本書内では「教旨」という単語が頻繁に記述されているけれど、「ミッション(使命)」と理解すればいいだろう。2019年7月初版。

 

 

【南朝系】

 私、張勝植は、後醍醐天皇から数えて14代目の南朝の末裔です。ひいおじいさんの明治天皇=基元(きげん)さんは11代目でした。(p.13)

 後醍醐天皇は 『太平記』 に描かれている中心人物で、今からおよそ700年前、鎌倉時代から室町時代へと移り変わる南北朝時代を生きた天皇。

 後醍醐天皇(1288-1339年とされるが没年不詳)は、日本にいる間にもさまざまな活動をした人ですが、52歳、満年齢でいうと50歳で亡くなったとされています。けれども、これは真実ではありません。

 後醍醐天皇は中国、当時の元の国に渡ったのです。そして、その後も中国でいろいろな教旨を実践したのです。

 当時の天皇家にとって、自分の影武者を残したりして大陸に渡る、または大陸、半島から渡ってくる、といったことは、ごく普通のことです。(p.13)

 中丸薫さんのお父様であり明治天皇の子である堀川辰吉郎さんも、孫文に協力して中国を守る側で懸命に働いていたことが、下記リンクに書かれている。天皇家に関わる人々は、おしなべて国境を越えて活動していたらしい。
  《参照》  『日本人ならぜったい知りたい十六菊花紋の超ひみつ』中丸薫/ラビ・アビハイル/小林/久保《後》
          【辛亥革命の一翼を担った方】

 

 

【大韓民国の建国は、天皇家の事業?】

 私のひいおじいさんの基元さん、明治天皇ですが、「韓国併合」を前にして、日本に影武者を残して朝鮮半島に渡ったのです。そういうことが「天皇の教旨」として、ふつうだったのだと思います。(p.17)

 日本にいた影武者が「表天皇」で、朝鮮半島に渡った本者の明治天皇が「裏天皇」。

 そして、私のおじいさんの仁錫(じんしゃく)さんが、大韓民国を建国する、という現代の歴史につながりました。1948年の8月15日が、大韓民国の建国の日で、仁錫さんは、建国を記念する「大韓民国樹立祝賀会」の記念写真で、李承晩初代大統領の隣に立っています。・・・(中略)・・・。

 天皇家の血脈の人たちは、古代から大陸と半島、日本を自由自在に往来して、それぞれの時代に必要な「事業」を「教旨」に基づいて行ってきたんです。

 同じように、後醍醐天皇も、南北朝の対立という困難の中、思うところがあって中国に渡ったんです。それは「軍隊をつくる」という「教旨」でした。(p.17-18)

 

 

【チャンキ】

 神武天皇が日本に渡ってきた最初に着いたところが九州の長崎のあたりでした。不思議なことに、長崎はハングルで「チャンキ」と読むんです。それが「張家(チャンキ)」と同じ読みなのです。(p.15)

 

 

【九州の南朝勢力】

 南北朝が九州で対決した、有名な筑後川の戦い(1359年)では、・・・(中略)・・・南朝軍が勝利したんです。

 そこから、南朝が太宰府などを押さえた。(p.22)

 その後、九州の南朝勢、懐良親王の勢力は、太宰府から撤退した後も、1372年ごろまで福岡県久留米市の高良山などを拠点として南朝の影響力を行使していました。

 実は、その影響力は、中国の明にまで及んでいたんです。

 明朝によって「日本国王」として「柵封」されるという形で、南朝が「日本の正式な代表」とみなされるほどでした。

 そのため、その後、足利義満の日明貿易(勘合貿易)をおこなうときにも、しばらくは、明朝による懐良親王の呼び名である「日本国王・良懐」の名義を使ったほどです。

 明朝にとって、懐良親王の南朝勢力が日本の正式な政府だったわけです。(p.23)

 

 

【後醍醐天皇が伝えた「明教」で華南を統一した「明朝」】

 元の終わり、1350年ごろに起こったのが白蓮教徒の紅巾賊の蜂起で、その中から出てきたのが朱元璋です。朱元璋は、「明教」の旗印の下に華南を統一し、1368年に南京で「明」の初代皇帝に即位しました。新しい元号を「洪武」としたので、のちに「洪武帝」と呼ばれます。

 明教は、本来のゾロアスター教の流れをくむ宗教で、その後にササン朝ペルシャで変質したゾロアスター教ではない、もともとの教義を持つ宗教=マニ教です。

 このゾロアスター教が、古代ペルシャに起源を持つ宗教で、古代アーリア人、シュメールともつながるものなのです。(p.31-32)

 唐代に栄えた三夷教(3つの夷=外国の宗教)は、

 明教(マニ教=正統ゾロアスター教)

 祆教(ササン朝ペルシャで変質したゾロアスター教)

 景教(ネストリウス派のキリスト教)

 後醍醐天皇は、この明教の教えを伝える先生になったんです。・・・(中略)・・・。

 後醍醐天皇の本当の目的、それは、「軍隊」を作るためだったんです。朝鮮半島の高麗が元とともに、北九州に攻めてきましたよね。それが蒙古襲来(元寇)ですね。この出来事は日本にとって大きなショックでした。

 後醍醐天皇は、高麗に対抗する軍隊を中国で編成しようと考えたんです。そして、明教を利用した。

 日本を守るためには、南北朝で争っている場合ではない、そういう風に考えたのだと思います。・・・(中略)・・・。朱元璋に教えたのが、後醍醐天皇の息子だった。(p.32-33)

