おいしい和食を食べたシェフ、「ああ、日本人に生まれてよかったあ」とつぶやきました。

 

 

おそらく「ことば通り」にそう思ってるわけではなく、醤油味、味噌味、出汁を味わった時の「決まり文句」としてそう言っただけなのでしょう。でもわたしのなかのどうしようもない頑なさが、そのことばに敏感に反応します。

 

 

「そう? わたし、日本人に生まれてよかったって思ったこと、そんなにない」

 

 

いえ、それも厳密には本音ではありません。その時に読んでいた本『プリーモ・レーヴィへの旅』(徐京植(ソキョンシク)著)に引きずられたせいです、たぶん。

 

 

でも、わたしはその時こう言ってしまいました。

 

 

「わたし、和食ももちろん好きだけど、なくても生きていける。和食よりフランス料理のほうが好き。音楽はイギリス、絵画もヨーロッパ、街並みもヨーロッパのほうが好き。でも、ことばだけは日本。日本語が一番好き。日本語の読み書きができるようになれたことについては、日本人に生まれてよかったと思う」

 

 

『プリーモ・レーヴィへの旅』を書いた徐京植は在日朝鮮人二世の作家です。京都生まれで、母語は日本語。プリーモ・レーヴィはイタリアのトリノで生まれ育ったユダヤ人。アウシュヴィッツから生還した文学者であり、化学者です。解放後、収容所での体験を『これが人間か』という書物にまとめました。「ドイツ人とは何か」「人間とは何か」をずっと問いつづけた彼は、1987年に投身自殺によって命を絶ちました(遺書がない、など異論はあるようですが)。本書で徐京植は、トリノにあるレーヴィの墓、そして自殺現場でもある自宅のあった建物を訪れています。

 

 

私にとってプリーモ・レーヴィは「人間」の尺度だった。いわば、彼こそがオデュッセウスだった。彼を見よ。人は逆ユートピアを生きのび、帰還して証言することができる。そして「人間」の価値をいっそう普遍的なものに高めるために何ごとかをなすことができるのだ。(本書より抜粋)

 

 

本書には、もうひとりのアウシュヴィッツ生還者が登場します。ジャン・アメリー、本名ハンス・マイヤー。ウィーン生まれ、文学と哲学の学位を持つ知識人でした。

 

 

ここに書かれていたレーヴィとアメリーの違いに、わたしはハッとさせられました。レーヴィの母語はイタリア語です。アウシュヴィッツで受けたドイツ語による激しい罵倒、ドイツ人特有の悪意あるブラックユーモアに傷つき怯えながら、レーヴィは暗唱していたダンテの『神曲』に慰めを見いだします。収容所で『神曲』を想起して暗唱しながら、レーヴィはイタリア文化とのつながりを再び手に入れました。

 

 

頭に刻み込まれているはずの詩句がなかなかよみがえってこないとき、プリーモ・レーヴィは、思い出させてくれるなら命の綱である「今日のスープ」と交換してもいいとすら思ったという。(本書より抜粋)

 

 

一方、アメリーの母語はドイツ語です。19歳になるまでイディッシュ語の存在すら知らず、自らをユダヤ人と考えていませんでした(それはレーヴィも同様でした)。アメリーはドイツ語の言語学者で、ドイツ語を心から愛していました。

 

 

たとえばベートーヴェンを思う。そのベートーヴェンをベルリンでフルトヴェングラーが指揮していた。そして大指揮者フルトヴェングラーは第三帝国の名士だった。(中略)アウシュヴィッツでは、孤立したユダヤ人は、ドイツ・ルネサンスの画家デューラーや二十世紀の作曲家マックス・レーガー、バロック詩人のグリューフィウスや今世紀の詩人トラークルもろとも、全ドイツ文化を一人の親衛隊員に譲り渡さなくてはならなかった。(『罪と罰の彼岸』ジャン・アメリー)

 

 

アメリーは母語であるドイツ語に裏切られ、母語の共同体から追放された。自分に乳を与え、子守唄を唄い、物語を語って聞かせた母親が、ある日突然、お前なんか私の子じゃないといって、自分を殺そうと迫ってくるようなものである。(本書より抜粋)

 

 

そして、徐京植は言います。

 

 

私は? 私の母語は日本語である。植民地支配の結果、朝鮮人でありながら在日二世として日本で生まれ育ったために。もしも私がブナ(IGファルベンの強制労働収容所のこと)のような生き地獄に落とされたら、プリーモ・レーヴィのダンテにあたる拠り所が私にあるだろうか。(本書より抜粋)

