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 書き残しておきたいような内容がそれほどなく、いつ読み終わったのかよく覚えていない本だけれど、隅が折ってあったページを読み返して読書記録を書いておいた。2009年7月初版。

 

【1万3000年以前の歴史】
ボーネル  もうすぐ珪素(シリカ)でできた円盤(ディスク)が見つかります。・・・中略・・・そのころまでにはテクノロジーが発達しているので、そのディスクを読むことができます。それには、地球のすべての歴史が記録されているんです。真実の歴史です。レムリアからアトランティス、そしてそれ以前も。
 ディスクの歴史は、1万3000年前に一応記録は終わっているんです。でも、1万3000年以前の歴史は記録されています。
よしもと  なんでそこで終わったんですか。
ボーネル  そこで人間の意識が合一から二元性にシフトしたからです。人々は、そのときにテレパシー能力を失いました。そして、地上ではとてつもない混乱が起きたんです。言葉が発達するまでにけっこう長い時間がかかりました。その過程で叡智が失われていったんです。(p.40)
 この時以降が、「バベルの塔」の『神話』に描かれている内容。
 今現在の地球は、宇宙史的サイクルの巡りから、1万3000年以前の状態にシフトしつつある。
    《参照》   『宇宙の羅針盤 (上)』 辻麻里子 (ナテュラルスピリット) 《後編》
              【ハートの言葉:風のエレメント】

 

 

【時間という境界線の終わり】
ボーネル  今度我々が入っていこうとしている新しいサイクルでは、いわゆる時間というものの制限、境界線が消え始めます。マヤの人たちは、ときが終わるといいました。でも、実際にときが破壊されるわけじゃなくて、シンプルに、境界線としての役をなさなくなるということです。結構早いうちに時間のない世界というものが少しは分かってくるかもしれません。本当に我々が時間というものに縛られていなかったら、エイリアンたちは自分の姿をあらわそうと、準備を終えているかもしれませんよ。(p.75)
 “時間という境界線の終わり”は、認識の仕方に係ってくることだけれど、具体的には、人類の寿命が大きく延びさえすれば、“時間という境界線”が変容するであろうことは単純に考えて想像に難くない。寿命が延びれば、一生のうちに学べることは多くなり意識の及ぶ範囲は避けようもなく広くなる。であれば当然、時間に対する概念も意識も変容するのである。
 不老不死の世界は、文学的な絵空事や空想事ではなく、二元性の轍に嵌っていない宇宙文明においては、普通の状態なのである。
    《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《後編》
              【時間と空間の法則】

 

 

【悪魔祓いの小説】
ボーネル  あなたが作家なのはエクソシズムです。ばななさんのようなものを書くということはエクソシズム、悪魔祓いです。
よしもと  そうか。じゃ、人の悪魔も払っている。
ボーネル  そう思いませんか。
よしもと  そういう側面もあるような気がします。
ボーネル  自分の内なる景色を外側に吐き出す。 (p.116-117)
 エクソシズム小説の嚆矢は、平井和正の『幻魔大戦』だろうか。
 今は、この手の小説やアニメはいっぱいあるだろう。
 “自分の内なる景色を外側に吐き出す”ことで、自分と読者の悪魔祓いができる。
 “自分史の開示”は、正直なものであるなら、作家でなくても、自他に対して学びになるだろう。
 ボーネルさんは、『ビュイック・ドライバー』<邦訳は『新次元の叡智』(徳間書店)>という自伝的なカタルシス小説を書いているけれど、活字を通じて著者の体験を共有することで、読者にカタルシス作用が及ぶことは勿論ある。

 

 

【いいか、悪いか】
ボーネル  ヒトラーがいます。彼は非常に性質の悪い男です。しかし、彼が地球上に存在したために、こういうことはもう二度と起こしてはいけない、お互いにうまくやっていかなければいけない。お互いに同意できるところで生きていかなければいけないと我々は考えるようになりました。ヒトラーは、他の人にとって素晴らしものを生み出すきっかけとなりました。一方、イエスは素晴らしかった。でも、彼がもたらした後々の結果はあまりすてきなものではありませんでした。イエスの信者たちはひどい結果をもたらしました。彼らの転生のどちらが偉大かということをどうやってはかればいいのか。人生にとってまさに大きな疑問が生じます。いいか、悪いかではないのです。
よしもと  そう思います。いい、悪いはない。(p.222-223)
 「後世への影響結果」という拡張された範囲で見た場合でも、「個の転生体験の総体」として見た場合でも、「善悪の二元判断」では正しい認識に至れないことが分かる。
    《参照》   『2012年 目覚めよ地球人』 坂本政道 (ハート出版)
              【ヒトラーでも卒業するの?】

 

 

【カテゴリーに当てはまらない人】
ボーネル  ある人が僕に、「初めてあなたに会ったときに、こういう人なんだというきちっとしたカテゴリーに当てはまらなくて、あなたのことをどう思っていいかわからなくて、何か不安になった」と言ったことがあります。あなたの場合もそういうことが起きていると思います。
よしもと  そうだと思います。でも、人間はみんなそうあるべきなんじゃないでしょうか。
ボーネル  ばななさんはいわゆる典型的な日本人じゃないですね。僕も典型的なアメリカ人ではない。
よしもと  ないですよね。 (p.285-286)
 この本を読むような人々は、一般的なカテゴリーに当てはまらない人が比較的多いはず。即ち、魂の属性が、コテコテ地球人というカテゴリーに深く濃く属していない人が多いはずである。
 チャンちゃんなんかは、「平均的でありたい」などとは思ったことなどないし、誰であれ個性の部分を無視して一般論の類型化に当てはめることでしか他者を解釈できない人って相当オカチメンタイコな人だろうと思っているから、不明や未解明の雰囲気を感じる人に対して自然体で接することができる人に、むしろ好感を持ったりする。でも、そういう人はそうそういない。いたとしても、その本当の目的は、人に対する興味ではなく別のメリット(利益)目的だったりするのである。
 『ビュイック・ドライバー』に冷遇された幼少期をもつボーネルさんは、この対談本の中でしばしば“孤独”という単語を使っているけれど、スピな人生遍歴における“孤独”は、転じて成長の縁となるポジティブな意味合いを多く含んでいる。ところが、スピ系のサークルで互いに出会っていながら、“孤独”を尊重している人に対して、人間性における欠陥であるかのように糾弾する意味合いで表現する人が、何故か多い。
 スピリチュルな叡智を求めつつも社会意識の轍を出られない人は、魂起因の“孤独”を尊重している人に対して、その孤独を糾弾したがるのである。スピリチュアル(霊主体従)を志向しつつも、モノ・カネ(物質主義・体主霊従)への傾斜が是正できていないと、口先で愛を語りつつ、人は冷淡になる。

 

                    <了>