本当はですね、また「ナチス」関連の本をゴリゴリ読んだりしたいんですよ(しかしわたしはなぜそんなに「ナチス」関連の本を読みたいのか、我ながら)。あ、どなたか、わたしにナチス関連の翻訳をくださいませんかね? ただしドイツ語じゃなくてフランス語オンリーですが。というわけで、他の多くの本に混じって、年末に買ったこちらの本も積ん読状態……。早く読みたい。今年は先の予定がけっこう決まっていて、10月までこの状態が続きます。長い。……がんばります。あ、お店の仕事が余計に圧迫してるのでは? と心配してくださる方がたまにいらっしゃいますが、とんでもない、真逆です。お店でお客さまと接する時間がわたしの精神安定剤です。たぶん、お店がなかったらわたしは翻訳は続けられなかったでしょう。

  • 05Jan
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      最後のクエスト。

      そういや、何のために生きてきたんだっけ? 最初に思いだすのは中学のころ。もう生きていたくないなあと思ったとき、何のために生きるんだろうと考えて、「幸せになるためだ」と強く思ったときのこと。たくさんのひとに嫌われ、さげすまれ、「こんなふうに嫌われるなんて、自分はよっぽど人間として劣っているんだなあ、生きている資格なんかないのかも、生きていてもまわりに迷惑をかけるだけかもしれない」と、思ったあのころ。でも、とある時思いなおしたのです。ここじゃないどこか別の場所なら、わたしも嫌われずに生きていけるのかもしれない。今がゼロだと思って、プラスになれる場所を探してみてもよいのでは? 死ぬのはそれからでも遅くないのでは? ゼロからプラスへ……でも、何を目標にしたらいい? お金持ちになること? 社会で成功すること? たくさんのひとに好かれること?……うーん、よくわからないけど、いいや、とにかく、幸せになろう。幸せになるために、何をしたらいいのかよくわからないけれど、それを目標にして生きてみよう。……わたしにとっての「生きる意味」のベースはそのときに作られました。で、その後のわたしは「幸せになるために」やりたくないことはやらない、やりたいことは(社会的・倫理的に許される限り)何でもやるという、超わがままな人間になってしまいました(←我ながら呆れるほど極端な性格)。次に思いだすのは、10代後半か20代前半のころ。これも強く思ったのでよく覚えています。「人生はゲームだ」と。人生では、常に選択を迫られます。Aを選ぶか、Bを選ぶか。わたしの目標は「幸せになること」ですが、そのためにはどっちを選ぶのが正解なのか、事前にはわからない。でも選択しなくてはならない、今すぐに。迷っている時間はない。ええい、わからないなら、感覚で選んじゃえ! 自分の直感で選ぶ。もし間違っていたらまたやり直せばいい。すごろくのように。どうせゲームなんだから楽しもう。間違ったってかまわないから。……以来、わたしは、直感だけを頼りに生きてきました。人生設計なんて一度も立てたことがありません(←いばるな)。目の前に突きつけられた選択肢を五感だけを頼りに選び、選んだ道から転がり落ちないようにするだけで精一杯でした。今思えば、何度も「行きどまり」や「元に戻る」というコマにぶつかって(すごろくのイメージです)、やり直しを余儀なくされてきました。別の尺度から見たら「遠回り」や「不器用」と言われる人生だったかもしれません。でも、わたしは「人生はゲームだ」と決めたとき、ルールをひとつ決めていました。それは「後悔しないこと」。何を選んでも、その道が途中で「行きどまり」になっても、後悔はしない。その過程を楽しむのが「ゲーム」だから。そして、いつの間にか、もう確信していたのです。どんな道を通っても、必ずわたしは最後は幸せになれる、と。勝つことを確信したゲーム。では、結局、わたしにとっての「幸せ」とは何だったのか。それは、はるかむかしの決意を実現させることだったのかもしれません。20代のころ、いつか言えるようになりたい、と思っていたことばがいくつかありました。いつか、ある程度の人生経験を積んだあとに、負け惜しみではなく言えるようになりたい、と。「どこででも生きていける」「職業に貴賎なし」「髪型や服装や趣味と人間性は関係ない」本当に鼻で笑えるほどくだらないことですが、もしかしたら、わたしはそれだけのために生きてきたのかもしれません。ずっと、自由になりたかった。型にはまりたくなかった。見た目だけで他人から人間性を評価されたり、変なコンプレックスに悩まされたりしたくなかった。そして、もし目の前に、若いころのわたしと同じような生きづらさを感じてるひとが現れたら、勇気づけられる人間になりたかった。でも、なんか、もういいかなあ。もう、いつゲームオーバーになっても後悔はないかなあ。でもなあ、今目の前に、想定外の最大の難関が現れたからなあ。この30年ほどで、わたしのなかの「人生」というゲームは「すごろく」から「RPG」へとアップデートしてるのですが、このクエストに挑まずにゲームオーバーするのも癪だよなあ。よし、もう少し頑張ってみましょうか。写真は、最後に遠出したときの空。昨年の10月。今度はいつ遠出できるかしら。

  • 22Dec
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      バラの一生。

      カウイウモノニ ワタシハナリタイ。12日目。10日目。9日目。8日目。7日目。6日目。4日目。3日目。1日目。

  • 03Nov
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      妄想のなかのふたりの青年。

      すっかり秋らしくなりました。皆さま、いかがおすごしでしょうか。さて、わたしは妄想が趣味なのですが、さいきんはなかなか妄想している時間がとれません。寝る前とかどう? と、思われるかもしれませんが、毎晩、布団に入って30秒後の記憶がないんです。寝つきがあまりによすぎて、麻酔を注入されたか、気絶してるかのレベル。ただし、月に数回、通院やヘアカットなどのためにひとりでバスで出かける時、バスのなかこそが格好の妄想タイムになります。熊本市内までの約一時間、車窓を眺め、音楽を聴きながら、妄想の旅に出るのです。わたしの妄想には、よくふたりの青年が登場します。舞台は1940年代のベルリンです(この舞台の妄想は数十回目)。オレはカッコイイもの、クールなものが好きだ。SSの制服を初めて見た時から、自分も絶対にあれを着る、と誓った。総統もクールだ。ことばの選びかた、口調、表情、しぐさ。すべてにエッジが効いている。総統が好むファッション、アート、デザイン、音楽、すべてがオレ好みだ。アウトバーン、フォルクスワーゲン、V2ロケット。実用的、かつ、シンプルで美しいフォルム。総統は、オレたちアーリア人にふさわしい文化をすべて教えてくれた。総統はベジタリアンで、酒も飲まず、贅沢もしない。アーリア人の未来を守るためにすべてを投げ打って戦っている。オレたちの平和と美を蝕むものたちを駆逐するために。クールだ。ぼくは活字中毒だ。図書館や書店にいるのが何よりも楽しい。学校でも、休み時間や放課後、日当たりのよいところでひとり本を読むのが大好きだ。子どもの頃、親からは「本ばかり読んで」と叱られていた。本を読んでいる時だけは、すべてを忘れてその世界に没入できる。本を読んでさえいれば、ぼくは何者にもなれる。どこへでも行ける。ぼくは自由だ。本の中には自由がある。ぼくの夢は、フランスに留学することだ。ドイツ文学もいいけれど、やっぱりぼくはフランス文学が好きだ。スタンダール、バルザック、ユゴー、ボードレール、ランボー……。フランス語を勉強し、原書でたくさんのフランス文学を読みたい。将来は、フランス語の翻訳家になりたいんだ。ドイツ人に、もっとフランスの本をたくさん読んでもらいたい。なんてことだ。こんなはずじゃなかった。ちがう、こんなのはちっともクールなんかじゃない。ここは血と汚物と反吐の匂いがする。あたりいったいに腐敗臭が染みついている。正義ってなんなんだ。自分たちの民族に誇りを持つこととこんな行為とに、いったい何の関係があるんだよ。カッコよくなること、強くなることはオレの憧れだったが、こんなことは、たぶん、おそらく、きっと間違っている。オレの中の何かがそう叫びつづけている。だが、もう遅い。遅すぎる。意識が遠のいていく。骨が透けそうなほどやせた自分の手を見て、一瞬、これはなんだろう、と思ったことに苦笑する。そして、まだ目が見えていることにかすかに驚く。そこにいるSSはぼくと同じくらいの年頃だろうか。金髪で、キレイな顔をして、糊の効いた制服をビシッと着て、背筋を伸ばしてこちらを見下ろしている。『赤と黒』のジュリアン・ソレルはこんな顔だったのかもしれない。暗い表情だ。気色悪いとでも思っているんだろうか。まあいい、人間扱いされないのは慣れてしまった。なんだ、あの目、こちらを憐れんでいる? まさか。こんな世の中でなければ、あの男と友人になることもあったのだろうか。いや、バカげた妄想だ。ああ、結局、パリには一度も行けなかったな。かつて、西ベルリンが壁に囲まれていた時代、数回あの街を訪れました。フランクフルト・マイン駅から夜行列車に乗ると、朝4時すぎにベルリン・ツオー駅に到着します。わたしは、ベルリンで過ごす時間以上に、その夜行列車に乗っている時間を大切にしていました。西ドイツ圏内を走っているうちは数カ所の駅で停車しますが、いったん国境を越えて東ドイツに入ると、列車は何時間も、一度も停車することなく闇の中を進みます。ちなみに、当時の西ベルリンの位置については以下の地図を参照してください。今の若いかたたちには、ベルリンは東ドイツと西ドイツの境界にあったと勘違いされているかたが多いようですが、ベルリンは東ドイツの真ん中にぽつんとありました。夜行列車なので、車内も照明を落としてあり、乗客たちもみな礼儀正しく静かです。いつもそれほど混み合っておらず、コンパートメントに一人きりのこともありました。アナウンスもほとんどなく、カタンカタンという規則正しい音だけを響かせて、列車は最終目的地まで淡々とわたしたちを運びます。外の景色もほとんどが真っ暗でしたが、小さな街を通りすぎることもありました。淡くて弱々しい街灯のもと、簡素で画一的な家々が規則正しく並び、こじんまりした庭先に旧式の小さな車が停まっています。まるでミニチュアのような街並み。ヨーロッパのどの国とも違う、未知の世界。窓の外に広がるのは、過去なのか、未来なのか、それとも別の世界なのか。西側の旅行者にとっては、よほどのことがない限り訪れることのできない世界。わたしは一睡もせずに、食い入るように車窓を眺めていました。誰か、人間が現れて、こちらを見てくれないか、わたしと目を合わせてくれないか、と思いながら。でも、不思議なことに、その列車の窓から人間の姿を見たことは一度もありませんでした。そして妄想するのです。ここはどこなんだろう。わたしたちは、どこへ向かっているのだろう。ひっそりと、誰の目にもつかないように、二度と帰れないどこかへ移送されているのではないだろうか。時間が止まった街、深く傷ついた街、閉じこめられた街、どこへ向かうこともできない街、闇夜に浮かぶちっぽけな星のような街。当時のベルリンは、10代後半のわたしにとって唯一ホッとできる場所でした。あの頃、わたしをベルリンに呼んだのが、ふたりのうちどちらの青年の声だったのか、今もよくわかりません。もしかしたら、それを探すためにわたしは生きているのかな、と思うことが、たまにあります。ごくたまに、ですけれど。二冊、訳書が出ます(出ました)。amazonで買う。amazonで買う。あと三冊……またしばらく妄想はおあずけです(たぶん、ブログも)。

