『セオリツ姫・シ♭』の姉妹編というかペアを成す姫命(ひめ・みこと)編。この本が出ていたのを知らなかったのだけれど、まるで読まれた形跡のない新品状態のこの本を古書店で発見。これだけで充分、「読みなさい」ということだろうと思って読んで見たら、ドキッとする人名や地名がいくつもあって・・・。2015年4月初版。
【タイトル解題】
シ♭(フラット)とは,
ドを基音として、その上に積み重なる倍音に含まれる、最初の不協和音のことです。
私は国立音楽大学のピアノ調律科を卒業したのですが、卒論にこの倍音をテーマにしました。私はその不協和音の倍音・シ♭を、“お汁粉に入れる一つまみの塩”と表現しました。相反するものだが、それがあってこそ味わい深いものとなると・・・。(p.1-2)
ドを基音として、その上に積み重なる倍音に含まれる、最初の不協和音のことです。
私は国立音楽大学のピアノ調律科を卒業したのですが、卒論にこの倍音をテーマにしました。私はその不協和音の倍音・シ♭を、“お汁粉に入れる一つまみの塩”と表現しました。相反するものだが、それがあってこそ味わい深いものとなると・・・。(p.1-2)
【「素戔嗚尊は饒速日命」】
長年心の奥底にはあったが、自分の意識の表に出すことはなかった想い。
「素戔嗚尊は饒速日命」
秘めていた想いを、ついに封印解除したのだ。そう、自分自身で封印していたものを解いたのだ。(p.9-10)
「素戔嗚尊=饒速日命」という認識で、今までの知識を整理してみると、何かが明確になることはあり得るだろう。神霊界の有り様をそこそこ分かっている人々なら、文献だけを根拠に自説を構築しているだけの歴史学者さんなんかの見解より、音楽家である著者のような方の見解の方が“遥かに興味深い”と普通に思うことだろう。「素戔嗚尊は饒速日命」
秘めていた想いを、ついに封印解除したのだ。そう、自分自身で封印していたものを解いたのだ。(p.9-10)
【ド:ヘンデル】
なぜ、この書にこのヘンデルが登場するのかだが、第10章のヴェートーヴェンに関係してくるのだ。・・・中略・・・。私はヴェートーヴェンとヘンデルが同魂と感じているというわけなのだ。ということはそう、ヘンデルも饒速日命。(p.16)
この世的な解釈で言うなら、「何を馬鹿なことを・・」と思うのだろうけれど、神霊界の有り様は、三次元世界の解釈法で推し量れるようなものではない。
ヴェートーヴェンはヘンデルに憧れ、尊敬していた。死の床にあった時、弟子のツェルニーが、やっと手に入れ持ってきたヘンデルの楽譜を、ヴェートーヴェンは手に取り涙したという。その二日後に昇天した。ヘンデルは、それほどの大作曲家。(p.17)
【愛を説くのに宗教家として降臨するとは限らない】
愛を説くのに宗教家として降臨するとしても、芸術性のない宗教家が語る愛は、おそらく狭小で偏頗なものになっているはずである。そもそも、地球が進化すればするほど、宗教は必要とされなくなってゆくのである。
《参照》 『神霊界』 深見東州 (たちばな出版) 《中編》
【魔界と正神界の違いを峻別する “芸術性と美” 】
大神が宇宙の法、愛を説くのに宗教家として降臨するとは限らない。法、愛を説く方法は虹の色のごとく、いや、音の数ほどある。
ヘンデルには気品と遊び心を感じる。 (p.19)
そう、“愛を説くのに宗教家として降臨するとは限らない”。ヘンデルには気品と遊び心を感じる。 (p.19)
愛を説くのに宗教家として降臨するとしても、芸術性のない宗教家が語る愛は、おそらく狭小で偏頗なものになっているはずである。そもそも、地球が進化すればするほど、宗教は必要とされなくなってゆくのである。
《参照》 『神霊界』 深見東州 (たちばな出版) 《中編》
【魔界と正神界の違いを峻別する “芸術性と美” 】
【ヘンデルの一番の名曲】
《参照》 『涙の理由』重松清・茂木健一郎(宝島社)《前編》
【知的な涙?】
そのヘンデルの一番の名曲、一番我々に知られている曲は、管弦楽組曲『水上の音楽』だろう。水の曲だ。瀬織津姫の音楽を彼は残したのだ。だから命の分霊と思った、感じたというわけではないのであしからず。ただ、全く関係ないかといえば、そうとは思わない。(p.15-16)
章末の注釈には、以下のように書かれている。
オラトリオ《メサイア(救世主)》は曲中に有名な『ハレルヤ・コーラス』を含み、今日でも非常に有名である。文中で一番の名曲、一番我々に知られている曲を『水上の音楽』としたが、人によっては、この『ハレルヤ・コーラス』かもしれない。(p.20)
