《前編》 より

 

 

【熊楠の脳力】
 熊野の山中にあったとき、熊楠は「文献も何もなくただ闇に向かった」という。
 現代人は、情報過多と情報欲求過剰の中で・・・中略・・・十分まともに沈思黙考することなどないのではないか。物事の本質を考える「脳力」の衰えについて、熊楠を注視してある種の焦燥感を覚えるのは私だけであろうか。(p.102)
 著者は、「能力」ではなくあえて「脳力」と書いているのだから、熊楠の異才が「脳力」によることを知っていて書いているはず。
 著者がどのような意図で、「能力」と「脳力」を使い分けているのかわからないけれど、「能力」の基盤は「表面意識」、「脳力」の基盤は「潜在意識・深層意識」と区別すればいいだろう。扱う情報量及び処理速度に格段の差がある。従来通りのコテコテ地球人と、進化した地球人(宇宙人)ほどの差である。
 世界中至る所で「さまよえる日本人」に出会う。自称「芸術家」「研究者」は枚挙にいとまがない。しかし、私が語り合ってみての大部分の実感は、結局何一つ収斂させる意思も「脳力」もなく、ただ行きがかりとして海外に生活しているだけの群れで、「薄っぺらな似非国際人」を集積させているだけのことである。熊楠の存在自体が我々の在り方にとっての問題提起なのである。
  《参照》  『スターピープル vol.45』(ナチュラルスピリット)《後編》
           【南方熊楠と柳田圀男】

 「脳力」ついでに視点を変えて勝手なことを書いておくのだけれど、チャンちゃんは、IQ=EQ(知能指数=感情<共感>指数)という方程式を信じている。物質過程の二元性世界は善悪が混交する世界なので、IQ=EQ は明確に成り立たないけれど、ある程度地球の周波数が上昇すれば、二元性仕様の法則は、悪の存在を許容できない法則へと変容してゆく。なぜなら一元性のエネルギーの根本は「愛」だからである。「愛」に則さない在り方は、自死を招くだけである。
 二元性世界では、「因果応報」「善因善果」「悪因悪果」「天網恢恢疎にして漏らさず」と言いながら、それらは、実質的には道徳的な教えとして保たれている程度だった。しかし、周波数が高まってゆく世界において、それらはもはや道徳ではなく、まさに自然法則として明確に自覚されるようになってゆく。つまり、道徳も正義も語られる必要はなく、それらは自然法則の中に吸収されるのである。
 故に、高いレベルでEQ=IQを持つ人々が世界を牽引するようになり、高度な社会へと進化が加速してゆく。
  《参照》 『プレアデス1 魂の故郷への帰還』愛知ソニア(ヒカルランド)《後編》
          【今後の地球において、“自由意志”が機能する条件】

 

 

【ヒトラーとムッソリーニ】
 ムッソリーニ自身が述べているごとく、この人物に深く影響した思想はニーチェであった。決して世紀末の思想家ニーチェの苦悩を本質的に理解していたとは思えないが、ニーチェの「力への意志」や「超人思想」は、ムッソリーニにとって飽くなき権力志向・上昇志向、弱者否定を正当化する好ましい論理と曲解され、驚くべき自己陶酔と敵対者を抹殺する「積極的ニヒリズム」の思想的支柱になったのである。
 『ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡』という興味深い本がある。・・・中略・・・。二人と面識のあったポンセは、この本の解説の中でヒトラーとムッソリーニについて面白い比較分析をしている。「ヒトラーが直感的知能を持つのに対し、ムッソリーニは演繹的知能を備えている」と述べ、ヒトラーは教養が低く、・・・中略・・・、ムッソリーニは少なくともインテリで、・・・中略・・・。二人の関係は、常にムッソリーニが先輩、目上、師であり、あらゆる意味でナチズムはファシズムの模倣であった。(p.148-149)
 「なるほど~」と、今さらながら思いつつ読んでいたのだけれど、同時に思ったのは、「こういうことを、高校の世界史の先生が話してくれていたら、その後、いろんな面で、いいヒントになっていただろうに・・・」である。

