では一つ一つ学んでいきましょう。


最初に、
ギーターはアンバー(amba)=母である、と言えます。
マハトマ・ガンジーが言ったように、ギーターは私の母であります。
なぜ母なのでしょうか?
ここで言う母とは、あなたがなにか問題があった時に、相談しに行く相手の事を示しています。
子供は父親と一緒にいる時には、あまり居心地が良くないことがあります。
けれども母親といると、とても安心して居心地が良いです。
なぜなら母親は、すぐに子供の問題がわかるからです。
ギーターもまた、私達の日々の問題をよくわかっています。
それに対して、ヴェーダは私達の父です。
ヴェーダは私達の日々の問題の事はわかってくれないかもしれません。
けれども、ギーターは私達の日々の問題をわかってくれていますので、毎日読むことになります。


anusandadhAmi(アヌサンダダーミー)というのは、あなたを瞑想します、という意味です。
私はあなたに挨拶します。私はあなたに祈ります。

そういった意味になります。


gitadhyanam12

pArthAya(パールターヤ)


というのは「プルター+プットラーヤ」という意味です。


プルターというのはアルジュナのお母さんの名前です。
アルジュナのお母さんの名前として有名なのはなんでしょうか。


「クンティーです。」


はい、クンティーですね。2つ目の名前としてプルターがあります。
第2章では、前の章で出てきたいろいろな名前というものは出てきません。
第1章ではたくさんの名前が出てきて、私達はそれを勉強しなければなりません。
その名前によって、そのキャラクターの哲学的な意味がわかります。


マハーバーラタという本は、多くの人々について書かれた本です。
私達にとっては一番大きな本です。
世界中においても最も長い、一番大きな本です。


そこにはたくさんのキャラクターが書かれています。
何千ものキャラクターが描かれています。
人々は言います。


「私は自分の友達の名前を覚えていられない、親類の名前も覚えていられない、
それなのにどうして、マハーバーラタの登場人物の名前を覚えていられるでしょう。
それは時間の無駄ではないでしょうか?」と。


「なぜマハーバーラタに出てくる名前を覚えなければならないんだろう?」と
疑問に思うかもしれません。
KNさん、なぜでしょうか?


KNさんのご意見「どの名前にも哲学的な意味があるからです。」


マハーバーラタに出てくる名前の一つ一つに哲学的な意味があります。
私達は他の誰かのことを勉強しているのではありません。
私達はその名前の中にある自分自身を勉強しています。
クリシュナというのは他の誰かの名前のことではありません。
クリシュナというのは私達のアートマの名前です。
ドリタラーシトラという、ギーターの中でも一番最初に出てくる名前があります。
ドリタラーシトラとは誰でしょう?


KNさんのご意見「盲目の王さまです」


誰が盲目の王さまでしょうか?


KNさんのご意見「ドゥルヨーダナの父親です」


ではドゥルヨーダナとは誰でしょうか?


ドリタラーシトラとは私達のマインド(マナス)であることを理解していなくてはなりません。
ドリタラーシトラは盲目の人です。
私達のマインドもまた、盲目です。


今日行われたジョーティシャの講座でもマナスが盲目であるというような話がありました。
それはどのような話だったでしょうか?


Cさんの発言「ラーフとケートゥは日蝕、月蝕を引き起こすポイントです。
それに対してチャンドラ(月)はマナスを表します。
ですからマナスはラーフとケートゥによって、見えない状態にさせられてしまう、
という話でした。」


マナスは盲目であります。
盲目であるけれども彼は王さまです。
マナスこそ、私の王国の王さまです。
ドリタラーシトラとは私達のマインドのことです。


では、彼の息子であるドゥルヨーダナとは誰でしょう?


彼は私達のエゴです。
マハーバーラタを勉強するということは、他の誰かのことを勉強することではありません。
あなた自身のことを学ぶ本です。
あなたの中の良い性質、悪い性質を勉強するものです。
パーンダヴァ兄弟というのはあなた達の良い性質のことです。
ドリタラーシトラの100人の王子達というのは、あなたの中の悪い性質のことです。


ディヤーナ・スローカと最初の第1章では、これらの名前について勉強します。
まず名前を覚えて、それから哲学的な意味がわかるようになるでしょう。
背景にある物語がわからなければ、その哲学的な意味もわからないでしょう。
前回申し上げた通り、インド゙の物語には3つの意味があります。


1つ目は純粋な物語として、あるいは神話的な物語として
2つ目は哲学的な意味として、私達の中にある哲学的な意味として、
3つ目はカルマの理論です。


マハーバーラタ戦争が起きました。世の中にはたくさんの戦争があります。
戦争は人類にとっては良くないものです。
なぜ私達はマハーバーラタ戦争のことを話さなければならないのでしょう。
私達は通常、戦争を避けなければならない、といいます。
戦争の事を考えない、あるいは覚えない、と、言うものです。
だからマハーバーラタ戦争の事も語るべきではない、と言います。
それをどのように思うでしょうか?
TNさん、どうでしょうか?