  • 15Sep
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      悲しみよ、こんにちは。

      よく晴れた秋の日の午後、定期検診のために行きつけの病院へ向かおうと市電に乗りました。コロナ禍と呼ばれるこのご時世、一時は熊本市内も人出が少なかったようですが、この日はまるでコロナ前に戻ったように市電が混み合っていました。以前と違うのは、全員マスクをつけていること。一年前、こういう風景を誰が想像したでしょう。今の自分がタイムスリップして、当時の自分に「これが一年後の街のようすだよ」と写真を見せても、きっと信じなかったに違いありません。美容院へ行ってきたばかりでした。これまでの行きつけのお店の定休日が変更になったため、初めてのお店でした。系列店なので、スタッフさん同士はお知り合いで、わたしのデータも届いているはずですが、新しい担当者さんに個人的に好みを伝えるのは大切です。同じベリーショートにするのでも、たいていの美容師さんは「オトナの女性らしさ」を残そうとされます。ええ、ふつうはそうされるでしょうね。いい歳の女性相手ですから。でもわたしは、とことんマニッシュにしてもらうのが好み。甘さや柔らかさを残さず、パンキッシュでソリッドな感じにしてもらいたいのです。新しい担当者さんにもそのことは伝わったようで、大満足の仕上がりにしていただきました。白っぽいシルバーの刈り上げギリギリのベリーショートを、ハードタイプのジェルでガシッと固めてもらいました。この日の服装は、全身アニエス・ベー。トップスは、胸元に黄色い星がプリントされたグレーのTシャツ。ボトムは、黒い細身のストレートのデニムをロールアップ。足元は、ベンシモンの青いスニーカー。とりたててオシャレではないですが、美容師さんにボーイッシュな服装を見せることが目的で選びました。もちろんマスクもしています。ポリエステル製の立体マスクは、髪とTシャツに合わせたライトグレー。さて、そんないでたちで混み合う市電に乗り、先頭のほうのつり革につかまりました。目の前には、中学生? いや、たぶん高校生らしい女の子が座っています。おかっぱの黒髪で、ちょっぴりふっくらさん。素直そうな、あどけなさが残る表情は、高校生だとしても、たぶん一年生でしょうか。その子が、ふと顔を上げたかと思うと、二度、三度こちらをチラ見しています。……たまにあることです。髪のせいでしょう、性別を確かめようとする視線にぶつかったのは一度や二度ではありません。ところが、その後も彼女はこちらを数回にわたってチラ見。わたしも気になってそちらを見ると目が合って、何か問いたげな表情をしています。……え、知り合い? うちのお客さま、とか? いや、見覚えはない。勘違いか。だとしたら、目をそらして気づかないふりをするのがいいか。それとも……と考えていると、彼女がまっすぐにこちらを見ながら腰を浮かせました。え? 嘘、まさか、席を譲ってくれようとしてるの?ちょ、ちょっと待って。ええと、わたしは妊婦ではないし(当たり前だ)、妊婦に間違われるほどお腹が出てるわけでもないし(たぶん)、大ケガをしてつらそうにしてるわけでもないし、足腰痛そうにしてるわけでもなくふつうにまっすぐに立っている、はず。……て、ことは、そ、そうなの? もしかして、わたし、彼女に高齢者として認識されてるの?思わず、「え、い、いえ、だ、だいじょうぶです、よ?(笑) ありがとう」と、どもりまくって半笑いで対応してしまいました。彼女、ちょっと残念そうな顔をしながら無言で座りなおしましたが、わたしは内心の動揺を見せないよう必死です。いえね、いつかはこの日がやってくるとは思ってましたよ? 若い人から席を譲られる日が。でも、まさか、こんなに早くやってこようとは。心の準備ができてなさすぎで、頭の中が真っ白です。あ、でも、さっきの対応、傷つけてしまったかなあ。せっかく譲ってくれたのに、半笑いで断られるなんて、もう二度と誰にも席なんて譲らない、って思わせちゃったかも。そうだよね、この子にとっては、おそらく50代だろうが、60代だろうが、70代だろうが、たいして変わらないんだよね。うん、わたしだって10代の頃はそうだった。きっと、50代で席を譲られることにこれほどショックを受けるなんて、この子には想像もできないにちがいない。それにしても、ですよ。これは、20代で若白髪が見つかった時のショックをはるかに凌駕しています。ええ、これまで、男に間違えられたことは数知れず、レズビアンだと思われたことも数回ありますが、そういうのはショックの部類にさえ入りません。老人認定。ああ、もうわたしは、免許返還を渋る高齢者を笑えません。そうなんですね、どんなにあらがっても、気づかないふりをしても、ひとはいつのまにか高齢者になっているのです。女子高生、ハッキリと教えてくれてありがとう。いやいや、まだまだ大丈夫っしょ、と楽勝ぶっていた頭をガツンと殴ってくれてありがとう。さらば、これまでの日々よ、青春よ。こんにちは、余生。ボンジュール、トリステス(悲しみよ、こんにちは)。明日からわたしは、高齢者としてまじめに生きていきます。さて、気を取り直して、ちょっぴり宣伝です。先日、訳書の紹介でラジオに出たのですが、それを文章に起こして紹介してくれるサイトができました。よかったら読んでみてください。一応、当日の放送も聞けるようになっているようです。読むらじる。東京新聞にも紹介して頂きました。東京新聞。それから、別の訳書も出てます。amazonで買う。高齢者ですが、老体に鞭打っておしごと頑張ります(涙)。よろしくお願いします。写真は、本文には関係ありませんが、今のテラスのようすです。お店では秋メニューがほぼ出揃いました。うずらのロースト、和栗と鶏レバー詰め、モンブラン・グラッセ、プロヴァンス風ココット、オニオングラタンスープなど、ぜひ食べにいらしてください。

  • 04Aug
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      仮の友人。

      わたしは彼のことを「古い友人」と呼んでいます。でもその呼び名で合っているのかどうかわかりません。「友人」と呼べる間柄では、もしかしたらないのかもしれない。第一、長い間会っていませんでしたし。連絡を再開したきっかけは、ふと思いだして、わたしがツイッターで名前を検索したことでした。同姓同名がたくさんいてもおかしくないお名前ですが(まあ、わたしほどではないですけど)、本人らしい特徴のある投稿だったので、わたしから声をかけました。覚えていてくれてるかどうか不安になりつつも。90年代初め、パリ。あの頃、ひとり夜の街を歩いて、時折ヴィエイユ・デュ・タンプル通りへ向かいました。セーヌ左岸のわたしのアパルトマンから、セーヌ右岸の友人たちのアパルトマンまでは、歩いて「ほぼ一直線」。今、グーグルマップで当時のルートを入れると、地図上でもかなりまっすぐであることにあらためて驚かされます。坂道のモンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りを北上し、広々としたサン・ジェルマン大通りに出ると、当時の大統領のフランソワ・ミッテランの居宅があった暗い小道、ビエーヴル通りを抜けてセーヌ河岸へ。アルシュヴェシェ橋を渡ってシテ島に入り、サン・ルイ橋を渡ってサン・ルイ島を経由し、さらにルイ・フィリップ橋を渡ってセーヌ右岸に入ります。そこからは、マレ地区を縦断する細くて長いヴィエイユ・デュ・タンプル通りをただひたすらまっすぐ進みます。このルートがとても好きでした。3つの橋を渡るたびに、立ち止まって左手の欄干にもたれ、目の前に広がる風景を仰ぎ見ます。風にたゆたう漆黒の川面の上、闇夜に浮かぶ白亜の石壁を彩る、抑制された色彩のエレガントなイルミネーション。目の前にそびえるノートルダム大聖堂の圧倒的なフライングバットレス。その奥のポン・ヌフ、ルーヴル宮、コンシェルジュリーの幻想的なライトアップ。左手奥でオレンジ色に発光するエッフェル塔。いつ見ても、何度見ても、見飽きない、現実離れした美しい光景。友人たちに会いに行くという目的で、月に数回の頻度で行なっていたこの夜の散歩を、この先いつまで続けられるんだろう。あと何回、こうやってはやる心でこの道を歩き、美しい夜の街をひとりじめできるんだろう。いつも、そう思っていました。日本社会からドロップアウトして渡仏し、とりつかれたように狭くて暗い室内で勉強ばかりしていたわたしを不憫に思ったのか、たまに「おいでよ」と声をかけてくれたのは、彼だったのか、それとも彼と同居していたもうひとりの友人だったのか。彼らの家には、いつもたくさんの人がいました。行くたびに、新しい顔が増えていました。いったい何人の「新しい友だち」を紹介してもらったでしょう。その「新しい友だち」たちとも、「パリの日本人」のよしみでわたしは親しくなりました。一緒に映画を観たり、ライブに行ったり、飲んだり、食事をしたり、遠出をしたり……男の子も、女の子も。不思議なことに、そうして知り合った「友だち」たちと、再びヴィエイユ・デュ・タンプルのアパルトマンで会うことは、ほとんどなかったような気がします。わたしは、別のところで、新しい「友だち」たちと親交を深めました。ヴィエイユ・デュ・タンプルのふたりの友人は、あまりにもたくさん友だちを作りすぎて(それほど人が多く集まるところでした)、面倒みきれなくなったぶんをわたしに何人かバトンタッチしてるんじゃ?と、ちらっと思ったほどです。なぜなら、その「友だち」たちに、ヴィエイユ・デュ・タンプルの友人たちと会ってるかどうかを尋ねると、みんな口々に「忙しそうで会ってくれない」と、さみしそうに言っていたから。とくに、今わたしが「古い友人」と呼んでいる彼のほうは、男女問わずみんなに好かれていて、誰もがいつでも彼に会いたがっていた。そして、いつも彼の話をしていました。わたしは、もしかしたら、「古い友人」とふたりきりで会ったことは一度もなかったかもしれない。いつだってそこにはたくさんの人がいて、彼とわたしの間には常に共通の友だちが何人もいて、その人たちは、「古い友人」がいない時もわたしに彼の話をして。だから、わたしだけが、いつの間にか彼を勝手に「友人」と錯覚してしまったのかもしれない。そんな「仮の友人」(そうだ、これからは「古い友人」ではなく「仮の友人」と呼ぼうかな)に、わたしはひそかにひとつの夢を託していました。いつか、彼が撮った映画を観たい。彼がたくさんの人たちを魅了しているのを陰で見ていた時から、ずっと。この写真を撮ってもらった時から、ずっと。25年以上経った今、もうすぐその夢が叶います。

