今年のナチス映画のうちで一番、と誰かがSNSで言っていたので観に行きました。『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』(2020年、ロシア、ドイツ、ベラルーシ)。オランダ出身のユダヤ人青年がペルシャ人になりすまし、虐殺から逃れるためにナチス高官に「偽ペルシャ語」を教えつづけるという話です。「偽ペルシャ語」の単語を3000語近く創作し、本当にひとつの言語として確立させてしまうのですが、真実にもとづいた物語なのだそうです。

 

前日、シェフに言いました。

「明日、ナチス映画を観に行ってくる」

「ナチス映画? そんなジャンルあるの(笑)」

 

あるんです。ここ数年、どうやら日本では「ナチス映画」が数多く上映される傾向が高いようで、専門家の話によると月1本の割合なのだとか。確かに、ここ熊本でも年に5、6本は上映されてると思います(もっとかも)。

 

それほどたくさんは観れないんですけど、どういうわけか、わたしは定期的にナチス映画を摂取したくなります。というか、予告編などで紹介されてると「観たいなあ」と必ず思う。ナチス映画を観るには、気合いが必要だし、怖いし、傷つくし、苦しいし、疲れるし、泣いたりして頭は痛くなるし……覚悟が必要ですが、でも観ずにはいられない。時間の都合で全部は無理なんですけどね。

 

観る理由は、歳をとるにつれて変化しました。若い頃は「本当にこんなことが起きたんだろうか」という、信じられない気持ち。ひとつの国家がある民族を虐殺しようと決めて、国じゅうでそれを実行するような常軌を逸したことが、どうして起きたんだろう、と。のちに「ナチスはふつうの人でもなりうるのだ」と理解すると、世の中がひっくり返ったら自分だって加害者になりうるかもしれないという、震えるほどの恐ろしさ。そしてここ最近は(おそらくウクライナ侵攻以降は)、「生死の選択を突きつけられた時も、自分は大事なものを守りぬけるのか」という自問。

 

『ペルシャン・レッスン』は、わたし個人のナチス映画上位にはなりませんでしたが、ラスト数分は大きく心揺り動かされました。そして、主人公を演じたナウエル・ペレーズ・ビスカヤートがよかった。セリフもそれほど多くなく、ジェスチャーも大きくないのに、表情やちょっとしたしぐさだけで、複雑な感情や揺れる心理状態(恐怖、不安、罪悪感、諦め、希望、悲しみ、憎しみなど)を見事に表現してます。

 

ちなみに、わたしのなかのナチス映画第一位は、『手紙は憶えている』アトム・エゴヤン監督(2015)。二位は『ジョジョ・ラビット』タイカ・ワイティティ監督(2019)です(三位はまだ未定)。

 

映画を観る直前、時間つぶしにスタバで本を読んでいたら(ナチス関連ではない)、ドイツで1941年に製造された「エリカ」というブランドのタイプライターの話が出てきました。その本の主人公が使っているタイプライターで、アンネ・フランクの父のオットーが、オランダ語で書かれた娘の日記をドイツ語に翻訳するのに使っていたのだそうです。

 

すると映画の中で、強制収容所で働くナチス親衛隊(SS)たちが休日にピクニックを楽しんでいて、そこでみんなで歌っていたのが「エリカ」という曲でした。花の名前と女性の名前をかけた、祖国に残してきた恋人を想う歌で、第二次世界大戦中にSSの間で流行したのだそうです。

 

映画鑑賞後、花のエリカをググったら、ピンクや白などの小さな花が密集して咲く、可憐な植物でした。

 

タイプライターのエリカをググったら、すっきりした形の黒いボディに円形の白いキーが整然と並び、右端のTABキーだけが赤い差し色になっていました。どことなくアンティークのアコーディオンを思わせる、美しい道具でした。

 

『アンネの日記』を初めて読んだのは中学生の時で(おそらく抄訳版)、当時はアンネに対して反発のような思いを抱きました。今となってはなぜそんな感情を抱いたのかよくわからないのですが、おそらくそれまで読んでいた小説の主人公とアンネがまったく違っていたせいだと思います。わたしがそれまで知っていた主人公たちは、素直で、やさしくて、明るくて、謙虚で、他人を悪く言ったり妬んだりしない「完璧」な女の子たち。でもアンネはあまりにもふつうの女の子でした。自己主張が強くて、時に生意気で、時には他人の悪口を言ったり、気分にムラがあったり、熱中したかと思えばすぐに飽きたり……ちょうどアンネと同じ年頃だったわたしは「なんだかこういう子とは友だちになれそうにないなあ」と思ったのです。

 

ナチスのことをまったくわかっていなかった時代。

 

幼稚で未熟で、自分と、自分のまわり半径数メートルのことしか考えていなかった時代。

 

再読したのはかなり遅くて、2003年の30代後半、熊本に移住する一年前でした。しばらく行けなくなるだろうからと、ひとりでヨーロッパを旅した時のことです。アムステルダムに滞在中、アンネ・フランクの家を訪れると、博物館に併設された書店に世界じゅうのことばに翻訳された『アンネの日記』が売られていて、日本語の『アンネの日記 増補新訂版』(深町眞理子訳、文春文庫)も置かれてました。この時まで『アンネの日記』によい印象はなかったものの、翌日の帰国便で読む本がなかったので、軽い気持ちで購入しました。

 

結果、中学時代の自分はなんだったんだ、と激しく自己嫌悪に陥るはめに。夢中になって、成田まで一睡もせずに丸一冊一気に読みきってしまいました。

 

 

思えば、「ナチス映画」を積極的に観るようになったのはこれ以降だったような気がします。それ以前の『ライフ・イズ・ビューティフル』『シンドラーのリスト』『戦場のピアニスト』などは、ナチス映画としてではなく、話題作や名作として観ていたので、心持ちが全然違ったんです。

 

アンネ・フランクは、〈隠れ家〉という閉ざされた環境で自分に向けてことばを綴りながらも、心は世界(未来)へ向かっていました。一方、SNSやブログという開かれた環境でことばを綴るわたしは、形式的には世界とつながっていながら、心はむしろ自分に向かっています。

 

アンネがもし今の時代に生きていたら、世界に向けて、未来に向けて、どういうことばを綴っていたのでしょうか。

 

 

アムステルダムのアンネ・フランクの家で買った『アンネの日記』。アンネ・フランクの家のシールがついてます。

 

 

そして、新しい訳書が出ました。ウクライナ料理書です。ウクライナのことを考えつづけた半年でした。ヘルソンのスイカが食べたい。

アマゾンで買う。

 

実は今、ナチス関連の小説を訳しています。わたしの性癖(?)に刺さりまくりの一冊です。よい本に仕上がるように頑張ります。