TNさんの発言「ギーターの戦争は私達の中の、悪い性質だとか、エゴの戦いを
表しているからです。」


そうですね。
マハーバーラタの戦いは私達の内面の戦いを表しています。
私の外で起きている戦いのことを言っているのではありません。
私は良い面も持っていて、悪い面も持っていて、その両者の間でいつも戦いが起きています。
その戦いは常に自分の中で起きています。
毎日、どの瞬間にもです。


良い部分にはいつもクリシュナがそこにいます。
アートマは、いつも良い方に立っています。
クリシュナはパーンダヴァ側についています。
パーンダヴァとは、私の良い性質の部分を表しています。
アートマはいつもその良い性質と一緒にいます。
それは、良い性質と一緒にいるとともに、私の悪い性質と戦ってくれています。
それがマハーバーラタの戦いというものです。
と、いうわけで、マハーバーラタを読みたくなりましたでしょうか?


ですから、マハーバーラタに出てくる全てのキャラクターが重要であるという事を
覚えておいてください。
物語も素晴らしいです。
そのキャラクターのことをわかれば、それは自分の中のものであると気がつくでしょう。


いつも聞かれる質問があります。
「マハーバーラタの主人公は誰ですか?」という質問です。
マハーバーラタの主人公とは誰でしょう?


Pさんのご意見「アルジュナ」
KNさんのご意見「アルジュナとクリシュナではないでしょうか」
Cさんのご意見「いつでも主役となるのは「私」ではないでしょうか?」


主人公というものは最初から最後までいるものです。
クリシュナは最初から最後まで登場しているわけではありません。


という事を考えれば、マハーバーラタには主人公がいないという事がわかります。
それぞれのキャラクターが主人公です。
マハーバーラタの中には何千もの主人公がいます。


ラーマーヤナの主人公は誰でしょうか?
それは誰もがラーマである、というでしょう。
ヒロインはシータである、というでしょう。
ラーマーヤナはラーマで始まり、ラーマで終わっているからです。


でもマハーバーラタは、クリシュナで始まりクリシュナで終わっているわけではありません。
5%クリシュナ事を語っているかもしれません。
しかし95%はクリシュナ以外の事を語っています。
それがマハーバーラタの偉大なところです。
そこに出てくるそれぞれのキャラクターが主人公です。
全ての章において、主人公は変わっていきます。
日本語で書かれたマハーバーラタがありますので、なくなってしまわないうちに
皆さん手に入れておいてください。
すぐに買って、一度は読んでみてください。
とても素晴らしい本です。


何度も読んでいますが、いまだに満足していません。
何度も読むたびに新しい意味を見出します。


さて、
pArthAya(パールターヤ)ですが、これはプルターの息子である
アルジュナの名前であると言いました。


クンティーの名前がなぜプルターなのでしょうか?
そこにはまた別の物語があります。
今はこういった小さなストーリーはご紹介しません。


pratibodhitAm(プラティボーディタン)とは教えられた事、説明されたこと、
という意味です。


それは誰によって教えられたものかというと、一般の人からではなく、
神、そのものである、と言っています。


nArAyanena(ナーラーヤネーナ)
svayam(スヴァヤン)=自身


神自身によって、教えられたものである、という意味です。

誰が私に教えてくれているのでしょう。
私のアートマが私に教えてくれているものです。
YYさん、誰が教えてくれるのでしょうか。


YYさんのご意見「アートマです。」


それはなぜでしょうか?


YYさんのご意見「いつも私の中の良心がなにかを教えてくれようとしている
のではないかと思います。」


なぜかというと、それは自分以外の人を信じないからです。
私達は自分以外のものは信じていません。
誰かが私になにかを教えてくれたとしても、自分の中で同意できない場合には、
私はそれを信じないでしょう。
例えば「私は日本の首相である」と言ったとしましょう。
あなたは信じますか?


しかし「私は先生です。私が首相ですと言ったら、あなたはそれを信じなければならない。」
と言ったら、あなたは信じますか?


いいえ、それはないでしょう。
私達のアートマがそれを受け入れなければ、それを信じることはないでしょう。
なにかを聞いた時に私達のアートマがそれを受けとめ、そして認識できれば、
それを信じることができます。


なにかを信じるためには、私達には3つの承認がいります。
それは以下の3つです。


1・シュルティ(Shruti)
2・ユクティ(Yukti)
3・アヌブティ(Anubhuti)


シュルティ(Shruti)とは、聖典が言っていることを示しています。
ユクティ(Yukti)とは、とても論理的であることを示しています。
アヌブティ(Anubhuti)とは、私達のアートマがそうであると認めることです。(経験として)


例え、どんなに素晴らしい聖典がそうであるといっても、アートマがそれを受け入れない限り、
それは認められません。
例え、ギーターであれ、聖書であれ、コーランであれ、それが素晴らしいと認められている物であれ、
自分のアートマがそれを受け入れられない限り、それは認められません。
最後に承認するのは私達自身のアートマです。
その3つの承認をシュルティ、ユクティ、アヌブティと言います。


ところで、ここでは誰が教えているでしょうか?
それは私達のアートマが教えているのです。