 

 

本書を読んでいる間、どういうわけか、わたしはむかしのある出来事を思い出していました。

 

 

1996年1月19日、パリ郊外のとある町。その町にある大きな講堂で、通っていたパリの学校の卒業試験が行なわれました。朝8時半から3時間の小論文試験、そして午後2時から1時間の筆記試験。わたしは試験そのものと同じくらい、パリ郊外の知らない町で2時間半もの昼休みをどうやって過ごそうか、ということにも頭を悩ませていました。

 

 

外国人向けにフランス語と経済学の基礎知識を教える学校で、20人ほどのクラスメートは国籍も年齢もてんでバラバラでした。日本人は他に男の子1人と女の子2人がいましたが、彼らは渡仏したばかりの日本人らしいフレッシュな空気を漂わせていて、すでに渡仏5年が経過して薄汚れた空気をまとったわたしには近寄ろうともしませんでした。一緒に時間を過ごす当てのある友人もなく、講堂のある町はがらんと寂しいところで飲食店も数軒しかないと聞いていたので、いっそのことRER (首都圏高速鉄道)で片道30分かけて一旦パリへ戻ろうか、とさえ考えていたほどでした。

 

 

経緯はよく覚えていません。結果的に、わたしはほかの日本人を除くクラスメートのアジア人女性たちと連れ立って広東料理を食べに行きました。おそらく、比較的よく話をしていた韓国人の女性から誘ってもらったのでしょう。メンバーの出身地は、北京、台湾、香港、シンガポール、韓国(3人)、そして日本(わたし)とバラバラでした。

 

 

会話は主に試験に関するものでした。午前中の小論文はどうだったか、どのテーマを選んで何を書いたか(4つのテーマから2つ選んで小論文を書きます。わたしが選択したのは「中世から18世紀のフランスの歴史」と「フランスの経済・社会地理学」)、午後の筆記試験には何が出ると思うか、翌週の口頭試験の準備は進んでいるか。

 

 

卒業したらどうするのか、といった話もしました。北京の女性は大学で教職に就く予定でした。ほかのみんなもそれぞれその後の進路が決まっていて(大半が帰国して就職する予定でした)、決まっていないのはわたしだけでした。

 

 

食事を終えてもまだたっぷり時間があったので、みんなでカフェに入りました。パリ郊外ならではの昔ながらの小さなカフェで、店内の席がいっぱいだったのでコートとマフラーを着こんでテラス席に座りました。白いプラスチック製のガーデンチェアを移動させて円陣を組み、薄くてぬるいエスプレッソをちびちびとすすりながらみんなでおしゃべりをしました。

 

 

あの3時間を、なぜか今もたまに思い出します。

 

 

それぞれに、日々の勉強、試験準備、アルバイトなどで、異国の都会で忙しい日々を送っていたなか、ぽっかり空いた3時間。知らない町で、毎日顔を合わせてはいるけれど、あまり話をしたことがなかったクラスメートたちと一緒に、凍りつくような寒さの中で青空を見上げました。

 

 

わたしたちはそれぞれの母国で、異なる教育を受け、異なる文化を吸収し、異なる歴史を抱え、異なる伝統を守り、異なる慣習を身につけてきました。でも、目の前の試験に合格したいという共通の目標を抱え、異国で初めて訪れる町で宙ぶらりんの3時間を共に過ごしました。その短い時間、わたしたちは自分たちが抱える文化、歴史、伝統、慣習の呪縛からのがれていたような気がします。そのほんのわずかな時間だけ。

 

 

これはおそらくわたしだけが感じたのではなかったと思うのですが、わたしたちはつたないフランス語で話をしながら、ふだん他のフランス人やヨーロッパ人と話をしている時より、なぜか気持ちが伝わっている気がしました。誰かが一言二言ことばを発するだけで、全員が「わかる」という顔をして頷いていました。フランスでよくあるように、話の途中で口を挟んだり、話題を急に変えたり、自分の話ばかりしたがる人は、そこには誰もいませんでした。

 

 

母語ではないフランス語を使って、わたしたちは確かにつながっていました。

 

 

母語の日本語はおそらく地獄でのわたしの拠り所になるでしょう。でも母語ではないフランス語は、時間と空間を超えた場所で他者とつながる力を与えてくれる。その不思議な感覚は、フランス語の翻訳をしている今も、毎日のように味わっています。

 

 

以下、新しい訳書です(すみません、最後に宣伝で)。

 

亜紀書房

 

皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。