 

 

【ドイツとフランス:EUの中核】
 1871年1月18日、ドイツ帝国はパリ郊外のベルサイユ宮殿鏡の間で成立した。プロイセン王ウイルヘルム1世のドイツ皇帝としての戴冠式がなんとフランスで行われたのである。この時、ドイツはドイツとしての統一国家を形成した。この事実こそドイツとフランスの歴史的関係を象徴するものであり、今日の欧州統合の時代潮流に至る欧州の20世紀の歴史の頂点に重く横たわるものといえる。
 何故、わざわざフランスで戴冠式を執り行ったのか。それは、ドイツ統一はフランスに対する憎悪と怨念によって成立したからである。・・・中略・・・。皮肉だが、「ドイツ統一をもたらしたのはナポレオンだった」という表現にもうなずける。(p.196)
 ナポレオンとの戦いに敗れたプロイセンは、領土の半分を失い、当時の国家財政3年分にあたる屈辱的な賠償金を取られていた。
 憎悪と怨念によるカルマの輪は、その後も回り続けた。
 ドイツは、英仏露の三国協商に包囲される形で焦燥を深め、第一次大戦へとのめり込んでいった。その結果、一敗地にまみれたドイツに突き付けられたのが1919年の「ベルサイユ講和会議」であった。つまり、ドイツに対する講和会議がベルサイユで行われたこと自体がフランスの怨念のなせるわざなのであり、1871年への意趣返しであった。そして、それは再びドイツの怨念となって増幅されヒトラーの登場を招くことになる。・・・中略・・・。
 こうした意趣返しを繰り返してきたドイツとフランスが、欧州統合という名の下に共通の枠組みに入りつつ20世紀を終えようとしている。(p.198)
 20世紀後半は、ロスチャイルド一族による戦争ビジネスの世紀である。ドイツのフランクフルトを本家に、兄弟たちをロンドン、パリ、ウィーン、ナポリに配して、それぞれの国に戦争をけしかけ、勝ち負けのいち早い情報によって莫大な利益をあげてきたのは、良く知られている紛れもない事実。
  《参照》  『聖書の暗号は知っていた』伊達巌(徳間書店)《前編》
          【私の息子たちが望まなければ・・・】
  《参照》  『ロスチャイルド200年の栄光と挫折』副島隆彦(日本文芸社)《前編》
          【戦争&金融崩壊という最初の典型的なビジネスモデル】

 国民たちは憎悪と怨念を増幅させられてきたけれど、そのマイナス想念エネルギーを喰らいつつ、人殺しをしながら巨富を得てきたバンパイヤー一族こそがロスチャイルド家の正体である。
  《参照》  『プレアデス1 魂の故郷への帰還』愛知ソニア(ヒカルランド)《後編》
          【人類の進化を阻む“闇の家族”=スペースバンパイヤー】

 バンパイヤーたちは、より大規模な戦争を遂行する上で、各国それぞれのコントロールは難しいので、EUを創出しここを支配することで、世界覇権を維持してきた。アメリカ(ロックフェラー)もロシアもそのために用いられてきたカウンター・パートナーである。(但し、近年、ロシアは覚醒し、バンパイアヤーの意向には与さなくなった。)
  《参照》  『リチャード・コシミズの未来の歴史教科書』リチャード・コシミズ(成甲書房)《中編》
          【ロスチャイルドとロックフェラー】

 すなわち、EUはアメリカの軍産複合体の意向、およびウォール街の意向に従う官僚たちによって支配されてきた。下記リンクに示すように、ECB総裁にマリオ・ドラギが就任していること自体がその証明である。
  《参照》  『2012年、日本経済は大崩壊する』朝倉慶(幻冬舎)《後編》
          【ヨーロッパに巣食うゴールドマン・サックス人脈】

 EU支配と日本支配は全く同じ構図である。
 《参照》  『昭和史からの警告』船井幸雄・副島隆彦(ビジネス社)
 このバカバカしい世界支配の構図は、Brexit(英国のEU離脱) によって終わりにできる可能性が出てきただろう。

