今日、パンに関するエッセイ集を読んでいて、自分にとっての思い出のパンってなんだろう、とふと考えました。

 

なつかしく思い出すパンはいくつもありますが、やはり一番はコロッケパンかもしれません。

 

小学3年生当時、わたしは金づちでした。小学1年生の夏、母親に連れられて幼なじみたちと行った朝霞スイミングスクールが超スパルタで、足がつかないプールに泳げない子を無理やり突き飛ばす教え方をしていたので(今ならありえませんね)、怯えたわたしはプールが苦手になってしまいました。幼なじみのなかにはそのやり方で実際に泳ぎをマスターした子もいたのですが、わたしはすぐに辞めてしまいました。号泣しながら、親に「行きたくない」と訴えました。子どもながらに「死の恐怖」を感じていたのです。

 

しかしそれから2年、同級生たちはみな確実に泳げるようになっていました。このままじゃいけない。わたしは危機感を募らせました。

 

そんな時、クラスメートの女子ふたりが、田柄スイミングクラブというところに通っていると小耳に挟みます。別のクラスメートが「わたしも行きたい。一緒に行こうよ」と誘ってくれて、どうやらそこはスパルタではないようだったので快諾。親の承諾も得て、週一回、放課後に通うことになりました。

 

当時住んでいたのは、東武東上線沿いの上福岡駅から徒歩10分の団地。上福岡駅から7駅目(当時)の下赤塚駅で降りて、歩いて10分ほどのところに田柄スイミングクラブはありました。小学3年生の子どもが、親の付き添いもなく電車に乗ってスイミングクラブに通っていたのだから、呑気な時代でした。

 

すでに通っていたクラスメートふたりは「自由形25m」というクラスにいましたが、わたしは「水なれ」「浮き身」の上の「けのび」クラスからスタート。一緒に入った友だちはわたしより泳げたので、その上の「バタ足」クラスに振り分けられました。

 

その後、長く通っていたふたりの子たちは、ターンを学べる「自由形50m」クラスに進みます。一緒に入ったもうひとりの子も、「板キック」から「息継ぎ」へと順調にクラスを上げていき、「自由形」まであと一歩に。ところが、長く通っていた子たちは「このくらい泳げればもう十分」と、さっさとクラブを辞めてしまいました。

 

すると、4人でわいわい通うという楽しいモチベーションがなくなり、きっともともとあまり泳ぎには興味がなかったのでしょう、残ったもうひとりの子のテンションがだだ下がりに。毎回「行きたくない」「もうやめたい」と愚痴ばかり吐くようになりました。

 

一方のわたしは、誰よりも覚えが悪く、泳ぎも下手なのに、クラブ通いが楽しくてしかたがありませんでした。朝霞スイミングスクールの恐怖の記憶が鮮明だったせいか、水が怖くなくなったことが嬉しくて、「早くキックがしたい」「息継ぎができるようになりたい」「クロールがやりたい」と、目標達成に向けてやる気満々。そして何より一番の楽しみが、帰り道のコロッケパンの買い食いでした。クラブが終わるのが午後7時半ごろ。水の中で運動してお腹が空くだろうと、親が電車代と一緒にパン代を持たせてくれたのです。クラブのそばの小さなパン屋で売られていたそのパンは、ロールパンにコロッケ、千切りキャベツ、ソースを挟んだものでした。パンをくるんでいたラップを丁寧に剥き、ふんわり柔らかいパンとところどころソースに濡れたさくさくのコロッケにかじりつきながら、下赤塚駅までの夜道をてくてくと歩きました。耳の中にまだ水が残っていて、咀嚼するたびに耳の奥で「しゃくしゃく」と大きな音がしました。揚げ油と塩素の匂い。水の中で運動したあと特有の、全身にまとわりつくけだるさ。

 

そのうち、残ったもうひとりの子も辞めてしまい、わたしはひとりきりで田柄スイミングクラブに通いつづけました。

 

そのあとのことは、なぜかあまり覚えていません。クラブで別の友だちができたのか、コロッケパンをその後も買いつづけたのか、どういうわけかすっかり忘れてしまいました。

 

覚えているのは、泳ぎを覚えるのがやたらと遅かったわたしも、「好きこそもののものの上手なれ」ということわざどおり、バタ足、板キック、息継ぎ、自由形25m、自由形50mへと、のろのろながらも進級しつづけたこと。やがて、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライもどうにかマスターして、個人メドレーのタイムを伸ばしたり、1日数千メートルを泳いだりする、週3回の「選手コース」へと進みました。中学に進学すると、当然のように水泳部に入部。中一の夏、得意種目のバタフライで地区大会に出場して総合7位になりました。

 

水泳とのこうしたつきあい方は、のちのわたしの人生の歩み方を予兆していました。不器用で、覚えが悪く、上達が遅くて、才能やセンスのかけらもない。でも、他人の何倍もの時間をかけることで、まあどうにか使える程度にはものにしていく。

 

フランス語がそうでした。わたしはフランス語の上達がとても遅かった。記憶力がなくて、語学のセンスも才能もなくて、まわりの人たちよりフランス語をマスターするのに時間がかかりました。でも、フランス語の本を不自由なく読めるようになりたい、翻訳をしてみたい、と、ずっとあきらめずに願ってました。

 

翻訳コンクールやトライアルを何度も受けては落選しました。でも数年後、とりたてて目を引く巧みさはなくても、まあ許容できる程度のレベルには達したということで、ほぼお情けで翻訳のワークショップに入れていただけました。その後、ようやく翻訳デビューが叶い、でもしばらくは鳴かず飛ばず。ワークショップの同期たちの活躍を「すごいなあ」と遠くで見守るばかり。今のように年間3、4冊の訳書を刊行できるようになるまで、そうとう時間がかかりました。

 

……コロッケパンの話をするつもりだったのですが(恥)。

 

今、コロッケパンを食べる機会はほとんどありません。でも、あのコロッケパンの味の記憶は、プールの塩素の匂いの記憶と、からまるようにして混ざり合いながらずっとわたしのなかに残っています。おそらく、この先も死ぬまでずっと。

 

そして、コロッケパンといえば水泳、水泳といえばフランス語、そして自分の要領の悪い人生につい思いを馳せてしまいます。

 

 

※このブログを書くために、田柄スイミングクラブを初めてググってみましたが、昭和47年創業で52周年を迎えた今年、閉館が決定したそうです。

 

 

毎日新聞に江國香織さんが載せてくださった『悪なき殺人』の書評、とても嬉しかったです。

 

クロワッサンには『シェフ』の書評を載せていただきました。

 

友人の荒木伸二監督2作目の長編映画です。熊本では4月19日にDenkikanにて公開されます。観るのがすっごく楽しみ。すでに公開された地域ではかなり好評のようです。皆さまもぜひ!