 明朝に関わるこの話は、下記リンクにつながってくるだろう。

  《参照》 『新説2012年 地球人類進化論』中丸薫・白峰(明窓出版)《前編》

         【古代ユダヤと秦一族の繋がり】

  《参照》 『「日本」を超えろ』福田和也(文芸春秋)

         【明朝と江戸幕府】

  《参照》 『これが闇の権力イルミナティの内部告発だ!』ベンジャミン・フルフォード(青志社)《中編》

         【中国のフリーメーソン】

  《参照》 『地球維新 ガイアの夜明け前』白峰(明窓出版)《後編》
         【仮面の告白】

 

 

日光東照宮

 後醍醐天皇のあとの「10代の天皇」が、東照宮に祀られているんです。「南朝」と、家康公、つまり、徳川幕府はつながりがあったわけですね。きちんと祀ってあるんです。(p.72)

 日光東照宮のご本尊は、表向きは家康公なんですが、実は、「真光(まひかり)」がご本尊なんです。

 真光とは、シュメールの神・「エル」のことです。

 東照宮には、「全国東照宮連合会」という組織があって、50社近くがそこに加盟しています。北海道から九州まで各地に加盟社があるのですが、東照宮という名称ではない神社もたくさんあります。

 中には、東京・府中の「大國玉神社」といった2000年近い歴史を持つ神社も加わっているんです。この神社は、武蔵国の一宮(一之宮)ですから、古代からの総社です。(p.70)

 南朝は、シュメールを起源とする血流にある、と言っている。

 本書には、府中の「大國玉神社」と書かれているけれど、グーグルマップでは「大國魂神社」となっている。

 

 

【世界國體】

勝植  後醍醐天皇以降の天皇家は、みんな「犠牲の精神」で日本を守るために「教旨」の通りに動いたんです。

 日本だけの「國體」やアジアの事情だけではなくて、「世界國體」を考えて、世界の天皇として「軍事力」を考える「教旨」ですね。

 守るための「軍事」を教旨に従って構築しようとしてきた、その中で、後醍醐天皇の子孫は、犠牲になってきたということです。(p.39)

 なにしろ、激動続きの時代でしたから、「世界幕府」を構築するという大きな「教旨」に基づいて、張家の祖先は、欧米を渡り歩いたんです。

――― そして、最後に長州の「山家」である田布施に、ひいおじいさんの基元さんがやってきた。

 そのころの写真が「フルベッキの写真」ですね。

勝植  この写真に集っている長州藩を中心とした人たちが、明治維新で大きな役割を果たすわけです。南朝の天皇を立てるという、五百数十年越しの大事業を、長州藩の山家から始めたんですね。

 張家は、その動きを「世界幕府」構築の中で受け止めて、明治維新と、南朝天皇の即位という、長年の「教旨」を現実のものとした。(p.41-42)

   《参照》   『日本人ならぜったい知りたい十六菊花紋の超ひみつ』中丸薫/ラビ・アビハイル/小林/久保《後》
             【幕末混乱期の日本を守ったフルべッキ】

   《参照》   『なぜ日本中枢の超パワーは「天皇」なのか』 中丸薫・ベン・アミー・シロニー 《前編》

             【孝明天皇と明治天皇の間】

 

 

【オベリスクのある甲府城(舞鶴城)で大嘗祭】

鶴見  明治天皇は、即位してその年に行うはずの大嘗祭を明治4(1871)年に、山梨の甲府で執りおこったんです。・・・(中略)・・・。

勝植  甲府のお城の跡で大嘗祭を執りおこないました。

鶴見  甲府城は、「舞鶴城」と呼ばれ、今では城跡と、いくつかの櫓が再現されている状態ですが、その城内でおこなったわけです。

 舞鶴城には、その遺構なのか、変わったものがあるんですよ。なんと、古代エジプトの「オベリスク」と全く同じ形状の塔があるんです。(p.75-76)

 「舞鶴城」に立つ「オベリスク」という、ヘンテコリンな組合せの理由は、“明治天皇即位の大嘗祭が行われた場所” であることと、下記リンクにある “大嘗祭の意味” を理解すれば、分かるでしょう。

   《参照》 『光と闇 二元の統合』サアラ(徳間書店)《後編》

          【「大嘗祭」は「死と再生の儀式」】

          【ミルラ】

   《参照》 『封じられた日本史』保江邦夫(bio)《前編》

          【祝之神事(はふりのしんじ)の歴史】

   《参照》 『願いをかなえる「縄文ゲート」の開き方』保江邦夫(bio)《前編》

          【祝之(はふりの)神事=ハトホルの秘儀】

 

 

【秦氏:エジプト⇔高句麗⇔日本】

勝植  日本の城の「大天守」、いわゆる天守閣は、実はピラミッドからきている、ということ。エジプトでピラミッドをつくった人たちの末裔が「秦氏」だということです。エジプトからはるばる高句麗にきて、そこから日本にきているんですよ。(p.157)

  《参照》 『縄文八咫烏直系! 吉備太秦と世界のロイヤルファミリーはこう動く』板垣英憲(ヒカルランド)

         【秦ファミリーはエジプトを後にして、中国で「夏」を建国した】

         【夏⇒(秦⇒高句麗⇒新羅経由)⇒出雲⇒備中】

  《参照》 『失われたメシアの神殿「ピラミッド」の謎』飛鳥昭雄・三神たける(学研)《後編》

         【エノクが著した『知識の書』とピラミッドの閉じた玄室】

         【『知識の書』とモーセ】

         【日本とエジプト(中東)との深い関係】

 

 

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