  • 25Jul
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      活字恐怖症。

      昨年12月くらいからずっと何かしら翻訳のしごとをしてて、ようやく少し余裕が出たのがここ1週間ほどです。翻訳のしごとがある時は時間が本当に足りなくて、それでも「月曜はしごとをしない日」と決めてあちこち外出したり(まあ、コロナ禍なので制限はありつつも)、なるべく音楽や映画から離れないようにしたりしていたのですが、いかんせん、本がまったく読めない。翻訳の原書を読み、ネットや書籍で膨大な資料を読み、自分の訳文を読み、校正ゲラを読み……と、ずっと何かしらを読んでるので、もう活字自体がお腹いっぱいになっちゃうんですよね。まあ、時間もあまり取れないですし。でも、しごととは無関係に読みたい本、というのはあって(ありすぎて)、それを「月曜はしごとをしない日」に書店(新刊書店やら新古書店やら古書店やら)に行ってごっそり買ってきちゃうものだから、どんどん「積ん読」が進んでしまう。30代までのわたしは「買った本は必ず読む!」「積ん読はしない!」をモットーとし、一部友人から賞賛を受けていたのですが、あのドヤ顔で鼻高々だったわたしはもう見る影もありません。で、しごとをしながら頭の片隅のほうでずっと、「よし、これが終わったら積ん読してるあいつとあいつとあいつとあいつを一気読みするぞ!」と固く誓っているのですが、いざこうして余裕が出てくると、あーら、不思議、風船がしぼむようにすべての意欲が消え失せてしまいます。この1週間、読もうと思えば2、3冊の本は読めたはずなのですが、頭もからだも活字を断固として拒否。いえ、心は読みたがってるんですよー。熱いコーヒーでも飲みながら、時間を忘れ、暑さ寒さを忘れ、空腹を忘れ、世の中のあらゆる憂鬱な出来事を忘れ、無我夢中になってページをめくりつづけるあの至福。ああ、あの至福。あれをぜひとも再び味わいたいものだ、と。ところが、頭とからだのやつらときたら、「いやいや、勘弁してよ~。ちょっとしばらく活字とかって見たくもないんだけど~。そんなもんより、ぼーっと空や草木でも眺めてたほうがよくないっすか?」と、コンビニ前でしゃがみこんでる若者風な口調でほとほとうんざりした顔つきで言ってくるので、「まあ、確かに。ちょっと疲れたかもね」と心も渋々同意。しかしこの突然の空白時間、そして自分が急に怠惰な人間になりさがったかのような罪悪感&背徳感にさいなまれ、このままずるずると怠惰の谷底へ落ちていったらどうしよう……と、ひとりぶるぶると震えているのです。それにしても頭とからだのやつらときたら、本は読みたがらないくせに、ツイッターのタイムラインだけはぼーーーっと眺めてやがる……(しかもたまに自分の訳書をエゴサしたり)。で、心はまたしても時間を無駄にしたという罪悪感と背徳感と劣等感と屈辱とに頭をかきむしりながら苦しむのです。ああ、かつての活字中毒者はどこへ行ったのでしょう。これではまるで活字恐怖症です。うう、情けない。というわけで、このブログは活字に慣れるために、リハビリの一環として書いています。ブログもずっとご無沙汰してましたからね。さあ、これを書き終えたら、昨夜から取りかかったこの本から、まずは手始めに。わりとクセのある文章を書かれる方(音楽家で文筆家)ですが、面白いです。……と言いつつ、リハビリ中なので、心に活字が染みとおっていく感覚はまだ味わってませんが(本ではなくわたし自身の問題です、あくまでも)。最後に宣伝。6月末に出た訳書です。アマゾンで買う「バカ」の研究 | ダニエル・カーネマン, ダン・アリエリー, アントニオ・ダマシオ, ライアン・ホリデイ, ジャン゠クロード・カリエール, アリソン・ゴプニック, トビ・ナタン, セルジュ・シコッティ, イヴ゠アレクサンドル・タルマン, ブリジット・アクセルラッド, アーロン・ジェームズ, エヴァ・ドロツダ゠サンコウスカ, ニコラ・ゴーヴリ, パトリック・モロー, ジャン・コトロー, フランソワ・ジョスト, ハワード・ガードナー, セバスチャン・ディエゲス, クローディ・ベール, ローラン・ベーグ, デルフィーヌ・ウディエット, ステイシー・キャラハン, ジャン=フランソワ・マルミオン, 田中 裕子 |本 | 通販 | AmazonAmazonでダニエル・カーネマン, ダン・アリエリー, アントニオ・ダマシオ, ライアン・ホリデイ, ジャン゠クロード・カリエール, アリソン・ゴプニック, トビ・ナタン, セルジュ・シコッティ, イヴ゠アレクサンドル・タルマン, ブリジット・アクセルラッド, アーロン・ジェームズ, エヴァ・ドロツダ゠サンコウスカ, ニコラ・ゴーヴリ, パトリック・モロー, ジャン・コトロー, フランソワ・ジョスト, ハワード・ガードナー, セバスチャン・ディエゲス, クローディ・ベール, ローラン・ベーグ, デルフィーヌ・ウディエット, ステイシー・キャラハン, ジャン=フランソワ・マルミオン, 田中 裕子の「バカ」の研究。アマゾンならポイント還元本が多数。ダニエル・カーネマン, ダン・アリエリー, アントニオ・ダマシオ,www.amazon.co.jpわりと評判がよいようで、noteのCXOのかたに好意的な批評を書いていただいたりとかして、とりあえずホッとしてます(今のところ)。深津貴之氏の読書日記読書日記 「バカの研究」|深津 貴之 (fladdict)|note noteの「良いサービスを考える会」で、「バカの研究」という本をオススメいただき読了。 「バカ」の研究amzn.to 1,760円(2020年07月07日 22:34時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 本書は、あきれるほどおバカな本だ。なぜなら「バカとは何か」という問いを、ノーベル賞受賞者(ダニエル・カーネマン)ら世界最高峰の頭脳達にぶつけた、インタビュー集だからだ。 世界の英知を結集して、エベレスト級のバカを定義するという、あまりにもリソースを無駄遣いした本といっても過言ではない。とてもフランスっぽいエスプリのきいたバカである。note.comあ、翻訳家として初めてラジオに出ることにもなりました(全国ネット!)、が、恥ずかしいのでこれ以上は内緒。ではでは。ビジネスマンの知的好奇心を誘うような装丁ですねー。裏面はこんな感じ。個人的には帯をとった時のこのシンプルな装丁が好きです。

  • 22Jul
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      ブックオフ愛。

      わたしのための本、と言っても過言ではない一冊です。『ブックオフ大学ぶらぶら学部』(岬書店)。装丁、凝ってますよねえ。とくに裏表紙の右上。ブックオフをご利用された方ならご存知かと思いますが、商品に貼られている価格シールにそっくりです。現にわたし、この本を買った時に反射的に剥がそうとしちゃいましたもん。剥がれません。印刷です。本書には、武田砂鉄氏をはじめとするさまざまなライター、著述家、マンガ家さん(全員ブックオフヘビーユーザー)による、ブックオフ(または新古書店)へのオマージュのようなエッセイ(とマンガ)が、全8点収められています。新書サイズで全175ページ。以下、冒頭の「はじめに」より、引用させていただきます。だれかとふたりで歩いていて、商店街のなかにブックオフが見える。あるいは、だれかと車に乗っていて幹線道路の先にあの大きな「本」と書かれた看板が見える。「寄ってもいい?」と聞くには勇気がいる。まず、その人はそもそも本やCDが好きじゃないかもしれない。それにもし本やCDが好きでも、中古品は好きじゃないかもしれない。いちばん気まずいのは、古本屋さんも中古レコード屋さんも好きなのに、ブックオフだけはいやだというケース。「なぜいやなの?」と聞くと、彼らには彼らなりの理由がある。雰囲気が好きじゃないから。本やCDの扱いがぞんざいだから。新古書店の存在こそが新刊書店の経営を圧迫しているから。「うん。そうかもしれない」。そうこたえてみるが、どうしても行きたい。あのブックオフにはずっと探している本がありそうな気がする。そればかりか、110円で売っている気がする。ああ、もう、わかりみが深すぎる。そう、いつも思うのです。「あのブックオフには何かがありそうな気がする。しかも、本なら110円、CDなら500円以下で売っていそうな気がする」と。ブックオフは消費社会の象徴です。オゾンの『恋のマイアヒ』(覚えてる?)がいまだに棚にずらり並ぶ店が、この令和の日本社会においてブックオフ以外にあるのでしょうか。ジェーン・スーが外国文学の棚に並ぶのが当たり前の光景となっている超いい加減な書店が、いったいこの国のどこかに他に存在するでしょうか。大量に消費されたのちに、飽きられて見向きもされなくなったかつての「ヒット商品」が次々と集まってくる、現代の姥捨山、ブックオフ(←ひどい)。でも、このゴミの山(←本当にひどい)から「自分だけの宝」を探すという、この上ない至福。店内に入った瞬間から、ドーパミンだかアドレナリンだかわからない何かがからだじゅうを駆け巡るあの感覚は、ブックオフ以外では体験できないのです。そう、わたしは現代消費社会の掃き溜め(←本当に本当にひどい)を巡るトレジャーハンター。ブックオフに足を踏み入れる瞬間のわたしの気分は、秘宝を探して発掘現場を駆け回るインディアナ・ジョーンズ、はたまた、ソロモン王の財宝を求めてアフリカの洞窟に潜入するアラン・クオーターメイン、はたまた、アフリカの大地でレイヨウを捕らえようと一心不乱に駆けぬけるチーターです(ちょっと違うか)。ブックオフよ、わたしの人生はあなたと共にあります。どうか、このコロナ禍を生き延びて、またわたしをめくるめく冒険の旅へと誘ってください。……て、我ながらなんのこっちゃ。コロナ禍でなかなかブックオフ通いができないため、ちょっと欲求不満になってるみたいです。しかも第二波に突入したっぽいからしばらく県外遠征は無理そうですし。あああああああああ。

  • 30May
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      コロナパンデミック下の一市民の日記(?)。