 

 

【ピレネーの南:カタルーニャ地方】
 20世紀を黙考するうえで、バルセロナは大いに刺激的な街である。1900年、この街にはガウディーが、そしてピカソがいた。・・・中略・・・。
 19世紀末の米西戦争に敗れ、かつての栄光を見失い苦悶していたスペインの一地方都市から20世紀に完成が開花していった。時代状況の抑圧からの解放を掲げた「シュールレアリズム(超現実主義)」の先駆者としてのピカソが、そしてミロが、さらにはダリという画家達がみなこの地から育った。これはほとんど奇跡にも近いことなのだが、この三大巨匠が20世紀美術に占める位置を考えるならば、「20世紀のイズムの多くはピレネーの南からやってきた」という表現が誇張でないことに気づくはずである。そして、ダリが繰り返し語りつづけていたという「人間は、ウルトラ地方主義者であると同時に普遍的でなければならない」という言葉に電撃的な示唆を受けるのである。(p.225-226)
 カタルーニャの中心都市バルセロナといえば、今の若者たちの多くは、殆どがサッカーを思い出すんだろうけど、学生時代、書物に親しんでいたオッサン・オバサン世代なら、ごく自然に芸術家たちを思い出すだろう。「カタルーニャ」という言葉の響きは、何故か心に響くのである。カタルーニャと何度も書いたから、カタルーニャ出身の女性監督が作った映画を思い出してしまった。
  《参照》 『あなたになら言える秘密のこと』スペイン映画
          【イザベル・コイシェ監督】

 ところで、
 芸術家であるダリの言葉として記述されている「人間は、ウルトラ地方主義者であると同時に普遍的でなければならない」について思うのだけれど、恐らく現代人は、普遍性の中に貨幣経済制度を含めて考えてしまっているのではないだろうか。であるなら、それはとんでもない錯誤である。
 普遍性は、言語にあるのではなく意識にある(画家であるダリは、この意味で語っていたはずである)。そして互いに意識を通じ合える人間同士が住む世界なら、貨幣経済制度は自然消滅してゆくのである。
  《参照》 『宇宙の羅針盤 (上)』辻麻里子(ナテュラルスピリット)《後編》
          【贈答のシステム】

 貨幣経済制度は、“すべてはひとつである”という一体意識から離れてしまった意識レベルの人間たちに根付きやすい制度というだけのことである。資本主義であれ共産主義であれ、二元性世界に特有の貨幣経済制度は多くの人々を幸せにしない。人類の意識レベルが向上しない限り、貨幣経済制度は不完全な制度であり続けるだけである。
 故に、EUによる通貨統合は、普遍性への回帰役になどならない。
 言語と同じ数だけの通貨があった場合と全く同じことである。
 ダリの言葉を、貨幣経済に当てはめて解釈するなら、「地域通貨を極めることで普遍性に到る」となるだろう。
 人類の意識レベルが向上するまでは、固有の言語、固有の地域経済の中に回答を見出すよう努力すればいいのである。通貨を統合せずとも、正当な為替評価と、貨幣に対する正当なモノの裏付けが復活し、国際金融の仕組みを悪用して恣に横領してきた国際金融マフィアが一掃され、正常な貨幣の流れが確保されさえすれば、全世界は十分な有り余るほどの豊かさを享受できるのである。人間は、これらのことに努力しさえすればそれでいい。
 言語がバラバラになり世界は混乱の様相を深めていったという「バベルの塔の逸話」は、宇宙史的サイクルの巡りの中で、地球の周波数が低下する過程で、人類の意識レベルが下がってしまったことを意味しているのだけれど、この状態を元に戻すのは、やはり宇宙史的サイクルである。野心や欲心に満ちた“意識レベルの低い人間の知恵”によって成せることではない。
  《参照》 『光のアカシャ・フィールド』ゲリー・ボーネル×よしもとばなな(徳間書店)
          【1万3000年以前の歴史】

 

 

<了>

 

   寺島実郎著の読書記録

     『1900年への旅』

     『新しい世界観を求めて』

     『世界を知る力』