みなさま、本日もありがとうございました。
今回はかなりひさしぶりの
シリーズの更新に
なりますが
図工と美術の授業に関しての
実録エッセイマンガです。![]()
第1部は去年の時点で終わりまして
今回からは第2部です。
第2部は、
私が、強迫性障害になり、
それを軽症化するために始めた
同人活動とクリエイター活動、
そして、同時期の娘の幼稚園時代の話です。
ではでは、ご覧頂けるとうれしいです。![]()
みなさま、本日もありがとうございました。
今回はかなりひさしぶりの
シリーズの更新に
なりますが
図工と美術の授業に関しての
実録エッセイマンガです。![]()
第1部は去年の時点で終わりまして
今回からは第2部です。
第2部は、
私が、強迫性障害になり、
それを軽症化するために始めた
同人活動とクリエイター活動、
そして、同時期の娘の幼稚園時代の話です。
ではでは、ご覧頂けるとうれしいです。![]()
みなさま、本日もありがとうございました。
最近、また
アメリカドラマ熱が再燃してます♪
もう5回目くらいの再燃かな?
今回の再燃のきっかけは
「LAW&ORDER」シリーズ♪
やはり楽しくてしょうがないです。![]()
![]()
(イラストはとくに関係はないイラストです。)
私は
アメリカドラマのおかげで
小5のいじめのあとの辛さのあとに
前に進めたし
高校で世界史選択したのも
アメリカドラマのおかげだし
そのおかげで大学で
西洋美術史にハマり
塾講師になれたし
世界史は一生ものの心の支えになったし、
2度の流産のあとに
ストレスで生理が止まり
3度目の妊娠努力をしようと
決心したのもアメリカドラマのおかげ。
娘の育児のノイローゼから
強迫性障害になり
そこから脱却しようと決心できたのも
アメリカドラマのおかげ。
娘がどうも他の同級生とは違う(発達障害)
と気がつき、その対処をがんばることが
できたのも
アメリカドラマのおかげ。
…と、何かに迷いがあるとき、
いつも、私に自分が進むべき道を教えて
くれたのはアメリカドラマでした。![]()
たぶん、これからもアメリカドラマから
自分なりの答えを探すことになると
思います。
アメリカドラマの何が好きか?
というと…
「まずは受け入れることから
すべては始まる」
ことと
「法治国家の誇り」
を感じることです。
法(ルール)というのが
アメリカの正義であり、
誇りでもあります。
それと同時に
そのルールに縛られすぎたデメリットも
あります。
そのデメリットまで
きちんと受け入れたうえで
どうしていくか?
を考えている。
それがアメリカドラマ。
昔、二回流産をしてしまったあと、
善意で様々な励ましの声を
周りの人々にかけていただきました。
例えば
「まずは身体を癒して…」とか
「子育てだけが人生じゃないよ」とか。
ただ、そのとき、私は
どうしても違和感を感じてしまい、
でもその違和感の正体がわからなくて
次第に自分がどうしたいか?が
わからなくなりました。![]()
どういうことか?というと
「結局、
私は3度目の妊娠をがんばるべき
なのか?諦めるべきなのか?」![]()
それが自分の中でわからなくなったんです。
それで生理がとまり…。
そんなある日、
アメリカドラマがテレビで
放映されているのをたまたま観て、
そして、
楽しくてドラマを見続けたら
私の違和感の正体がわかったんです。![]()
それは私自身が
「2回流産をした」
という事実を
ただ事実を事実として
受け入れることを
してなかったこと
それが
私にとって違和感だったのだと。
身体を癒すとか
子供がいない人生も考えることは
流産をしたあとの話であり
流産したこと、そのものズバリを
誰も話してないんですよ。
でも、それは