      けっこう、ふつうに生活してるつもりでした。いつもの時間に起床し、いつものようにお店へ向かう。お店はまだテイクアウト営業中ですが、掃除をし、植木に水やりをし、接客をし、雑事をこなし、合間にせっせと翻訳をし、シェフのまかないを食べる。余暇はいつものように音楽を聴き、本を読み、映画を観る(アマゾンやネトフリで)。そして、いつもの時間に(あるいは少し遅めに)就寝する。でも、何かがおかしい。音楽が、文章が、映像が、いつものように染みてこないのです。それなりに感心したり、心に響いたりはしているはずなのに、手指をエタノールで消毒した時のようにすーっとどこかへ消えてしまう。内側へじんわりと吸収されていく感じがしない。そう気づいて考えてみたところ、どうやらなるべくいろいろなことを感じないよう、考えないようにしているようです、無意識のうちに。そのせいか、ブログもずっと書けませんでした。書きたいとさえ思わなかった。ことばが出てこないし、書きたいテーマが浮かばない。これと似たような状態だったのが、2016年の熊本地震の時です。いえ、あの時はもっとひどかった。音楽も本も映画も、何もかもを受けつけなかった。何に対しても興味が持てなかった。感覚と思考をパッタリと閉ざしていました。でもあれから数年が経ち、あの時にどうしてそこまでの状態に陥ったのか、わからなくなるくらいには回復していました(それもまた怖いことのような気がしますが)。ところが今また、あの時の気持ちがわかるようになりつつあります。そこまで至ってはいないとしても、明らかに感覚と思考が鈍化しています。自然災害や感染症のパンデミックなど、大きな災厄があると、こうして感覚と思考が鈍化するのはどういうわけでしょう? わたしだけ? 本能的に自分の心を守ろうとしているのでしょうか? 心が激しい痛みに耐えられないかもしれないと、あらかじめ予防しているのでしょうか?でも本来なら、こういう事態に直面した時に、世の中で何が起きているのか、それに対して自分はどう思い、何を感じているのか、そうした思考や感情はどう移り変わっていくのか、きちんと記録しておくほうがよいように思います。のちのち読み返してみて、その時の状況を思い出すことで、新たな事態に備えられるかもしれない。すべきだったのにできなかったこと、こうしておけばよかったと思ったことを、次の機会に生かせるかもしれない。あるいは、そうした記録が、後世の人たちの役に立つかもしれない。でも、何も書けない。毎日のように、世界の情勢、国内の状況を報道で見聞きし、専門家による新しい情報をアップデートし、自分は(自分たちは)今後どうすべきかを考えているのに、本当は、見たくも聞きたくも考えたくもない。ましてや書くなんて、ちっともしたくない。そこで思いだしたのが、『フランス革命下の一市民の日記』という本でした。タイトル通り、パリに暮らす平凡な初老の男性が、フランス革命下での身の回りの出来事について書いた全文です(セレスタン・ギタール著、レイモン・オベール編、河盛好蔵監訳、1986年、中公文庫)。下の写真のように、けっこう分厚いです。フランス革命下の1791年~1796年、ブルジョワ階級の年金生活者、オベール氏(65~70歳)によって書かれた日記。不況でパンが手に入らない、年金がもらえない、体調がすぐれない、といった愚痴を綴りつつ、気候のこと、政治のこと、収入と支出の記録、親戚の誰それに小麦粉をもらった、誰それにいくらのお年玉をあげた、などの出来事も事細かく記しています。さらに、30代の既婚女性(ダゼル・セリエ夫人)との不倫の状況についても、「ダゼルと昼食」「ダゼルと寝た」といった短い言葉で記されています(ただし、それ以上の感情的な言葉は書かれていません)。つまり、備忘録と家計簿と日記を合わせたような記録です。以下、いくつか抜粋します(途中、中略あり)。1791年6月21日 午前1時、国王、王妃、王太子、王女、王妹、王弟夫妻が、ひとりの衛兵にも気づかれずに、こっそりチュイルリーの城館を脱けだし、外国への逃亡を計った。パリじゅうが悲しみに包まれた。1791年9月26日 王、王妃、王太子がコメディー・フランセーズ劇場に行幸になり、最大の拍手で迎えられた。1791年10月5日 国民議会は国王から「陛下」の称号を廃止した。しかし翌日にはこの法令は撤回された。反感をかったのだ。1791年10月21日 法令により勲章をつけることが禁止されたので、もっていた黄金拍車十字勲章を売ってしまった。勲章なんてただの見栄である。もうひとつの勲章も売り払うことにしよう。役に立たないものを持っていても仕方がない。1791年11月8日 亡命者にたいして重大な法令がだされた。亡命者は、王侯、貴族を問わず、1792年1月1日にはフランスに帰らなくてはならない。さもないと全財産を没収される。過酷だが現状ではやむをえまい。1791年11月6日 ルイ16世橋(注:現在のコンコルド橋)を見物に行く。あとは欄干をとりつけるだけだ。この橋に近いルイ15世広場(注:現在のコンコルド広場)も目下舗装中である。1792年9月21日 ダゼルと昼食。「フランスにはもはや王政は存在しない」という政令により王政は廃止されたので、フランスにもはや国王は存在しないことになる。1792年12月3日 ロベスピエールは、ルイ16世の死刑、王妃を裁判にかけること、王太子や他の王族は混乱がおさまるまでタンプル塔に監禁することを要求した。1792年12月7日 ジャコバン・クラブは、クラブの集会室にあったミラボーの胸像を倒し、打ち砕いた。裏切り者だと分かったためだ。ものごとはすべてこんなものだ。大衆は突然ひとりの男に熱狂し、その男を天まで持ち上げる。そして、最後に見捨てる。1793年1月21日 午前10時20分、国王はルイ15世広場で処刑され、遺体はただちにマドレーヌ墓地に運ばれ、深さ4メートル、長さ2メートルの墓に埋葬された。1793年4月17日 12日以来パンが手に入らなくなって、人々は苦しんでいる。1793年7月8日 ダゼルと朝食。タンプル塔に幽閉中の王太子が母マリー・アントワネットから引き離され、父の住んでいた部屋に移された。シモンとかいう一市民が今後は彼の世話をすることになった。1793年8月18日 今月10日にはじめて公開されたルーヴルのロング・ギャラリーを見物に行く。ここにはルーヴルの美術品の半数が収容されている。ギャラリーはもうひとつあって、ここにも多くの絵画や彫像が収められている。1793年10月25日 市場にはバターも卵もなにもなかった。まるで悪魔が暗躍し、あらゆる卑劣な手段を用いてわれわれを苦しめ、いがみ合わせ、ほろぼしてしまおうとはかっているみたいだ。1793年12月16日 昨日から5カ月ぶりにパン屋の店先にパンが並んでいる。この状態が永続きしますように!1794年2月22日 病人、障害者、妊婦以外、肉は買えない。その人たちも区の証明書が必要である。1794年3月24日 きょう、4時半から5時15分すぎまで、謀反人18名の処刑が行なわれた。1794年4月5日 きょう5時半頃、有名な謀反人15名の処刑が行なわれた。革命広場(注:現在のコンコルド広場)で15、6分のうちに執行され、6時10分に終了した。最後の処刑者はダントン、その直前がラ・クロワである。1794年4月13日 父来訪。昼食。1年半ぶりだ。午後7時、21名が処刑された。1794年4月21日 ダゼルと朝食。きょうは7名が処刑された。1794年4月22日 きょうは著名人13名が処刑された。1794年4月24日 ダゼルと朝食。きょうの午後、35名(内14名が女)が処刑された。1794年4月28日 きょうの午後、35名の処刑が行なわれた。うち33名は著名な貴族、7名が女性、残る2名のうち1人が織工、1人が靴屋である。1794年6月9日 きょうから革命広場でのギロチンによる処刑執行をとりやめ、あらたにサン・タントワーヌ市門でギロチン処刑を執行することになった。1794年6月17日 きょう、61名が処刑された。これほど大量の処刑ははじめてである。(注:以来、7月末までほぼ毎日、1日当たり30~60人規模のギロチン刑が執行され、著者はそのようすを淡々と報告し、受刑者の氏名と肩書をリストアップしています)1794年7月18日 きょう、29名が処刑された。なかには80歳と81歳の老人もいた。1794年7月23日 きょう、55名が処刑された。うち公爵2名、将軍2名。1794年7月24日 ルースレ嬢を訪ね、彼女が購入したブドウ酒の味見をした。36名が処刑された。モンマルトル女子大修道院長が含まれている。1794年7月26日 2枚の引換券をとりに行く。1枚は薪用、もう1枚は石鹸用である。セリエ夫人と食事。53名が処刑された。公妃2人、公爵1人、貴族多数、司教1人が含まれている。1794年7月27日 国民公会は朝から午後3時まで荒れに荒れた。ついにロベスピエールが極悪人として告発され、ただちに逮捕命令が発せられた。皆を震え上がらせていた公会の支配者のまったく予期せぬ事態であった。人々は困惑していた。公会と市議会が敵味方にわかれて対立している。どちらについたらよいのだろう? 45名が処刑された。1794年7月28日 午後、ロベスピエールと共謀者21名が革命裁判所に連行された。きょうルイ15世広場(現在の革命広場)において死刑に処す、という宣告を受けた。彼らはサン・トノレ通りを通って広場へ連行されたが、途中随所で民衆の罵声を浴びた。人々は自分たちが騙されていたのを知って怒り狂っていたのである。処刑は夜7時に行なわれた。事件勃発後24時間でけりがついたのだ。1794年7月31日 セリエ夫人と昼食。きょうは処刑が行なわれなかった。1795年1月23日 セリエ夫人はきょう4時、市庁舎において離婚した。これで彼女は独身に戻り、いまや望みの男と結婚できるのだ。1795年3月29日 現在、小麦粉の入荷は困難である。パンのない者には米が支給される。パン屋の軒先では徹夜の行列だ。悲しむべき光景である。1795年4月30日 パンの配給はあいかわらずひとり1日4分の1斤。パリがこんな欠乏と悲惨に陥ったことはかつてない。これからどうなるのか誰もわからない。1795年5月20日 パンがひとり1日2オンス(約61g)に削減されたことについて大暴動がおこった。略奪を恐れて商店は軒並み門を閉ざした。この暴動の計画はあきらかに、機に乗じて優勢を回復したいというジャコバン派のまぎれもない願望の上に立てられている。1795年6月9日 ド・フォンドヴィオル氏が、元セリエ夫人、マリ=テレーズ・クルボーと結婚した。(中略)私は4人の証人のうちの1人をつとめた。1795年11月20日 バター1ポンド=100フラン、塩=15リーヴル、薪1車=1500リーヴル、ジャガイモ=160リーヴル。なにもかも、この世が始まって以来見たことがないようなバカ高値だ。背筋が寒くなる。いったいどうなるのだろう。きょうの小麦は明日にならねば来ないという。情けない共和国だ!1796年2月24日 ド・フォンドヴィオル夫人が豚肉を3キロ、ラードを1キロ買ってきてくれた。恐ろしく高い値段だ。1796年3月4日 ド・フォンドヴィオル夫人がレンズ豆を1ポワソー買ってきてくれた。無茶苦茶な値段だ。以上、分厚い日記からごく一部、主に「処刑」「食糧難」「不倫」に関する記述からピックアップしてみました。これら3つの出来事のうち、ギタール氏がもっとも感情を露わにしたのが「食糧難」です。食料がどんどん高騰すること、パンが手に入らないことを頻繁に嘆いています。その次が、ここには挙げませんでしたが、自分の体調不良のこと。しょっちゅう風邪をひいたり、高熱を出したり、吐いたりしています。不衛生、栄養不良、高齢のせいでしょうか。一方、「処刑」については、ほとんど日常の「風景」と化しています。とくに1794年の春から夏にかけては、まるで大相撲の取組み結果を報告するような口調で(というのは例えが悪いですね、すみません)、処刑者の氏名と肩書きをリストアップしています。そのあまりの無感動ぶりに、読んでいて逆に背筋が寒くなるほどです。「不倫」については、親子ほどの歳の差があるダゼル(セリエ夫人、のちのド・フォンドヴィオル夫人)と、途切れることなく交際を続けています。ただし、どこで知り合ったのか、どういう感情を相手に抱いていたのか、離婚・再婚後も関係があったのか、さっぱりわかりません。元夫のセリエ氏、現夫のド・フォンドヴィオル氏とも親しかったようで、なんともフランス的というか、謎が多い関係です(苦笑)。……すっかり長くなりました。こうしてギタール氏の日記を再読し、引用しながら、この人、200年後に自分の文章が読まれるなんて本当にこれっぽっちも思っていなかったんだろうなあ、とあらためて思いました。この本を編集・刊行したのは、彼の数世代後の子孫の、血縁関係にはない親戚のひとりでした。わたしにとって本書は、著名な専門家が著した歴史書、史実を題材にした大河小説と同じくらい、いえ、それ以上に、心をわしづかみにされる文章です。フランス革命当時の人々の生活が、これほどくっきりと目の前に浮かび上がる文章を、わたしは他に知りません。市民生活の細部、色彩、音、匂い、温度まで感じられます。「革命」と呼ばれる出来事(王の処刑、暴動、圧政、独裁者の逮捕など)に対する、市民のリアルな距離感が伝わってきます。今の新型コロナウイルスのパンデミック下においても、こういう文章が残されるといいな、と思います。過剰に主観的、批判的、感情的になることなく、日常の出来事をなるべく淡々と、ありのままに、素直に綴った文章がいいです。残念ながら、現実を直視する心の強さを持たない、へたれのわたしにはできませんでしたが。実は、ギタール氏の記録を読みながら、「処刑」のくだりでは「コロナウイルス感染者数」を、「パン不足」のくだりでは「マスク不足」を、「不倫」のくだりでは「コロナDV」や「コロナ離婚」を、「年金支給の遅れ」のくだりでは「給付金支給の遅れ」を、ロベスピエールによるジャコバン派政権ではこの国の現政権を、なんとなーく思い出していました。

