地球の歴史上、5回の大量絶滅期があったとされてます。通称「ビッグファイブ」と呼ばれています。

 

 

古生代のおよそ4億4500万年前には生物種の85%が絶滅しました。同じく古生代の3億7400万年前には生物種の82%が絶滅しました。どちらも気候変動が原因とされています。

 

 

古生代後期の2億5100万年前、いわゆる「P-T境界」には、地球史上最大の大量絶滅が起きています。三葉虫や床板サンゴを含む、生物種の95%が絶滅しました。大陸同士が衝突しあって超大陸パンゲアが形成され、大気中と海水中の酸素濃度が著しく低下したことが原因とされています。

 

 

中生代の2億年前には生物種の76%が絶滅しました。超大陸パンゲアが分裂したことが原因と考えられています。

 

 

5回目の大量絶滅期(K-Pg境界)は6600万年前に発生しました(こうして見てみると、1回目に比べて最近のように思えてきますね)。恐竜とアンモナイトを含む、生物種の70%が絶滅しました。メキシコ南東部のユカタン半島に巨大隕石が落ちたことが原因とされ、この絶滅期は1000万年間も続いたとされています。

 

 

そして、現在、わたしたちは6回目の大量絶滅期の真っ只中にいます。今回の原因は人類です。人類は地球環境を破壊し、気候変動に大きな影響を与え、有害物質を大量に作りだし、多くの種を絶滅させつづけています。今のところ、規模としては最大とは言えませんが、スピードでは過去の5回に比べてダントツのトップです。K-Pg境界の10万倍の速さで種の絶滅が起きています。このままもし前回のように1000万年も絶滅期が続いたら、地球は火星のように不毛の星になってしまいます。

 

 

なんでこんなことを書いてるのかというと、わたしは過去に翻訳のしごとで3回「ビッグファイブ」を説明する文章を書いています。そのせいで、上の情報はいまやほとんど空で覚えてしまいました。

 

 

地球が誕生したのは46億年前、生物が最初に海から陸に上がったのがおよそ4億4000万年前です。5回の大量絶滅期を除くと、生物種は少しずつ増えてきました。46億年かけて、地球はさまざまな生物が共存する豊かな星に成長してきました。それをたった数百年で破壊しつくそうとしているのが人類です。

 

 

ただ、人類はバカなので、自分たちの破壊行為が自らの首を絞めていることにずっと気づきませんでした。気づいてからも、目先の快楽に溺れて破壊行為をやめられなくなっています。

 

 

自業自得だよなあ、と思います。

 

 

わたしは宿命論者ではないですが(たぶん)、人類の智をほとんど信用していないのかもしれません。

 

 

わたしが信じているのは、地球、そして植物です。きっと地球は大丈夫。人類のひとつやふたつ、どんなに大量絶滅を起こそうが、そのせいで自分たちが絶滅しようが、地球はたぶん大丈夫。そして、きっと植物も大丈夫。地球が再び静けさに包まれても、植物たちは成長し、地表のあらゆる場所に繁栄しつづけるでしょう。

 

 

先日、こういう訳書を出しました。

 

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けっこうこむずかしい哲学書です。今までの訳書で一番苦労しました。一読しただけだと何を言っているのかさっぱりわからないので、多くの資料にあたり、何度も繰り返し読んで、何度もその意味を咀嚼して、自分の脳内でどうにかしてイメージを作りあげてから文章にしました。すごく時間がかかりました。

 

 

いくつか、とても好きな文章があります。

 

 

たとえば、こんな箇所。

 

 

もしも、動かない、感情がない、自給自足している植物の生命を基準とするなら、自分勝手に動きまわったり、感情を抱いて苦しんだりするのは「病気」とみなされるのではないだろうか? このような生命を生きている個体は、自らの限りある生命、本質的な壊れやすさを知っているがゆえに、つねに脅えながら生きざるをえないのではないか?(中略)ドイツの哲学者、フリードリヒ・ヘーゲルは言う。

「生物は、動物のレベルになって初めて〈不安、恐れ、不幸せ〉という感情を抱くようになった。ほとんど未知のものしかない外の世界に脅かされる存在になったのだ」

こうして動物は、外の世界につねに立ち向かわなくてはならなくなった。一カ所にとどまっている植物にはそうしたこととは無縁だ。植物にとっての生きる戦略は、環境に順応し、その環境に強いられたものを受け入れるだけだ。さまざまな困難にぶつかっても、植物が敗れることはめったにない。あっても一時的にすぎない。自分自身の残骸からまた復活できるからだ。

 

 

あるいは、こんな箇所。

 

 

哲学者のルノー・バルバラスによると、「物質代謝という概念を構築するときの手本とされたのは(中略)植物であることはほぼ間違いない」という。「ハンス・ヨナスにとって、植物は生物の手本であり(中略)、動物は、植物に運動機能、知覚機能、感情をつけ加えたものにすぎない。

ヨナスによると、運動、知覚、感情は、植物のように無機栄養吸収と光合成ができない動物に対して「不足するもの」を補うためにつけ加えられたのだという。マックス・シェーラー もこう述べている。

「植物はすべての生物のうちでもっとも偉大な化学者だ。(中略)自分だけの力で、無機物だけを使って、有機体としての自らを成長させる要素を作りだしているのだから」

 

 

植物は、ずっとわたしにとって心癒される存在でした。でも今はむしろ、その姿に背筋を伸ばす思いです。どんなに鬱屈とした気持ちになっても、すくすくと成長する植物たちを見ていると、植物は大丈夫、地球は大丈夫、だから何が起きても「最悪の事態」にはならない、と思います。生命さえ消えてしまわなければ、きっとやり直せる。たとえ何億年かかってでも。

 

 

「精神的な生命」は一枚岩ではなく、その本質的な特徴は壊れやすさにある。行動の自由は、精神のバランスの崩れやすさとセットになっており、そのことは「精神的な生命」を持つ存在がどれほど「自然」から遠いところにあるかを示している。

 

 

自然から遠く離れてしまった人間は、でもやはり自然にはかなわないことを思い知らされます。とくに、たった一日でみるみる緑が成長していく今の季節には。

 

 

 

今年はあと4冊翻訳を手がける予定です。そんなこんなでなかなかブログが書けないのですが、今日みたいにちょっぴり余裕ができた日に、また。

みなさま、お元気で。