流産したこと、そのものより
そこに付随する
価値観というか感情
について目をそらしたいから、
であって、
当事者でない人からしたら
さすがに、その付随する価値観が
つきまとうので
言葉を濁すしかないんですよね。
私だって、流産した直後の人に
声かけするときは
同じようなことを言います。
だけれど、それじゃあ、次に進めないん
ですよね。
流産したからって
それで人間の価値が下がったりしないし
妊娠→出産できた人よりも
人間的に劣っているわけではない。
それは頭ではわかってたけれど
どうしても、流産したことを考えると
「自分がダメな人間と認めること」と
なってしまうような気がして
流産したことから目をそらしていた自分が
いるんだ、と。
悪いのは
「そのような価値観を持つ
差別の心のある自分の考え」であり
流産したこと、そのものに
良い、悪いはない。
ただ、流産したことの真実だけ。
そして、その事実を受け入れたとき
初めて自分の本当の気持ちがわかったんです。
私自身が流産したことで
一番辛かったのは
他の人のように妊娠→出産できなかった
劣等感ではなく
「自分が妊娠を
希望してしまったことで
死を産み出してしまったこと」
だったのです。
流産の原因は染色体異常だし
別に私自身が
何かをして流産したわけでは
ないけれど
「流産」とは「我が子の死」。
その考えが
私の中にあったから。
私自身が妊娠を望まなければ
我が子が死ぬことはなかった。
それが何よりも辛かった。
流産してしまった子のことを
常に思いながら
自分を責め続けることが正しいのかも
しれない、
だって私が産んであげられない身体だった
のだから、と…
つまり、生きて産んであげられなかった
ことへの罪悪感と
自分が罪人になってしまったような
怖さがあった。
そう無意識に思って、
心の中で
「生理さえこなければ、自分はこれ以上、
また我が子の死に出会わなくてすむ。」
と思っていたのです。
そう気がついたとき、
「死に向き合うこと」
を決心しました。
「死」とは何か?
「生きる」とは何か?
そもそも、地球上でなぜ生物が
存在しているのか?
それについて、自分なりに考える、
そういうことを続けていくうちに
やっと前に進め、
生理も来ました。
そして、
最終的には家庭教師の仕事で、
大学時代に好きになった世界史の授業を
受け持つことになり、
それで
自分なりの気持ちに区切りをつけることが
できました。
もし流産していたら
私は世界史の授業をできないまま
一生を終えていた。
世界史の授業をすることが
大学時代からの夢で目標だった。
運命っていうのかな?
とりあえず、もう一回だけ
妊娠をする努力をしてみよう。
でも、あとは天に委ねよう、と。
他の人には私の人生は
「かわいそう」に見える人生かも
しれないけれど
私は、どういう人生を歩むか?を
決めて歩くのでなく、
目の前の対処をすることで
道を一つづつ作って歩いていこう、と。
目の前で起こったことに
一生懸命がんばって
自分しか歩めなかったオリジナルな人生を
歩みたいな、と。
その後、3度目の妊娠で娘を出産できました。
でも、妊娠できなくても
私は私なりの人生を歩めたと思います。
だって妊娠→出産で
私は仕事を失った。
もし子どもがいない人生なら
仕事を続けて、今ごろは開業していた
かもしれない。
それはそれで私らしい人生。
でも、もう2度と開業する人生は
今世は私は歩めない。
娘が産まれたあともアメリカドラマには
お世話になりました。
私が強迫性障害になったこと、
娘も自分も発達障害(ASD)であったこと、
そして、今は娘が不登校になったこと、
すべて、
「そこに付随する
価値観や感情を
切り離して、
まずは
事実だけを受け入れる。
そうでないと、
