《前編》 より
 

 

【魔界と正神界の違いを峻別する “芸術性と美” 】
 正神界は知情意の源泉であり、叡智と美と愛に満ちた世界である。それゆえ正神界からの霊能には深遠な真理に裏づけられた叡智と、芸術性に裏づけられた美と、悪を許さぬ正義に裏づけられた愛がある。
 これに対して、魔界や邪神界からの霊能には、外見上の真理・叡智と正義・愛の主張はあっても一貫した行いや芸術性・美はない。いや、正確にいうなら、真理・叡智と正義・愛はあるようにごまかせても一貫した行いや芸術性・美は、清浄な心の御魂の人には、ごまかしがきかない世界であり、邪神には真に発揮できないものなのである。(p.110)
 低級な霊能をよすがとし表向きを整え信者からのお布施で生活しているだけの凡百の宗教家には、芸術と美など、形にすることもできなければ演ずることもできない。彼らがすることといったら、でかい伽藍堂を建てて、余剰資金で購入した絵画を飾ることくらいである。
 著者は、美しい言霊をならべて祝詞を奏上し、様々な神霊界の秘儀を行うだけでなく、書や絵画を制作し個展を行ったり、世界の舞台でオペラを上演したりいろんな芸術活動を行っている。ちなみに、ロンドンの大英帝国博物館・日本コーナーに置かれている “恕” の書は、著者が認(したた)めたものである。

 

 

【人為の逆世界】
「相手に勝ってやるぞ!」
「相手を見破ってやるぞ!」
 こう思えば思うほど、ますます心が曇り、見えるものまで見えなくなってしまう。逆に、
「真心の限りを尽くして破れるなら、それも本望、どうかこの人とこの憑依霊を救いたまえ」
 という、我利我欲を捨て去った心境になったとき、真実が見えてくるのである。見破ろう! 見破ろう! と思うと見えなくなり、見破れなくても結構と思うと見えてくる。神霊世界とは、まさしく人為の逆世界なのである。(p.131)

 霊能力と霊能力、術と術とで戦っていたのでは、本当の徐霊はできないのだ。おわかりいただけただろうか。本当の徐霊をするには、神に対するゆるぎない信仰心と人々に対する強い愛念、そして、我を取り去った明鏡止水の境地、この3つの要素が必要にして不可欠なのである。(p.138-139)
 このような神霊界との係わり方は、著者のお弟子さんたちが書いている下記のような本を読むと、より一層分かりやすいだろうし、お弟子さんたちがどのように育っているのかを読むだけでも、霊界ごとに関わっている人ならば、とりわけ、恥じ入るか、瞳を熱くすることだろう。
      《参照》  『不運の原因 霊を救え』 霊厳院崇皇 (たちばな出版)
 著者のお弟子さんたちは、霊を救済するという行為を通じて、魂の向上という人生の本義を同時に真摯に学んでいるらしいこともよく分かる。だから普通の人が、ちょっとオドロオドロしいと思える霊に関するこれらの著作を読んでも、すがすがしい気分になれたりするのである。
 それゆえ、徐霊を承る方々は、真の求道者でなければならないと思う。生まれながらにして天より授かった霊能力を、駆使しているだけではいけないのだと私は考える。日常生活の一瞬一瞬を修行と心得て、誰よりも御魂を磨く努力をする。これが、徐霊を承る霊能者に課せられた使命ではなかろうか。(p.139)

 

 

【学問を積んで独善を防ぐ】
 魂の向上のために真の学問が必要なのは当然として、徐霊の世界では現実的に学問が必要になってくる。
 憑依霊の中には生前、神仏に帰依するばかりではく、教理経論を驚くほど学び、宗門宗派の奥義を知り尽くしている霊も少なくない。それほどまで学問を積んだ人がどうして人に憑依するのか、理解に苦しむところではある。だが、現実にいるのだ。そして、こういう霊に限って、真心と愛念の光を当てただけでは悔悟しようとしないのである。真心を尽くすと同時に、教理経論の奥義を語って悟らせなければ、なかなか改心しないのである。(p.140)
 霊界に行っても依然として頭デッカチであることに頑固なオジチャンはいるらしい。「トンカチで石頭をカチ割ってあげた方がいいじゃん」 などと不謹慎な15歳のチャンちゃんは思ってしまうけれど、徐霊する側に愛があるなら、自ら学んで真実を伝えてあげなければならない。
 その勉強の内容だが、日本霊界に霊籍を置く限り、最低でも 『古事記』 『日本書紀』 『古語拾遺』 『宣命』 などの神典、および六国史は学んでいただきたい。また仏教系の霊能者であるならば ・・・(中略)・・・ (p.142)
 著者のお弟子さんたちは、きっと学んでいるのだろうけれど、チャンちゃんにとっては、のけぞりたくなるような本ばかりである。
 書籍に限らず、著者の言葉に接すると、「そんなことまで知っているんですか!」 と思うことがたびたびある。ほとんどの人々が、その名すら聞いたこともないような古典などの書名がポコポコ出てくるのである。学びの途上にあるお弟子さんたちは、そんな師匠がいてくれるからこそ、自らに至らぬ部分の憂いなく安心して徐霊が出来るのだろう。