  • 03May
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      遅くなりましたがあなたのことをようやく書きました。

      最初の出会いを今でもはっきりと覚えています。あなたのブログをずっと読んでました。わたしもあなたと同じように、東京でずっと書く仕事をしていて、熊本にやってきたばかりなんです。あなたに会いたくてここに飛んできました。これから、熊本で農業に従事します。でも、書く仕事も続けていきたい。わたしもあなたを見習ってがんばります。これからどうぞよろしく。そんな感じのことを、言われたと記憶しています。当時のわたしは、彼女のことばをどこまで信じていたでしょう。もしかしたら、何ひとつ信じていなかったかもしれません。失望して東京へ帰るかも?あるいは、こちらにしっかりと根を張って、東京を忘れる?いずれにしても、わたしのような中途半端な人間のことなんか、すぐに忘れるはず。何の頼りがいもない、何をしたいのかわからない、何を考えてるかわからない、わたしのようなちゃらんぽらんな人間のことなど。もっと地に足のついた人間関係を求めて、戻るか、進むかするのでしょう。人はいつも、わたしに期待をし、困惑し、失望し、離れ、忘れる。もはや、それを悲しいとも思わず、傷つくこともなくなっていた。いや、相手を追わないということは、やはり傷ついているのかもしれない。いずれにしても、わたしは笑顔で彼女に応じつつ、たぶんもう会うことはないだろうと思っていました。そして彼女は、きちんとこちらに根を張りました。農業従事者として、パートナーと二人三脚で、常に最大限の努力をし、すべきことをし、学ぶべきことを学び、考えるべきことを考え、そうした努力、経験、学び、悩み、苦労、思いを、自分のことばにして随時発信してきました。目の前にあるもの、目の前にいる人にまっすぐに向きあい、新しい試みを本気で面白がり、いろいろなことに心を揺さぶられ、正しいと思うことはきちんとことばにして伝え、間違っていると思うこともはっきりとそう言い、でもどんなものも拒絶せず、自分が傷つくことを恐れず、まっすぐに向かっていきました。相手が多少傷つこうとも、それが相手のためになると信じることは口にしました。陰口や愚痴はこぼしませんでした。泣き言も言いませんでした。虚勢をはらず、自分の弱さを隠さず、素直に自分を表現しました。無類の読書家で、小説、ノンフィクション、哲学書、詩、マンガ……ジャンルを問わず、何でもむさぼるように読みました。わたしにとって、彼女が書くことばは、赤面するほどストレートで、狼狽するほど雄弁で、途方にくれるほどスピード感があって、圧倒されるような知識と経験に満ちていて、スキャンダラスなほどに赤裸々で、不思議なバランスで思慮深さと潔さが同居していて、いつもいきいきとして、まぶしくて、すごくかっこよかった。https://ameblo.jp/nishikifruitstore/彼女の活動は高く評価され、彼女の個性は多くの人を惹きつけ、彼女の知性はまわりを動かし、たくさんの友人を作り、パートナーと固く深い絆をはぐくんできました。彼女の文章は多くの人の共感を呼び、勇気を与え、心を動かしてきました。みるみるうちに、彼女は熊本に自分の居場所を作り、その一方で、東京ともつながり続けていました。わたしを見習うどころではありません。わたしなんか、ぐんぐんと追い越して、100周遅れくらいはるか後方に引き離して、いったいどこまで行くのだろう、というくらい、どんどん前へ進んでいきました。不思議なのは、彼女がわたしを忘れなかったということです。その幅広い人間関係、仕事をはじめとするさまざまな活動に追われる多忙な日々の中で、きちんとわたしなんかのことも覚えていてくれたことです。もしかしたら、遠くから見ているだけだったら、嫉妬していたかもしれない。わたしには逆立ちしたってできないことを、たくさんしていた彼女を。きちんと地に足をつけて、誰にも壁を作らず、誰からも好かれ、バイタリティに溢れ、屈託なく笑っていた彼女を。あなたはわたしを甘やかせてくれました。わたしは、あなたにおもしろいと言ってもらえるのが嬉しくて、文章を書いてきました。あなたは、わたしにとって、最高の編集者でした。わたしのことを書いてほしい、と、あなたは言っていましたね。こんな気恥ずかしいこと、なかなか書けるもんじゃないですよ。くっそー、もっと早く書いて、泣かせてやればよかった。今、ようやく再校までたどりついた翻訳書、あなたにまっさきに読んでほしかったのに。おとといの深夜2時ごろ、ふとあなたとやりとりがしたくなって、そうだ、と思ってあなたたちの農園の桃を注文しました。すぐに自動送信で農園からメールが来て、昼ごろにはきっとあなたから直接メッセージが入るはず、と思っていたら、あなたの訃報が届きました。もっと早く注文すればよかった。