自分の本当の気持ちは
わからないし、
自分の本当の気持ちが
わからないと
前に進めない。」
という考えの元でいつも動いています。
娘の不登校は
「学校に行かないことになった」
ただそれだけのこと、
そこを受け入れてからでないと
「後の進路」や
「娘にどう親が接するのか?」
「私が本当にすべきこと」は
見えてこないなー、と。
アメリカドラマは
私にとって、
私の迷いに一筋の光を
示してくれます。![]()
ちなみに、私が心の支えになった
アメリカドラマというは
「Xファイル」、「ER」
「LAW&ORDER」シリーズ、
「クリミナルマインド」、
「MAJAR CRIMES」
「ホワイトカラー」
「スコーピオン」
…等々です。
最近は「FBI」「BULL」なども。
どのドラマでも
心療内科での診断やカウンセリングは
当たり前、という姿勢だし
自閉症スペクトラムや強迫性障害の
存在も、当たり前かのように出てきます。
私が強迫性障害じゃないか?と
早期に気づけたのは
「クリミナルマインド」のおかげで
そこから自主的に心療内科に行きました。
(結局、最終的には自力で軽症化した。)
これからもアメリカドラマを
見続けたいと思います。
みなさま、本日もありがとうございました。
以前の記事の続きで、
小学生の教科書に対して
私なりに思うことの話です。
私が小学生、中学生のときより
知識大量暗記方式から
みんなで考える、調べる、みたいな
内容方式に教科書自体も変わったみたいで、
そう変わった背景には
前向きな理由だけをピックアップするには
「自ら考えて欲しい」
「同い年の人達と
集団生活で成長して欲しい」
という大人の願いからかな?
と思います。
私としても
「一人一人が自ら考えて、
チームで一つの成果を出す」
というのは大切なことだと思うし
それが勉強の中の最終的目標であるのは
私も同じ。
しかし、その、「自ら考えられるようになる」という結果を出すためには
知識は敵、邪魔者、でなく
むしろ味方、相棒だよね?
と思います。![]()
これから習う内容に対して
予想したり、
習った内容に(偽善的な)感想を言うことも
悪いことではないし
自宅での自習や調べものをするのが
当たり前の環境のご家庭のお子さん
ばかりのクラスなら
そのやり方が可能かもしれないし
効果的かもしれないけれど
実際は
自習できる&調べることをできるご家庭と
そうでないご家庭があるので、
なかなか難しい。特に小学校は。
小学校、中学校で
しっかりと知識を得られるような
授業をすれば
社会人になったり
大学生になって
「自ら考えること」ができるように
なるのでは?と。
塾は行ける人だけ行けば良いと思いますが
教科書というものだけは
勉強の最後の砦になるので
実際の授業形式は
地域、学校、先生によって
いろんなバリエーションがあっても
良いけれど
教科書では、
知識は知識として
記載して欲しいなぁ、と。
教科書ですすめる、グループで
大学生のゼミの真似事、つまり
「ゼミゴト 」に私には見えてしまい
本来、知識をしっかり得ていたら
「自ら考えるスキル」も得られたはずなのに
「学校の先生や同級生の考えに同調する」
というスキルだけを身につけて
大人になったら、
常に「声のでかい人(自己主張の激しい人)」や
権力者に従うことしか生きる術がなくなる子も
多くなるのでは?と感じた話をしてきます。
そのなかで、特に心配になったのが
社会の教科書に対してです。![]()
私は大学時代、
国語と社会の教員免許を取得しました。
小学校の教員免許を持ってないのは
教育学部出身ではないからです。
通っていた大学自体に教育学部がなく
正直、小学校の教員を目指す教育学部の人が
どんな価値観を持っているのか?