《メサイア》は、チャンちゃんをプッツンさせた曲。その時のことは、下記リンクのコメントに書いておいたけれど、ヘンデルがこの著作の第一章で言及されていたのに驚かないわけにいかない。《参照》 『涙の理由』重松清・茂木健一郎(宝島社)《前編》
【知的な涙?】
【ド♯:円空】
円空(1632年~1695年)が登場することになった。江戸時代前期の僧で、美濃(岐阜県)出身。円空仏と言われる独特の作風を持った木彫りの仏像を、全国に残した。(p.21)
円空仏は、歴史の教科書に写真が掲載されていたから、大抵誰でも円空の名前くらいは覚えているだろう。
円空は瀬織津姫を想い、旅をしていたという。そして彼は短歌も多く残した。菊池展明著『円空と瀬織津姫』(風琳堂刊)は、この円空の軌跡がよくわかるので推薦する。(p.23)
スピ系著作を少なからず読んでいるけれど、かつて円空が言及されている内容を読んだ記憶はない。ところが、今年の4月に行われたあるセミナーで、「日本が壊滅してしまうとしても、岐阜の関市と、岡山の津山市だけは大丈夫」という話があり、「関市はそれほど標高が高くないのに、なぜ?」と思いつつ、そのセミナーに参加していた熊野さんという方と、終わってから名古屋駅の高層階にある喫茶店で話していたら、「円空の土地だから。その名の意味するところは、日本のゼロ・ポイント」という意味のことを教えてもらい、円空と岐阜県関市が意識にインプットされて間もない時に、この本を手にしたのだから、これもビックリである。
【レ:日本武尊】
《参照》 『日本霊界風土記 熱田』深見東州(たちばな出版)
日本武尊を意識したのは、やはり草薙の剣であった。瀬織津姫を追っている内に、愛知県の 熱田神宮 に行き当たった。この社は、『姫・シ♭』 を含め、これまでの私の書に多く登場するが、本殿、末社、開放された禁足地の社も瀬織津姫が祀られている。その社のご神体がその草薙の剣。そしてそれは日本武尊のこととなっている。(p.28)
草薙の剣=天叢雲剣、即ち素戔嗚の神剣であるから、日本武尊と饒速日命の繋がりは理解しやすい。《参照》 『日本霊界風土記 熱田』深見東州(たちばな出版)
【レ♯:大物主神=大山咋神】
大物主神(オオモノヌシ)と大山咋神(オオヤマクイ)。この二神を祭る神社として有名で、私がパッと浮かぶのは、大物主神が奈良の 大神(おおみわ)神社で、大山咋神が京都の 松尾大社。
しかし、この両神をいっしょに手厚く祀る神社がある。
滋賀の日吉大社だ。 (p.35)
日吉大社では、大物主神を大比叡とし、大山咋神を小比叡としていると書いたが、大山咋神の別名を山王としており、また、山王は二神の総称であるとしているのだ。ということは、この大社は、すでに大物主神と大山咋神は同神と明記しているのである。ありがたい。そう、大物主神=大山咋神=饒速日命なのだ。・・・中略・・・。
大物主神=大山咋神は、日本の要所を支えている。 (p.41)
因みに、大山咋神は、大山祇命ではないので、念のため。しかし、この両神をいっしょに手厚く祀る神社がある。
滋賀の日吉大社だ。 (p.35)
日吉大社では、大物主神を大比叡とし、大山咋神を小比叡としていると書いたが、大山咋神の別名を山王としており、また、山王は二神の総称であるとしているのだ。ということは、この大社は、すでに大物主神と大山咋神は同神と明記しているのである。ありがたい。そう、大物主神=大山咋神=饒速日命なのだ。・・・中略・・・。
大物主神=大山咋神は、日本の要所を支えている。 (p.41)
【秦氏と神社】
【京都に残る古代キリスト教=ユダヤ教(景教)の影】
松尾大社 と加茂神社の総本山である 上賀茂神社 と 下鴨神社 の三社は、秦氏三所明神と言われる。(p.40)
ちなみに、秦氏が出てきた。瀬織津姫シリーズでも記しているが、神社のほとんどは秦氏が建てたもの。前記以外に、宗像大社、兵主神社、金刀比羅宮、気比神宮、白山比咩神社、白髭神社、諏訪大社、鹿島神宮 などなど。そう、などなど・・・。 (p.41)
《参照》 日本文化講座 ④ 【 日本と古代キリスト教の関係 】ちなみに、秦氏が出てきた。瀬織津姫シリーズでも記しているが、神社のほとんどは秦氏が建てたもの。前記以外に、宗像大社、兵主神社、金刀比羅宮、気比神宮、白山比咩神社、白髭神社、諏訪大社、鹿島神宮 などなど。そう、などなど・・・。 (p.41)
【京都に残る古代キリスト教=ユダヤ教(景教)の影】
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