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 今頃になって『太平記』の概要を改めて勉強してしまった。興味のある中学生くらいなら、十分よく知っているような内容を書き出しておいた。

 

 

【『太平記』の内容 】
 『太平記』は軍記物の中でも『源平盛衰気』に次ぐ長編で、南北朝の内乱を克明に描き出しています。戦乱の叙述に終始する書に『太平記』という反語的な名をつけたのは、作者の意図が興亡のドラマを通して “太平” を追求ところにあったからでしょう。

 

 

【『太平記』が記述している期間 】
 後醍醐天皇即位の文保2年(1318)二月に始まり、後光厳天皇の貞治六年(1367)十二月まで50年間の動乱が描かれています。
 歴史上の時代区分は、鎌倉時代(~1333)、建武の中興(1333~1336)、南北朝時代(1336~1392)、室町時代(1392~)。南北朝時代を室町時代前期としている書籍もあります。

 

 

【 主な登場人物たち 】
★★ 北条高時 ★★
 鎌倉幕府14代目の執権。田楽や闘犬などの遊興にふけってばかりいて、犬を通すために人間を通行止めにしたりするほど闘犬に入れ込んでいたオタンコナスの 「イヌおじちゃん」。後に、新田義貞の鎌倉攻めにあい自刃する。

 

 

☆☆ 後醍醐天皇 ☆☆
 鎌倉幕府斜陽の時期に即位し、「この国を再び王朝の手で統一すること」を胸に描きつつ、多くの善政を行ったけれど、一方では狷介な野心家としての一面を持っていたとも書かれている。
 北条高時からの危害を逃れるために、三種の神器を持ちオカマになって六波羅探題の警備を潜り向け、京の都を脱出したり、後に吉野に逃げ伸びたりで忙しかった。最後はちょっと悲しい亡くなりかただった。

 

 

☆☆ 楠正成 ☆☆
「木陰の南の向いた場所に座れ」という後醍醐天皇のみた夢から、木の南 ⇒ 楠(くすのき)という名の武士として呼び出された人。帝を守り倒幕のために捨て身で戦った「誠実なおじちゃん」。
 赤坂城や千剣破(千早)城の戦いでは、城から石や大木を落としたり、油をまいて火をつけたり、熱湯をまいたり、ウンチやオシッコを撒いたり、とてつもなく面白い戦法をジャンジャン使った。数的不利をものともせず、奇策奇計をもって幕府軍を翻弄しまくった。
     

         
☆☆ 新田義貞 ☆☆
 東国(関東)の武士。楠正成の抗戦によって千早城がなかなか陥落しないのに業を煮やした北条高時によって、援軍に行くよう命令を受けたけれど、北条家(鎌倉幕府)の終わりを予感していた新田義貞は朝廷側につくため、葛城山中に行き後醍醐天皇の子、大塔宮に合う。大塔宮から勅書を受け取った義貞は、上野(こうずけ)の国(現群馬県)に戻り、挙兵の機会をうかがいつつ、やがて高時に留めを刺す役割を担うことになる。
 海と山に守られた鎌倉を攻める時、天祐なりしか、大きく潮が引き、義貞軍は稲村ケ崎の遠干潟を駆け抜け鎌倉の街に攻め入り、北条高時を自刃に追いやった。

 

 

☆★ 足利高氏(尊氏) ★☆
 帝の征伐どころか隠岐脱出に驚いた北条高時によって、出陣を命ぜられた高氏だったけれど、最初から新田義貞と同様に帝側につくつもりだった。幕府軍の指揮官でありながら陣頭指揮をとらず、桂川で幕府軍の敗北を見定めた高氏は、源氏ゆかりの社・篠村八幡宮(京都府亀岡市)に倒幕成就の願書を奉納し、六波羅(幕府側の警察みたいなもの)攻撃に向かった。同じ頃、新田義貞が鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は倒れ、建武の中興(後醍醐天皇による新政)がなった。
 後醍醐帝は功績の大きかった高氏に関東八カ国の支配権と、帝自身の諱(いみな)尊治の一字を与えた。以後、高氏は尊氏と名乗った。
 尊氏が祈願した八幡神は日本を守る軍神。大局的な時代の仕組み人として、足利尊氏が使われたのかもしれない。『太平記』から感じ取れる足利尊氏は、どう見たって「嫌~~~な奴」なのだけれど、正神界の軍神である八幡様は、敗者の無念を掬いあげる心根を持つ者だけしか尊ばないはずである。