取得にはどれくらいのスキル等を
必要なのか?は
わからないまま過ごしてしまいました。
(およその予測はついてます。)
なので、すべてを知っているわけでは
ないのですが、
ただ、大学で教員免許を取得するための
単位講義では、別の大学からの
教育学部の客員教授の
先生の講義も受けたことと、
教育実習なども行っているので
そこで感じた違和感についてお話したいと
思います。
国語の教員免許を取得する際は
そこまで違和感を感じませんでした。
教育実習のときは
「もう少し読解とか、文章の内容を
味わうとかの授業をしなくていいのかな?」
とは思いましたが、
まあ、国語の場合は
先生主導の授業なのが当たり前の姿勢だった
ので、そこまで違和感を感じませんでした。
しかし、社会の教員免許を取得するときに
受けた講義では違和感バリバリでした。
それは
「先生が教えて、
それを生徒さんが聞く形は悪で、
そういう授業をする先生は怠慢。
必ずグループを作らせて
生徒さん主体で、皆で力を合わせて
何かを自ら調べる形の
授業をするのが、
社会の先生として素晴らしい」
という教育方針であったことです。
ゆとり教育導入時期だったので
よけいにそういう流れだったというのも
あったのでしょうが、
そのときに
教員免許を取得するメンバーの意見は
「上が決めたことには意味があることだろうと思うので、従うことが正しいことだ」
で
「え??」とびっくりしました。
「総合的な学習の時間なら、
そのようにグループ分けをして
調べる、そのテーマが社会の内容、
…という内容なら、すごく良いと思います。」
でも、社会の授業では
きちんと知識を教えたい、と
私は思いました。
教員免許を国語と社会を
取得しましたが
教育実習などの確執もあり、
そして、グループ学習主導でなく
知識をきちんと教えるような形の
社会を何が何でも教えたかった私は
教員採用試験は受けずに
塾の講師になりました。
私は塾で私立中学入試の授業も
担当しました。(ほぼ、こちらがメイン)
覚えさせる知識量がハンパなく
びっくりしました。
そして、気がついたことがありました。
私自身は知識量が増えれば増えるほど
考える力はできたけど
それは
「一人で考えることが昔から好きだった」
から知識が増えれば増えるほど
自分の世界にこもれるから嬉しかった
だけに過ぎなく
「公的な答えのないことを考えること」
「一人でいること」
に価値観がない子にとっては
大量の知識提供はかえって苦痛を与え、
「考える心」を
失うものかもしれない、と。![]()
「とにかく覚えなきゃ」が先立ち
もうそれでがんばって
精神的にヘロヘロになってしまい
考える体力を失ってしまう子も
いました。
なので、
知識は私にとっては相棒だったけど
それが必ずしもすべての人に善き相棒とは
ならないのかも?とは思いました。
なので、
「私は、グループでの調べる主導の学校のやりかたは嫌いだけど、
そのやり方の方が合う子には合うかもしれないので、
私は私でやるべきこと(受験指導)をやろう」
と思いました。
学校のやりかた、塾のやりかた、
どちらが生徒のためになるか?は
その生徒さん次第であり
大人のほうが
「どちらか一方が一方的に正しい」とか
「すべての子供に合う方法を一つに決める」
ということは
教育の傲慢だと。
ただ、ですね、それは、あくまで
集団指導をする際の姿勢であって
親としては、
個人としては
「私はグループでの調べものをして、
ひたすら大人に感謝したり
子供らしい意見や偽善的な感想を言うような
授業は大キライ!」
なんですよ。
もちろん、公言はしませんが。
でも、娘が、学校の授業のほうが
好きならそれで良いし
グループでの調べもので娘が伸びるなら
それはそれでかまわなかった。
むしろ、私は私のやり方しか知らないけど
子供が違うやり方で伸びることを知れば
それだけまた私は色んなやり方を知ることが
できるから、そのやり方の知識が増えるのも
楽しい。
ただ、娘は、かなり私似でした。
小学校で不登校になったのは
先生が勉強苦手な子へ執拗な説教という名の
虐待をおこなっていたのを
黙って見続けるしかなかったことが
耐えられなかったことで
そのころは
社会科については
特に嫌だとか、そういうのは
娘の感情にありませんでした。
不登校になる前後の当時の娘にとっての社会は
「なんか、みんなで調べものをするもの」
「先生がプリントを配って、そのプリント内の
空欄に先生が黒板に書いた答えを書き込み、
最期はどれが好き?とか、感想を
みんなで発表するもの」
とか
「テストの問題がホンワカしているので
どう答えるかわかりづらくて苦手」
「先生が授業で話したことが
テストにはほとんど出なくて、
テストには教科書の文章が
そのまま空欄になっているものが
出たりして、文章をそのまま
覚えないと、人名を書くのか、
場所なのか、時期なのか?