  • 17Apr
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      『ペスト』前半より抜粋。

      カミュの『ペスト』を高校以来再読中です。いろいろやることがあって、遅々として読書が進まないなか、やっぱりめちゃくちゃカッコよくて、しかもこんな時期なので胸に刺さりまくってます。刺さりまくると、原文(フランス語)で読みたくなる。原文がすごくよいと、自分で訳したくなる……サガでしょうか(苦笑)。とくにぐっときた個所のうちの1カ所(あと1カ所ありますが)を、ざーーーっと1時間ほどで粗訳しました(途中の情景描写などを省略してます)。『ペスト』、読んだことがない、読んだけど忘れた、という方、ぜひきっかけにしてください。舞台はアルジェリアのオランという町。ペストが流行し、とうとう町が封鎖されました。以下、リウーとランベールという2人の登場人物の会話です。リウーは医師で、午前中は臨時の医療施設でペスト患者の検査と治療をし、午後は自分の診療所に戻り、夜はあちこちの家を往診し、毎晩深夜2時に帰宅する日々を送っています。ランベールはパリからやってきたジャーナリストで、ペストのせいでオランに足止めを食い、パリに残してきた恋人といっさい連絡が取れなくなってしまいました(郵便が止まり、電話もできず、電報局も混み合っていたため)。ランベールはオランから脱出したくてたまりません。ランベール「ねえ、先生。ぼくはジャーナリストになるためではなく、ある女性と一緒に生きるためにこの世に生まれてきたような気がするんです。これっておかしな考えでしょうか?」リウー「ちっともおかしくないですよ」ランベール「その女性とは会ったばかりなんですが、すごく気持ちが通じ合ってるんです」リウー「……」ランベール「いや、つまらないことを話しましたね。実は、先生にお願いがあるんです。ぼくがペストに感染していないことを示す証明書を書いてくれませんか? そうすれば、大変助かるんですが」リウー「気持ちはわかります。でも、そのアイデアはいただけませんね。証明書を書くことはできません。ぼくは、あなたがペストに感染していないかどうかを知らないし、たとえ検査をして感染していないとわかったとしても、ぼくの診察室から出て県庁へ行くまでの間に感染するかもしれない。それに……」ランベール「それに?」リウー「それに、たとえぼくが証明書を書いても、なんの役にも立たないですよ」ランベール「どうして?」リウー「この町にはあなたのような人はごまんといます。でも誰もこの町から出ることはできないんです」ランベール「ペストに感染していないのに?」リウー「それは十分な理由にはなりません。ええ、バカげているのはわかってます。でも、これはわたしたち全員に関わることなんです。そういうものだとして受け入れてもらわないと」ランベール「でもぼくはこの町の人間じゃないんですよ!」リウー「すでにこの町の人間なんです、あなたは。他の人たちと同じように」ランベール「これはぼくの人生の問題なんです! あなたにはわからないんだ、愛し合うふたりが、こんなふうに引き裂かれることがどういうことなのか」リウー「……わかりますよ。あなたがその女性と再会すること、すべての愛し合う人たちがもう一度一緒に暮らせることを、心から願ってます。でも条例と法律がある。そして、ペストがある。ぼくは、自分がすべきことをするしかないんです」ランベール「いや、あなたにはわからない。あなたが言っているのは理屈だ。あなたは抽象のなかで生きている」リウー「理屈かどうかはわかりませんけど、ぼくが言っているのは事実です。理屈と事実は必ずしも同じじゃない」ランベール「つまり、別のやり方を見つけろ、ということですね? いずれにせよ、ぼくはこの町から出ていきますよ」リウー「あなたの気持ちはわかります。でもぼくにはどうすることもできない」ランベール「いや、そんなはずはない! この町を封鎖するという決定には、あなたの意向が大いに反映されていると聞きました。自分が決めたことなら、ひとつぐらい例外を作ってくれるんじゃないかと思って、こうしてお願いしに来たんです。でもあなたには関係のないことなんですね。他人のことなんかどうだっていいんだ。離れ離れになっている人たちのことなど少しも考えてくれない!」リウー「ある意味では、その通りです。ぼくはそういうことを考えないようにしました」ランベール「なるほど、『公益のため』ってやつですか。でも公益っていうのはひとりひとりの幸せを考えることなんですよ」リウー「……いろいろな考え方があります。批判をしてもしかたがないことです。そう怒らないでください。もしあなたがこの問題をうまく解決できれば、ぼくだって心から嬉しく思います。ただ、立場上どうしてもできないことがあるんです」ランベール「怒ったりしてすみません。余計な時間を取らせました」リウー「ぜひ、今後の進展を知らせてください。どうか悪く思わないでください。ぼくたちにはきっと理解し合えるところがあるはずです」ランベール「そうですね……ええ、あなたはああ言いましたし、ぼくもこういう立場ではありますけれど、おそらく。……ただ、あなたは間違ってるとぼくは思います」(中略)ランベールのあの非難のことばは正しかったのだろうか? 「あなたは抽象のなかで生きている」。だが、ペストが日に日に広く蔓延していくなか、病院ですごすこの日々は本当に抽象なのだろうか? 週に平均500人もの感染者が出ているというのに? 確かに、不幸のなかには抽象的な部分と非現実的な部分がある。だが、抽象がわたしたちを殺そうとするなら、その抽象に立ち向かわなければならない。少なくともリウーにはそれが簡単なことではないとわかっていた。たとえば、リウーはいまや学校を利用した臨時の医療施設(町に3つ設けられたうちのひとつ)を切り盛りしなくてはならなかった。リウーの診察室の隣の部屋は、ペスト患者を受け入れるための部屋に改築された。部屋の床に消毒液のプールを作り、その中央にレンガを組み上げている。患者はそのレンガの上に立って、脱いだ服を消毒液のプールに落とす。本人もからだを消毒し、タオルで拭いて、ごわごわした診察衣に着替えさせられる。そこでようやくリウーの診察室に入り、診察を受けられる。診察が終わると病室へ連れていかれる。いまや学校の中庭さえ病室として利用されており、500のベッドがすでにほぼ満床になっていた。(中略)抽象と戦うには、こちらも少しは抽象に似なくてはならない。だが、ランベールにそれがわかるだろうか? ランベールにとっての抽象とは、自らの幸せに相反するものなのだ。そしてリウーも、実はある意味ではランベールが正しいことを知っていた。だがリウーはまた、時に抽象が幸せより強大な力を持ち、幸せをなおざりにしてさえ抽象を選ばなくてはならない時があるとも知っていた。ところが、実はかつてランベールにも同じことが起きていたのだ。そのことを、リウーはのちにランベール自身の告白によって知ることとなる。それによってリウーはまた、新たな局面において、個人の幸せとペストという抽象との陰鬱な戦いを続けていくことができたのだ。長い期間にわたってこの町の生活のすべてとなった、この戦いを。実は、医師のリウー自身も、別の町で結核の療養中の妻と離れ離れになっていたのです。でも、この時のランベールはまだそのことを知りませんでした。このシーン、『ペスト』の前半部分のハイライトだと思います。抽象がわたしたちを殺そうとするなら、その抽象に立ち向かわなければならない。抽象と戦うには、こちらも少しは抽象に似なくてはならない。

  • 05Apr
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      2万3000分の1。

      もしこのまま……いや、もしも、の話ですよ……もしこのまま人類が絶滅してしまったら、わたしたちホモ・サピエンスの歴史っていったいなんだったのかしら。最近、そんなことをちらほら考えます。地球の歴史はおよそ46億年。地球誕生から1億5000万年くらい後には生命が誕生しました(痕跡が残っていないので推測ですが)。ヒト(ホモ・サピエンス)が生まれたのは、それからぐぐぐーーっとくだってわずか20万年前。地球の歴史に占めるヒトの歴史の割合は、46億÷20万で、たったの2万3000分の1にすぎません。動物の誕生が8億年前、植物の誕生がおよそ15億年前と考えると、ヒトは地球におけるまったくの新参者ですよね。ほやほやの新人ちゃん。地球はこれまで5回の大量絶滅に見舞われてきました。そのうちのひとつ、2億1500万年前の大量絶滅では全生物の96%が絶滅しました。大陸同士が衝突しあって超大陸パンゲアが形成され、気候が大きく変わったためだそうです。三葉虫や床板サンゴはこの時に絶滅しました。6600万年前、5回目で今のところ最後の大量絶滅の時には、全生物の75%が絶滅しました。この時は、直径十数メートルの隕石が直撃したのが原因だったそうです。恐竜やアンモナイトが絶滅しました。それでも恐竜は、2億5000万年くらい前から生存していたので、2億年近くは地球で暮らしていたことになります。繰り返しますが、ヒトはたったの20万年……桁がぜんっぜん違います。今、ヒトが地球の6回目の大量絶滅を引き起こすだろう、と予測されています。たったの20万年の歴史しか持たない生物の種が、46億年の地球の歴史に大きな傷跡を残そうとしています。ただ、それは、ヒトによる環境破壊のせいで、他の生物の種たちが次々と絶滅することで引き起こされる「大量絶滅」ではないかと(それによって結果的にヒトも絶滅するとしても)、少なくともわたしはそう思っていました。でも、もしそうではなく、最大の犠牲となるのが「ヒト」だったとしたら……? その直接的な原因が、資源の枯渇でも天変地異でもなく、新型ウイルスのパンデミックだったとしたら……?だって、わたしたちはこんなに恐怖におびえ、苦しみ、嘆き、悲しんでいるのに、こんなにもサクラは美しく、ウグイスの声は素晴らしく、わたしのバラとアジサイの鉢植えもすでに大きなつぼみをつけています。わたしたちを置き去りにして、自然はすこやかに前へ進んでいく。生命の目的はなんなのでしょう。少なくとも、ヒトを喜ばせたり、癒したり、養ったりするためではありませんよね。自分たちが、なるべく長く繁栄するため。その目的において、ヒトは生物として完全な失敗作なのでしょう。ほかの生物を次々と絶滅させ、そのせいで自分たちの首を締めることになって、地球上に現れたかと思ったらあっという間に姿を消してしまう。わたしたちの目に触れられなくなっても、きっと地球は美しいままなのでしょうね。それでも、人間が作りだした文学は、音楽は、映画は、アートは、料理は、本当に素晴らしいものでした(←なんで過去形)。でも、2万3000分の1の長さなんて本当にささいな存在です。森の中のどんぐり一粒。海岸の石ころひとつ。たとえば『地球史』と銘打った全10巻の歴史書を編纂したとして、1巻600ページだとしても10巻目の最後の2、3行で終わってしまうでしょう。「地球が生まれておよそ46億年後、ヒト属からホモ・サピエンスとホモ・エレクトスが誕生し、のちにホモ・エレクトスが絶滅した後も、ホモ・サピエンスの一種であるホモ・サピエンス・サピエンスのみが生き残り、一時は地球全土に繁殖した。二足歩行、コミュニケーション能力の高さ、モノ作りの巧みさが特徴だが、生きるのに多くの資源を必要としたため、坂道を転がり落ちるように絶滅の道を突き進んだ。当時の「人新世」の地層からは今も興味深い遺跡が数多く発見され、マニア垂涎の的となっている」なんてね。「われわれ人間は、自然のなかでの居場所をもう一度探さなくてはならない。あまりにも長い間、自分たちが自然の中心にいると勘違いしてきたのだから」フランス人の環境運動家で政治家のニコラ・ユロのこのことばを、さいきんしみじみと思います。コロナウイルスの自然宿主はコウモリで、今回の新型コロナウイルスは、センザンコウという動物に感染したことで変異して(中間宿主)、ヒトに感染するウイルスになった可能性があるそうですね。ちなみに、同じコロナウイルスであるSARSの中間宿主はハクビシン、MERSの中間宿主はヒトコブラクダと考えられています。新型感染症のパンデミックが起こるのは、もともとは人間が環境を破壊してきたせいだとされています(by モンタニエ博士 ←前回のブログをご参照ください)。森やジャングルや砂漠でひっそりと生きる生物たちの生存を脅かしたりしなければ、こんなことにはならなかったのかもしれませんね。人類は、英知を尽くし、互いに協力しあい、助け合って、今回の危機を脱するのでしょうか。スペイン風邪(新型インフルエンザ)は今からちょうど100年前にパンデミックになり、2年間の流行期間中(第三波まであった)、世界で5億人、日本で2300万人が感染し、世界で1億人ちかく、日本で39万人が死亡したと見積もられているそうです。わたしは、この結末を見届けたいので、生き延びたいです。最前線で戦ってくださってる医療従事者の方々、必死にワクチンや治療薬を研究してくださってる研究者の方々に心から敬意を表しつつ、がんばって生き延びます。生き延びましょうね。参考資料:『ORIGINS 原始の地球 創造の40億年を巡る旅』ポプラ社     『病気を寄せつけない賢い生き方』イースト・プレス

