ずっとデジャヴ感が消えません。戦争はいつも同じ顔をしている、と理解していたつもりでいたのに、初めて実感したような気がします。

 

たとえば以下は、1940年、ポーランド出身、ベルリンで書店を営んでいたユダヤ人女性が、ナチスによる迫害から逃れて、学生時代を過ごした第二の故郷のパリへやってきた時の手記。

 

 

 フランスでは、戦争が近づいているとは誰も考えていなかった。パリには都会の空気が漂っている。わたしは心の底からほっとした。いつポーランドに帰省しようかとすら考えはじめた。

 深刻な危機が迫っていながら、パリはいつも通りに見えた。忙しげで、カラフルで、活気に溢れている。

 カフェのテラスで、道端で、パリジャンたちは戦況について話し合った。メトロでは、乗客たちが隣の人の読んでいる新聞を肩越しに覗いた。誰もが話したがり、知りたがった。事情通そうな人から詳しい最新情報を聞いた人は、通りすがりの人たちにもそれを知らせた。みんなが立ち止まり、耳を傾け、顔を見合わせ、おしゃべりをした。

(中略)

 人々は平和を心の底から望んでいた。フランス人はよいほうに考えようとしていた。〈去年だってもっとひどいことになるかと思っていたのにどうにかなったのだから、今回も大丈夫さ〉 まるで流行歌のフレーズのように誰もがそう口にした。

(中略)

 ラジオでは絶え間なく、殺戮、銃撃戦、爆撃、破壊、大量虐殺などの恐ろしいニュースを報道していた。その日の最新情報はいつも食事時に放送された。人々は残酷で血なまぐさいニュースを聞きながら、食べたり飲んだりするのにすっかり慣れてしまった。

(中略)

 春のよく晴れた日だった。

 わたしが乗ったタクシーは、パリの街を東から西へ向かって走っていた。セーヌ左岸は重苦しい雰囲気に包まれている。だが、その素晴らしい街並みは地平線のずっと向こうまで続いているかのようだった。

 今まで見た中で一番美しい、とわたしは思った。圧倒されるほどの威厳に満ちていた。この街から離れなくてはならないのが身を裂かれるようにつらかった。

 バスティーユ広場に差しかかると、タクシーはややスピードを落とした。わたしは何事かと思わず動揺した。すると、上品な身なりをした若い女性が突然タクシーのステップに足をかけ、ドアノブを握りしめた。

「マダム、ごめんください」と言いながら、まるでパーティーで出会ったかのような魅力的な笑顔を浮かべる。「お車の予約をさせていただきたいの」

 リヨン駅前は人が溢れかえっていて、わたしは坂道の手前でタクシーを降りざるをえなかった。近くにいた酔っぱらいが荷物を運ぶのを手伝ってくれた。意外にもてきぱきと動いてくれたのでとても助かった。

 三十分後、わたしは友人と列車の中にいた。

 車窓から見る田園はのどかだった。穏やかで、心なごむ眺めだ。こんなにも素晴らしい景色がここにはまだ存在している。わたしたちはほとんど話をしなかった。ふたりとも、侵略され、破壊された国々に想いを馳せていた。フランスにもあの闇夜がもうすぐ訪れる。

 三日後、パリが爆撃を受けた。犠牲者は千人以上にのぼった。

 フランスで戦争が始まった。ドイツ軍がパリに近づいていた。

 

"Rien où poser sa tête" Françoise Frenkel (拙訳)

 

 

そして以下は、1791年7月17日のあるパリ市民の日記。のちに「シャン・ド・マルスの虐殺」と呼ばれるようになった事件の目撃者です。……戦争、ではないですが。

 

 

 きょうパリに赤旗がかかげられた。

 今朝、市内いたるところの四つ辻に戒厳令がしかれた。晩の七時半から八時にかけて、大勢の民衆がシャン・ド・マルスに集まった。祖国の祭壇(オテル・ド・ラ・パトリ)は正午から早くも人で埋めつくされた。コルドリエ・クラブの四人の委員が、香炉保持者の立つ祭壇の四隅に上がって、民衆に署名を呼びかけた。国民議会が昨日金曜日に発表した国王に対する法令の撤回を要求する請願書への署名である。

 たいていの人は、なぜ署名するかもわからずに、身分や住所は書かず名前だけ書いた。民衆はこぞって署名した。法令が出てしまった以上、こんなことをしてもむだではないかとわたしは思った。七時半か八時頃、歩兵隊と騎兵隊が赤旗をかかげ、太鼓を鳴らしてシャン・ド・マルスに進軍してきた。軍隊は二十人から二十四人の横隊でシャン・ド・マルスに駆け足で入ると、民衆の退去を促すためにまず空に向けて発砲した。わたしがシャン・ド・マルスを出るのと入れ代わりだった。わたしが周囲の木立のしたに入った時、突然背後で銃声が響いた。(中略)わたしより後から逃げ帰った人の話では、女や子供は逃げまどいながら突き倒され、踏みつけられ、多くの死傷者が出たということだ。(中略)

 わたしはあの時シャン・ド・マルスにいたが、群衆は平静だった。ある者は祖国の祭壇に乗り、ある者は散歩を楽しんでいた。そしておだやかに引きあげようとした時、あの凶暴な軍隊がやってきて、無防備の、おとなしい民衆を混乱に陥れたのだ。民衆は怒り、憤った。パリ人たちがこれほど堪えがたい怒りを感じたことはない。

 

『フランス革命下の一市民の日記』セレスタン・ギタール著、河盛好蔵訳

 

 

さらに以下は、1940年代初頭のイタリア・トリノ。イタリア人作家のナタリア・ギンズブルグの自伝。夫のレオーネ・ギンズブルグは反ファシスト運動のリーダーでした。

 

 

 戦争がはじまればみなの生活がたちまちかき乱され、すべてが崩壊に瀕するだろうと私たちはずっと考えていた。しかし、長い戦争の年月に人びとの家の中は目立って乱れることもなく、私たちはそれまでとほぼ同じことをして暮らしていた。やがてだれもがああこれくらいですんでよかった、もうひどい混乱状態もないのではないか、家が潰れたわけでもなく、逃げたり迫害されたりすることもまあなかったとたかをくくりはじめた矢先に突然、爆弾や地雷がいたるところで炸裂するようになり、家が崩壊し、道路は瓦礫と兵士と避難民でいっぱいになった。ひとりとしてもう知らぬ顔を決めるわけにもいかず、目や耳をふさいでも、ふとんに顔をうずめても、事実を無視することはできなくなった。そういうのがイタリアの戦争だった。

 

『ある家族の会話』ナタリア・ギンズブルグ著、須賀敦子訳

 

日常と殺戮は隣り合わせにある。

 

わたしはどういうわけか、フランス革命、そしてナチスドイツによる戦争における「ふつうの人たち」の変化にずっと大きな興味を抱いてきました。笑って、食べて、遊んで、学んで、好きなことに夢中になって、自由に、穏やかに暮らしていた人たちの生活が、〈独裁者〉によって翻弄されるさまを綴った文章を、恐れ、悲しみ、怒りながら読んできました。

 

そうした人たちの姿を、これまで脳内でずっと映像化してきました。おそらく、だからデジャヴ感が消えないのでしょう。

 

わたしが今一番恐れているのは、慣れてしまうことです。恐れ、悲しみ、怒ることに疲れ、あるいは面倒くさくなり、何も見ようとせず、何も感じなくなり、何も考えなくなってしまうことです、わたし自身が。

 

どうか、目をそらさず、感じて、考えて、動いていられますように。