何を書き込むかわからないものが出て、
どう勉強すればいいのかわからないのに
先生は「すべて覚えればいい」と
いう姿勢なので
自分は記憶力がないと感じて
どんどん社会が嫌いになっていった」
とか思っている様子でした。![]()
ただ、不登校になった当時は
学校の先生が勉強苦手な子にする対応に対しての対応が虐待だったことだけに頭を悩まし、
各教科に対しての不満は娘自身には
ありませんでした。
算数は解けるけどそれだけ
国語はつまらない、
理科は好き、
社会はつまらない、
英語は嫌い
という程度で、
どの教科も、
どうして自分がそういう
気持ちになるか?
は娘にはわかってませんでした。
でも、すべての理由が
自分がASDであること、
そして、
IQ凸凹のため
凹のほうは、一般的な方法でがんばっても
どうしてもできないまま
凸のほうだと、
「なぜ?」「どうして?」
「それをして、何が楽しいの?」
「それって、意味のあること?」
「一瞬でできるのに、なんで授業では
何度も同じことやって
一喜一憂するの?」
と思ってしまうため
娘には、イライラが貯まる。
すべての項目を平均すれば、
平均計算マジックで
平均的学力になるのだろうけど
どの項目も、平均レベルは
実際に存在しない。
とんどもなく苦手か
得意か、しかない。
そういうことで
娘の場合、短期記憶は強いので
定期テストで点数は取れるけど
学校の授業を聞いたから
点数を取れたわけでないのは
本人も感じていて…。
特に、社会はそれが顕著でした。
授業では、
教科書はほぼ使わず
プリント配布で
その空欄に文字を入れるけれど
ほとんどは
生徒さんの感想を言い合ったり
習ったもので、どれが好きか?
を発表しあうことで
時間が終わってしまう社会。
考察でなく感想を言うこと、
他の子の発表の良いところを述べることで
「考えられたね!偉い!」
と先生に褒められて終わりの授業。
別に他人の良いところを見つけて
それを言語化するのは良いことだけど
それって「自ら考える力」?
しかし、お互いを褒め合うことに時間をかけても、テストでは
教科書や副教材準拠の問題が出るので
「結局、どっちを先生は大切にしたいの?」
…となってしまってました。
でも、同い年の子と色々と話し合いながら
調べることで成長できる子もいるし
自分で調べられるようになるのは
良いことです。
ただね、
小学校の求める、自主性、調べる力って
「先生の中で決まっている
あやふやな価値観に
沿ったもの」であり、
かつ、
多数派の周りの人と
興味の対象や歩幅を
合わせる力
であり、
かつ、
書かれている内容を
「肯定」「同調」
という前提の調べ方なんですよね…。
なので、例えば
地元の祭りを調べよう!
…となっても
「その祭りを支えている方への感謝」を
前提に、
「その祭りの素晴らしさ」を調べよう!
みたいになります。
それは「道徳的」には正しいと思います。
だから「道徳」とか「総合的な学習の時間」に
するのなら、すっごく良いのです。
でもね、社会なら
その「祭り」は
「祀り」「政(まつりごと)」などに
関連していないか?
とか
元々は、人柱などの恐ろしいことを
していたのではないか?
とか
その祭りの起源は
何かの病原菌のパンデミックによる
死者への弔いだったり
日照りや飢饉などによる
神への捧げ
のものだったりすることだってあります。
また、そういう暗い歴史がなくても
例えば七夕祭りを調べるとしたら
まずは七夕とは何か?
になると
それは節句行事であり
じゃあ節句は陰陽五行説による暦の関連だから
…となると、陰陽五行説は?