  • 03Mar
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      新型コロナウイルスのこと。

      2009年にこんな本を訳してたのをふと思いだし、ざっと読み返してみました。カバーにあるように、著者はフランス人のリュック・モンタニエ博士。エイズウイルス(ヒト免疫不全ウイルス)を発見し、ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランス人です。再読してみて(←訳したくせに全然覚えてない……)、けっこうよかったです。コロナウイルス、というか、ウイルスというものに対する向き合い方が、なんとなくわかったような気がします。もっとまっすぐ向き合って、しっかり戦わないといけないんだな、と思いました。実はこの本、今は絶版で手に入らないので(先週までアマゾンで中古が2万円(!!)で売られていたのですが、それさえもうないようです)、いくつかここで抜粋します。ちょっと長いので、ご興味のある方はどうぞ。感染症とは、病原体がからだのなかに侵入することで引き起こされる病気です。病原体は、わたしたちのからだの弱っている部分を見つけて、そこからなかに入り込んで増殖します。現代の医療は、この病原体を退治することを第一の目的にしています。抗生物質、抗ウイルス薬、ワクチン、血清剤などはすべてそのために開発されました。しかしこうした薬やワクチンも、からだの防御システムがなければうまくはたらきません。もしこのシステムが故障してしまったら(免疫不全といいます)、治療はうまくいかず、感染が長引いてしまいます(慢性疾患といいます)。かつて世界中で大流行したコレラやペストなどの感染症は、たくさんのひとたちの命を奪いました。もし今後、別の感染症がまた世界で大流行したら……そんな将来のリスクに備えるためにも、薬やワクチンは必要なのです。かつて、コレラやペストのような感染症が流行して、多くのひとたちが命を落としました。今後、別の感染症がこうしたパンデミック(病気の大流行)を起こすことはあるのでしょうか。毎年、多くのひとが感染症に命を奪われています。世界中で年間1500万人、つまり4人にひとりが感染症で亡くなっているのです。これは戦争や自然災害がもたらす被害を超える数字です。これら感染症の多くが昔から存在しています。肺炎、インフルエンザ、結核、マラリア、コレラ、腸チフス、サルモネラ感染症……。20世紀後半になって現れた新型感染症も増えています。エイズ、SARS、鳥インフルエンザ、ウエストナイル熱、チクングニヤ熱……。ひとつの感染症がようやく沈静化したかと思うと、また次の感染症が現れます。世界保健機関(WHO)によると、世界のどこかで年間ひとつ以上は新しい感染症が生まれているそうです。2006年、欧州連合は将来起こりうるリスクを予測しています。それによると、2025年にわたしたち人類が対面する恐怖のひとつは「感染症」なのだそうです。とくに結核のパンデミックが起こる確率が高いとされています。(中略)結核だけではありません。他の感染症がパンデミックを起こす可能性も高いとされています。はたしてわたしたちはこの未来予想図をくつがえすことができるのでしょうか。近年、新型感染症が数多く発症しています。その要因はいくつか考えられます。まず、生態系が変化したことがあるでしょう。それは他でもない、自然を破壊した人間自身のせいです。そこにさまざまな要因が重なりました。貿易や旅行によるヒトとモノの交流、免疫システムを衰えさせるさまざまな要因。たとえば農薬などで汚染された食品、ファストフードやインスタント食品などに偏った食生活、大気汚染、都会生活のストレスなどは、いずれもわたしたちの免疫力を低下させる大きな要因です。文明の進歩が、新型感染症が発生しやすい環境を作り出しているのです。感染症は人口密集地で急速に広がります。そして著者は、鳥インフルエンザウイルス、つまりH5N1型ウイルスが今後進化して人間から人間へと感染するようになり、パンデミックを起こす危険性を説いています。H5N1型ウイルスが人間から人間へと感染するようになるという想定のもとで、わたしたちにもできることがあるはずです。(中略)咳をするひとは使い捨ての不織布マスクをしましょう。痰や鼻水をティッシュでぬぐい、蓋つきのゴミ箱に捨てましょう。感染者の看病をするひとは、ゴム手袋、ゴーグル、消毒用アルコールなどでしっかり防備する必要があります。突然の流行で外出できなくなる場合に備えて、事前に2週間分程度の食料品、日用品、医薬品を備蓄しておきましょう。そして大切なのは、日頃から免疫力を高めておくことです。何よりもまず、酸化ストレスを抑えましょう。(中略)そのためには、日頃から積極的に抗酸化物質を摂ります。抗酸化物質は新鮮な果物や野菜に多く含まれています。WHOによると、H5N1型のパンデミックは、「来るか来ないか」ではなく「いつ来るか」という次元の話になっているそうです。「これまでだいたい1世紀のうちに3、4回のパンデミックがあった。そう考えると、むしろないと考えるほうがおかしい。いつかはわからないが新型感染症のパンデミックは必ず来る。もっとも可能性が高いのがH5N1型ウイルスだ」と、WHOの関係者は言っています。パンデミックが起これば、世界中で少なくとも10億人以上が感染し、数百万人が命を落とすだろうといわれています。悲観的な見方では、5000〜8000万人が死亡し、うち発展途上国の死亡者が96%を占めるだろう、というものもあります。パンデミックを起こす危険性が高い病原体は他にもあります。2002年に世界的に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)もそのひとつです。(中略)急に高熱が出て、呼吸困難に陥り、肺炎になり、最悪の場合は死に至るという恐ろしい感染症です。SARSを引き起こすウイルスは、ブタ、トリ、イヌなどの動物に感染するコロナウイルスの仲間です。人間に感染するように変異した新型コロナウイルスは、中国で食用にされていたハクビシンが媒介したと考えられています。この新型コロナウイルスは、中国に滞在していた旅行者を介して、またたく間にトロント、シンガポール、ハノイなどに広まりました。数カ月間、病原体が不明で治療法もわからないままどんどん犠牲者を増やしていき、世界中を震撼させました。(中略)このSARSウイルスは、今ではすっかり鳴りを潜めていますが、世界のどこかでひっそりと生き延びているはずです。もし今後、感染症のパンデミックが起こるとしたら、どういうプロセスが考えられるでしょう。世界には老化や病気で免疫力が低下した何百万というひとたち、そして感染のリスクがあるのに「あえて予防をしないひとたち」がいます。病原体が狙いを定めるのは主にそういうひとたちです。「あえて予防をしないひとたち」というのは、たとえばHIVに感染するかもしれないのにコンドームをつけずにセックスをするようなひとたちです。これは、時速200キロでバイクを走らせたり、高速道路の反対車線を走ったりするような、大変無謀な行為です。1980年代のゲイのひとたちに対してHIVがそうであったように、そういうひとたちに感染することで、病原体は感染力と毒性を増していきます。変異によって感染力がますます強くなり、感染経路を広げてしまうこともありえます。(中略)変異することで感染力が強くなった病原体は、パンデミックを起こしかねません。それを防ぐためにも、わたしたちは免疫力を高め、無意味な感染を招かないよう気をつけなくてはなりません。上にも書いたように、これを読んで、「あ、ちゃんと戦わないと」と、わたしは思いました。新型感染症のウイルスは、わたしたち人間が産んでしまった、人類の敵です。しかも、先進国における文明の進化が新型感染症が現れる多くの要因を作っているのに、もっとも大きな被害を受けるのは発展途上国のひとたちと予測されているのです(10年前に刊行された本なので細かいデータは今とは異なっているとしても)。なるべく被害者を出さないよう、食い止める責任を感じずにはいられません。ウイルスと戦う武器は主にみっつ。1)薬とワクチン、2)免疫力、3)予防。1)は専門家のかたたちが今急ピッチで「武器製造」をしてくださってると思います。わたしのような一般人が持ちうるのは2)と3)の武器のみ。だからこそ今は、何よりもそれを最優先して、微力ながらもパンデミックを食いとめる部隊の一員として戦いたいと思います。戦うといっても、しかめつらして、眉間にしわを寄せて、苦しみながら戦ったら、たぶん負けます。笑いながら、楽しみながら戦わないと。だって、笑うと免疫力がアップする、ってよく言われるじゃないですか。それから、おいしくて新鮮なものをたくさん食べて(ただし過食は禁物)、よく働いて(ただし過労は禁物)、よく動いて(ただし激しいスポーツは逆効果だそう)、よく遊んで、よく寝て……その上できちんと予防をする。ウイルスを、人体の中で変異させ、進化させないために、これはれっきとした戦いです(よね?)。……ということで、がんばりましょう、みなさん、お互いに。それにしても……、あーあ、今日の今ごろは、世界一好きなフランス料理店で優雅にお食事をした後、東京のホテルで夜景を見ながらまったりし、明日の夜はニューオーダーのライブで完全燃焼する予定だったのにーーっ(涙)。新型コロナウイルスのバカバカ。ニューオーダーは当然延期になるし、すべて泣く泣くキャンセル(飛行機はキャンセル料発生……)。半年前からすっごく楽しみにしていて、そのために髪をキレイなシルバーにしてもらってたのにーーーっ。くっそーっ、ぜったいに食い止める!(←いや、あんたひとりじゃ無理)あ、3月7日(土)、8日(日)に開催予定だった「国際オーガニック映画祭inくまもと2020」も中止になりました。当店でチケットをご購入くださった皆さまには払い戻しをいたします。チケットをご持参の上ご来店いただくか、ご来店が無理な場合はお電話などでご相談くださいませ。どうぞよろしくお願いします。主催者の方は、必ずまた開催します、とおっしゃってますので、お楽しみに。わたしも8日に予定してた「トーク」の準備も済ませていたので、いつでも来い!という気持ちで待ってます。