 

 

☆☆ 大塔宮護良親王 ☆☆
 後醍醐天皇の第三皇子。建武の中興がなって、征夷大将軍に任じられた大塔宮は、私兵をたくわえ、武術の訓練に励んでいたけれど、私兵が尊氏の兵によって惨殺され晒し首にされたらしい。
 大塔宮は父・後醍醐帝に対して再三尊氏征伐を要請したけれど、帝は軍功あった尊氏を信頼していて応じなかった。そして大塔宮は尊氏の奸計によって鎌倉二階堂の土牢  (現在の鎌倉宮 に幽閉され、間もなく足利の刺客によって無念の死をとげてしまったのである。享年28。

 

 

【味方が敵に(南北朝時代まで)】
 足利による大塔宮殺害の事実を知った帝は、新田義貞に足利尊氏追討を命じ、尊氏は一時筑紫(九州)にまで落ちて行くが、やがて形成が逆転し盛り返してゆく。
 帝は楠正成を兵庫・湊川に送り新田義貞と共に尊氏迎撃を命じた。楠正成はシャーマン的な能力を有する人だったから、この戦から生きて帰らぬことを知っていた。知っていながら天皇家を守る義に赴いたのである。正成は、激戦の末、足利軍に敗退し、最後は弟・正季(まさすえ)と刺し違えて果ててしまった。
 菊水紋は、楠家の家紋。第二次世界大戦における、戦艦大和が向かった最後の戦は、楠正成の家紋に因んで「菊水作戦」と命名されていた。
  《参照》  『「大和」とは何か』日下公人・三野正洋(ワック出版)

           【ヌード vs 菊水】
 湊川の戦いを制し入洛した尊氏は、帝への変わらぬ忠誠を誓い、叡山へと逃れていた帝の還幸を進言した。帝はかつて尊氏が同様の手口で北条高時を裏切った事実を知る由もなかった。
 これを受け入れた帝に失望した新田義貞は、北国越前へと落ちていった。
 帝は、尊氏の企みにまんまとはまり、花山院の古い宮殿に幽閉される身となってしまった。帝は、家臣・刑部大輔景繁の手引きで花山院を脱出し、吉野に逃れた。
 以後の57年間を、歴史上、南北朝時代と呼び、吉野(南朝)と京都(北朝)の長い抗争が始まるのである。

 

 

【太平の実現】
 上述してきたように、朝廷側につき鎌倉幕府に留めを刺し「建武の中興」をなした、足利尊氏、新田義貞、楠正成の三人は、その後、足利の寝がえりによって、互いに戦うことになったのだけれど、楠正成は、既に湊川の戦いで亡くなっており、新田義貞も間もなく討たれ、その首は京の陽明門にさらされたという。そして、延元三年(1338)8月16日、朝敵を呪いつつ後醍醐帝も崩御してしまった。
 寝返った足利尊氏は、室町幕府(1305~)を開いていたけれど、世に再び平穏が訪れたのは、室町幕府三代将軍・足利義満の頃だった。その頃になって京の都には 金閣寺 のような絢爛たる室町文化が花開き、さらに八代将軍・足利義正が 銀閣寺 を作り、これによって日本的美意識の原型ができたのである。

  《参照》 『京都の秘密 経営の絶対ヒント 深見所長講演録5』(菱研)

         【日本的美意識と銀閣寺】
 でも、義正の頃、再び戦乱(応仁の乱)の種が撒かれてもいた。だから本当に長期間にわたって保たれた 「太平の世」 は、戦国(安土桃山)時代を経た後の江戸時代だったのかもしれない。

 

 

<了>
 
《大塔宮を描いた小説》 
 
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