09年6月17日サットサンガ<パーパ・カルマ(悪業)とプンニャ・カルマ(善業)について>
2009年6月17日(水)<パーパ・カルマ(悪業)とプンニャ・カルマ(善業)について> ※このノートはパンダ先生の許可を頂いて掲載しています。Kさん:パーパ・カルマ(悪業/不適切な行い)の事についてお伺いします。以前、ギーター勉強会で、どなたかが「害虫を殺したら、パーパ・カルマになりますか?」と、先生に質問した事がありました。それは意識を持って行えば、パーパになるのでしょうか?自分の住宅に侵入したから殺した、という理由だったのですが・・。.パンダ先生:パーパ・カルマ(悪業/不適切な行い)、あるいはプンニャ・カルマ(善業/適切な行い)と、ニシュカーマ・カルマ(欲望のない行い)とのはっきりとした違いは、自分のエゴがあるのか、それとも、ないのか、それが主要な点になります。全てのカルマ(行為)を、エゴなしで行う事ができるのなら、それはニシュカーマ・カルマとなります。逆に、エゴが強くあり、悪意を持って行われるなら、それはパーパ・カルマになります。例えば「人を危めたい」それも「喜んで危めたい」というのであれば、それがパーパ・カルマになります。エゴが喜びつつ、人や何らかの対象物を傷つけたい、と考えているからです。それに対して、「喜んで誰かを助けたい」、という動機を持つなら、それがプンニャ・カルマになります。.例えば、ある悪質な人々は、釘をわざと道路において、その上を通った車がパンクするのを見て、喜んだりします。それが喜びの元になっているのです。なぜなら、彼らとしては、その車をパンクさせるために努力したからです。絶妙な地点に釘を置くことによって、走っていた車のタイヤをパンクさせ、止める事ができました。そして、その悪事が成功したことを喜んでいます。このような事例がパーパ・カルマです。.Eさん:人を傷つける事に喜びを見出す事が、パーパ・カルマですか?.パンダ先生:パーパ・カルマです。エゴが楽しんでいます。バナナの皮をわざと道に置いて、バイクや自転車を滑らせ、「してやったり」と言って喜ぶ人もいます。このような悪戯で喜ぶ事もパーパ・カルマです。学校で、椅子にインクをこぼしておいて、その上に人が座るのを見て喜ぶという類の悪戯もありますね。.結果を理解していながら、わざとこのような事をする場合、それをパーパ・カルマと言います。人を困らせる事でエゴが楽しんでいるがゆえに、これは完全なるパーパ・カルマです。.その反対は、結果を理解しながら、誰かの役に立ち、喜んでもらうために行為をする場合です。その場合もまた、エゴが楽しんでいます。例えば、百人もの人に食事を振舞った人がいたとします。その人が、「私は百人に食事を振舞いました。皆を喜ばせるために頑張りました。全ての人が、あなたのご飯はおいしいと言ってくれました。」と考え、喜ぶ場合、それはプンニャ・カルマになります。.パーパ・カルマも、プンニャ・カルマも、両方ともが、のちにその行為に対しての結果を受け取る事になります。エゴが喜びつつ、プンニャ・カルマを行った人は、良いカルマの結果を、エゴが喜びつつ、パーパ・カルマを行った人は、悪いカルマの結果を、それぞれ受け取る事になります。そして、そのカルマのために、また生まれなければなりません。ですから、これら両方ともが悟りにとっての障害です。例え、「私は千人に無料でご飯を振舞いました。」という事であっても、そこでエゴが喜んでしまったら、そのプンニャ・カルマの結果を受け取るために、また生まれなくてはなりません。.一方、ニシュカーマ・カルマとは、全く同じ状況であっても、このように受けとめます。「千人もの多くの人が、無料で食事ができたということは良い事です。しかし、ここで使われた費用は、神様のお金が、私の手を通して千人の元に渡っただけの事です。」と。.ここで、ラサカーンという、有名な王さまの例をご紹介しましょう。彼はクリシュナ神の信奉者であり、莫大な寄付をしていました。しかし彼の寄付のやり方は、一風変わったものでした。寄付を受け取る相手の顔を見ないように、下を向いて、手渡すのです。人々は不思議に思い、「せっかく寄付をしているのですから、受け取る相手の顔を少しくらい見てから、差し上げたらいかがでしょうか?」と、聞きました。そこで、ラサカーンは答えました。「いいえ、私の目が、寄付を受け取った人の顔を見たとしたら、私のエゴは強くなってしまいます。その人の顔を見るたび、‘私はこの人に寄付をした’と思い出し、驕り高ぶるようになってしまうでしょう。ですから、私は受け取る人々の顔を見ないのです。」.このような答えを聞いても、人々は疑問に思い、再びラサカーンに尋ねました。「しかし、あなたはあなたの財産を人に差し上げているのですから、良い事をしているのではないでしょうか?」ラサカーンは答えました。「いいえ、これは私の財産ではありません。これは神様の財産です。財産はラクシュミー神(吉祥天)です。私は仲介者であり、ただ、神様の財産を、神様である皆さんに渡しているだけなのです。この財産は、私がこの世に生を受けた時に、この手に持ってきた物ではありません。また、私がこの世を去る時も、この手に持って行けるものではありません。ただ、この世で私のところへきた物を、そのまま神様に渡しているだけです。これのどこが私の財産と言えるでしょうか。ですから私は、エゴがこれ以上強くならないように、受け取り手の姿を見ないようにして、渡しています。私は王の仕事として、神様の財産を、神様である皆さんに渡しているだけの事です。そこに誇りを持つ事は馬鹿馬鹿しい事ではないでしょうか。人々が私を偉いダーニー(寄贈者)だと言っているだけなのです。」.このように、エゴが全く働いていない行いの場合は、ニシュカーマ・カルマ(欲望のない行い)と言えます。