  • 18Feb
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      二重生活。

      仕事で読んでいた本に、あるフランス人心理学者のことばが載っていました。知的なのはわたしたちではなく、わたしたちが作った道具なのだ。道具がわたしたちにものを考えることを強いる。わたしたちが作った言語が、わたしたちに考えることを強いる。言語はわたしたちよりずっと知的だ。(中略)重要なのは、わたしたちもそうした道具と競いつづけなくてはならないということだ。印象的で、ずっと頭に残っていたのですが、今日たまたま観た映画で「なんか、つながってるかも」と思いました。オリヴィエ・アサイヤス、90年代にはとても好きな監督でしたが、近年はなかなか観るチャンスがなくて久々の鑑賞。邦題にはまったく惹かれなかったのですが(原題は"Double Vies"(二重生活))、結果、すごくわたし好みでした。ロメールを彷彿とさせる会話劇。わたしが一番好きなタイプのフランス映画です。大きな事件が起こるわけではなく、アッと驚くことも、ボロボロ涙することも、お腹を抱えて笑うことも、強烈に胸を打たれることもない。ただ単に、登場人物たちが場所を変えながら(カフェ、レストラン、自宅、ホテル、撮影現場、イベント会場、ラジオ番組などで)しゃべってるだけ。でもめちゃくちゃおもしろい。作品を通じての会話のテーマは「デジタル化」をはじめとする「新世代のニーズへの対応」。作中に出てきた『山猫』(ヴィスコンティの映画)のセリフそのものです。Il faut que tout change pour que rien ne change.変わらないためにはすべてを変えなくてはならない。これってたぶん、わたしが読んだ本に書いてあった、「道具と競いつづける」ことだと思うのです。主要登場人物は5人。老舗出版社の辣腕編集者、アランは、表向きには書籍デジタル化を積極的に推し進めつつ、本当は出版の未来に不安を感じている。その妻、女優のセレナはアナログ人間。主演する連続刑事ドラマの内容の薄っぺらさに辟易している。アランが担当する作家、レオナールは、自らの私生活をネタにした小説を書き続け、個人のプライバシーを侵害しているとネット上でしょっちゅう炎上している。レオナールの妻、ヴァレリーは政治家の秘書で、友人たちの政治批判や皮肉にうんざりしている。アランの部下、ロールはデジタル部門担当で、紙の本がなくなる未来を確信している。とまあ、それぞれが自分の立場で持論を展開し、とにかく話す、話す。語る、語る。また、ごく自然に5人の視点が行ったり来たりするので(これってすごいと思う。書きことばではなかなかこうはいかない)、彼らのことばの行間、ポーカーフェイスや笑顔の裏の葛藤もちゃんと推測できるようになってます(セレナ以外は感情的にならないのでわかりにくい人もいるのですが)。実はそれだけではなく、この5人のうちで不倫をしている人が4人もいるのです(笑)。で、お互いに薄々感づいてたりするのですが、そちらの展開も実にフランス的。これまたロメールっぽくて「あるある」な感じでよいのです。デジタルを語る映画なのに、16mmフィルムで撮ってるギャップもおもしろい。ざらついた映像、さいきんは昔の映画だってデジタルリマスターされてるから、映画館でこの質感の映画を観たのは久しぶり。いやあ、いいですね、やっぱり、フィルム(しみじみ)。それにしても、「みんなネットばかり見て、本を読まなくなった」って、フランスの出版業界も同じなのね、やはり。もちろん、現在進行中のテーマだから、この映画の中で結論や解決策が出てくるわけではないのですが、やっぱり、「道具と競いつづけなくてはいけない」のだな、と思いました。で、先のフランス人心理学者の話に戻りますが、「知的なのは自分じゃなくて言語」って本当にそうだな、と。わたしは言語に導かれてこれまで生きてきた、と言っても過言ではないです。かつて通った学校の校歌に「われら世界にはばたくロゴス(語学)の使徒(つかい)」とありましたが、冗談じゃない。わたしはロゴスに使われてます、明らかに(笑)。追記)あ、「使徒」=「遣わされた者」だとしたら、まあ、合ってるのか……。すみません、この校歌の話しことばは「つかい」なので、「使い手」という意味だとずっと勘違いしてました(恥)。「使徒」と書くのだと、さっき調べて初めて知りました。ロゴスの神様に見捨てられないように、これからもしがみついていかないと。ところで、新型コロナウイルスの拡大、そして雪の予報、とあって、たぶん映画館は空いてるだろうと思って出かけたのですが、まさかのひとりぼっち! ということで、会場で「へー」とか「ふーん」とか声を上げたり、「ははは」と笑ったり、リビング鑑賞状態でした。映画館にはなんだか申し訳なかったですが、贅沢をさせていただきました。新型コロナウイルス、早く終息しますように。

  • 06Feb
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      ジョジョ。

      ああ、そうだった、忘れてた。わたしがバカだった。12月17日にこのブログにも書いた映画、『2人のローマ教皇』を観た後、ドイツに長く住んでいた知り合いが「ベネディクト16世はナチスだったからキライ」と言っていたと人づてに聞いて、わたしはこう返したのでした。「でも、戦後生き残ったドイツ人は、みんな多かれ少なかれ似たようなものじゃないですか」言いながら、「本当にそうか?」と自問する自分も確かにいました。ただ、その時思っていたことは大きくみっつ。ひとつは、ベネディクト教皇に肩入れしたかった、ということ。映画の影響が大きいとは思いますが、わたし自身は彼を「ナチス」とは呼びたくなかった。ふたつめは、当時のドイツ人はみんなユダヤ人虐殺を見て見ぬ振りをしたじゃないか、という思い。そしてみっつめは、いつの世も民主主義国家における政府がしたことの責任は国民にあるのではないか、という思い。これは、現在の日本人、アメリカ人、イギリス人、そして自分自身に対する自戒もこめて。そう、ヒトラーは決して世襲制やクーデターで成り上がった政治家ではなく、国民が正式な選挙で選んだ国家元首、今の日本、アメリカ、イギリスと同じですものね。こうした心情はともあれ、とにかくわたしは「ことば」として、戦争を生き抜いたドイツ人を全員ひっくるめて「ナチスの加担者」扱いしてしまった。そうじゃないことは知ってたはずだったのに。それにもう一度気づかせてくれたのが、この映画でした。ふつう、ドイツ人がドイツ語を話さない「ナチス映画」(ていうジャンルはあるのか?)はほとんど観ないのですが、これは例外。本当に素晴らしかったです。これを観た後、ヒトラーユーゲントについて調べなおしました。ヒトラー・ユーゲント:1926年に設けられたナチスの青少年教化組織。1936年より10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた。ナチスは学校の授業やヒトラー・ユーゲントの活動を通して、青少年の教化に力を注いだ。そして青少年たちは忠実なナチス支持者へと育っていった。ナチスは歴史に独自の解釈を施して生徒に教えた。例えば、この世にドイツ民族ほど優秀な民族はいないが、その偉大なドイツ民族に災いをもたらそうとする悪魔のような者たちが歴史上常に存在したと教えた。そしてその悪魔とは共産主義者やユダヤ人であるとした。子供たちはみなヒトラー・ユーゲントに入りたがった。子供に対するなによりも重い罰は、ヒトラー・ユーゲントへの入団を許さないということだった。ヒトラー・ユーゲントの活動の目的のひとつは、ヒトラーへの忠誠心を育てること。もうひとつが未来の兵士としてたくましく育てること。そのため、体を動かす活動を盛んに行なった。ヒトラーが好んだボクシングをはじめとするスポーツ、キャンプや遠足といった野外活動などである。親たちは事態を静観していた。他の子供たちがみなやっていることをわが子がやりたがるのを止められないし、他の子供たちがみな着ている制服をわが子に着るなとは言えない。危険な行為を禁じることもできない。ヒトラー・ユーゲントの扇動により、子供たちのほうが両親に対し、よきナチになれ、ユダヤ人と接触するな、と求めた。ナチスへの熱狂を家庭にもたらしたのは若者たちで、大人ではなかった。参考:『ナチスの戦争』(中公新書)リチャード・ベッセル   『ヒトラー政権下のひとびとと日常』(原書房)マシュー・セリグマン他まさにこれが、この映画のメインとなる背景です。ちなみに、前述した元教皇のベネディクト16世もヒトラー・ユーゲントでした。でも、当時は加入が義務づけられていたのでしかたがなかったと言えるでしょうね。映画は今まさに公開中なので、あらすじについて詳しい話はしませんが、この題材、この展開で「ハートフルコメディ」を作れちゃうって、ホントありえないです。奇跡じゃないでしょうか。まあ、ユダヤ人にしかできませんよね、きっと(←自虐的コメディが得意だと思うので)。で、超頭のいい人だと思いました。伏線の作り方!もうひとつ、この映画における大事な要素、それが、ドイツ人による反ナチ運動です。一部の青少年たちは、学校で教えられるナチスの思想にまるで無関心だった。ヒトラー・ユーゲントの活動には参加することはしたが、それは義務だったからだ。また、ヒトラー・ユーゲントの統制を嫌い、公然と反抗した青少年もいた。禁じられていたにもかかわらず、自分たちのグループを作った。そのひとつが「スウィングキッズ」。ナチスが推奨する「ドイツ的」音楽を拒絶し、「非愛国的」なスウィングジャズを愛した。ツイードのジャケットを着たり、小脇にステッキを抱えてみたりとイギリス風の格好を好んだ。ミュンヘンの大学生らが作った「白いバラ」はさらに攻撃的だった。ナチスを「けだもの」や「犯罪者」と表現し、ビラを作成して痛烈に批判した。結果、メンバーは逮捕され、拷問にかけられたのち斬首刑に処された。「エーデルヴァイス海賊団」は、チェック柄のシャツを着て、襟元にエーデルワイスのバッジをつけ、「非ドイツ的」な音楽やダンスを楽しみ、反ナチスの歌も作った。参考:『ヒトラー政権下のひとびとと日常』(原書房)マシュー・セリグマン他非ドイツ的な音楽やダンス!!まさにこれこそが、この映画におけるもっとも大事なモチーフ、と、わたしは思います。好きな音楽と、そのリズムに乗ってからだを動かすダンス……それがない人生なんて。今思いだすと、映画の主要登場人物たちはことごとくナチスが(ヒトラーが)嫌った特徴を持っていて(肥満、近眼、障がい、服装の乱れ、同性愛、家庭的じゃない女性など)、それもまたすごいな、と思いました。ヒトラーが愛したジャーマンシェパード、ヒトラーの菜食主義、「ハイル・ヒトラー」(ナチス式挨拶)もパロディ化されてます。他にも気づかなかったしかけがありそうで、ぜひもう一度観たいです。あとは、なんといってもラストシーン。わたし、マスク(してました、いちおう)が絞れるくらい泣きましたとも。まんまと。あ、以下の映像は、映画を観る予定の人は決して、ゼッタイに観ないでくださいね。ネタバレですから。まずは映画館へ足を運んでいただきたいです。この映像、何度も見返してるんですけど、もしかしたら1989年のベルリンの壁崩壊を予言してるんじゃないか、と、今、変な深読みをし始めてます。このふたりの向かい合う姿。また、この曲ってそういう曲ですしね、もともとは。46年後の、東ドイツ在住者と、パリ在住者。なんてね。あ、それでも、映画をこれから観る人はゼッタイに観ないでくださいね、これ。Life is a gift, we must celebrate it. We have to dance to show god we are grateful to be alive.Well, I won't dance, dancing is for people who don't have a job.Dancing is for people who are free. It's an escape from all of this.What's the first thing you'll do when you're free?Dance...2020年2月12日の追記:ある雑誌に、この作品の映画評が載っていました。そこに「ドイツ人の少年がナチスに憧れたと仮定した世界を描いた」的なことが書かれていて驚きました。いやいや、「……と仮定した世界」て! ファンタジーじゃあるまいし! そういえば、ついこの間、Twitterで、東大卒の友達(女の子)がアウシュヴィッツを知らなくて「へえ、それ、今でもあるの?」と言われたと、衝撃を受けた子のツイートが流れてきましたっけ。戦争の記憶はきちんと受け継いでいかないといけないですよね、教訓として。だって、人間って、誰でもいつでもどこでも、残酷にも無関心にも偏見の塊にもなりうるんですから。