…となり、
最終的には古代中国の春秋▪戦国時代まで
行き着いてしまいます。
でも、それを合計2時間くらいで
小学生が調べられるか?
…というか、たぶん、節句そのものを
理解するのにもすぐには難しい、
…となると、
結局、「地元のお祭りでは、○○を飾って、
◎◎を踊ります。」
と書くのだけで精一杯で、
そして、最後は
「色んな人が力を合わせてがんばることで
祭りが成功することを知りました。
とても感動しました。」
…という、肯定的な感想で終わる形に。
でも、まあ、それが楽しければ良いと思います。
でもね…、娘には合わなくて。
ただ、調べものをして、自分でまとめるのは
好きだったので、苦痛ではなかったのですが
「毎回、
感想ありきの調べものなのは
どうしてだろう…。
調べることにだけ集中したい。」
なストレスはありました。
長々と話していて、何が言いたいか?
というと、
「社会」という教科って
何なんだろう?
何のために必要なんだろう?
ってことなんです。![]()
用語を覚えることは
社会の一側面でしかありません。
そこだけにスポットを当てたら
社会はただの用語暗記の科目です。
でもね、用語暗記をすることは
「きちんと情報整理した結果」にすぎず。
用語暗記が出来たら、さらなる考えを
述べるときに、短い単語ですむんです。
例えば
「私は、長い細い白い?クリーム色の柔らかい棒みたいなのが、茶色い液体に入っているものを口にする。その口にするものが好き。」
と言うと、長々と聞き、頭に入りづらい。
でも、
「私はラーメンが好き!」
なら頭にすぐ入ります。
そして、次の会話も繋がります。
でも、それは、
「ラーメン」が、食べ物であり、
それがどういう形状なのか?
どんな味なのか?
を知っているからこそ、
ポンポン話が続けられるんです。
つまり
単語というのは単語の発音、
字面だけ
で存在しているのではなく、
その単語が持っているイメージや内容、
背景まで含めた上で、
初めて、単語としての価値が生じます。
だから、社会で覚える単語も同じ。
提示された単語に対して
字面だけ覚えれば良いという問題でない。
その単語が
人名なのか?場所なのか?
また、どういう状況での単語なのか?
なども知る必要があるのです。
だから、別に
社会で、先生が主体で、
覚えるための単語を
たくさん出して
授業をすること、
その行為だけでは
子供の自ら考える思考力や
調べる力は
失いません。
ただ、そのやり方!
やり方が問題なのです。
強制的に、わけもわからないまま
単語を何度も書かせたり
100点とるまで何度もやらせて
100点をなかなかとれないと人格否定
するような指導。
それじゃあ、子供は
思考力も調べる力も持てません。
この力が元々あっても、
中学生になるころには失います。
つまり、
単語暗記そのものでなく
指導方法が問題
というわけです。![]()
![]()
それは、今の
「みんなで調べて、
感想を言って終わり」の授業でも同じ。
いくら調べるという行為をやるとしても
それを「先生と思うこと」と違うことを
したら人格否定されたり、
周りと合わせられないと
勉強する権利を失うと思わせてしまうような
強制力のある指導をしたら
結局、調べる力も育たない。
だから、
教科書がいくら覚える単語を減らして
みんなで力を合わせて調べる、ゼミゴトを
薦めても、
人格否定するような指導をしてたら
同じような結果になるなー、と。
ここで、教科書の話。
娘の場合、今は小学校に行けてないし、
元々、知識欲はあり、
一年間くらい家で勉強するようにしたら
単語を覚えること自体は快感なのと
わかったので
正直言って、
「みんなで考えよう!」
「周りの人に感謝しよう!」
という感じがバリバリする教科書を
読むのが、だんだんとしんどくなってしまった
のが、2ヶ月前あたり。
そして、それでも、私と二人で
教科書主体の勉強をしてきたけど、
なんか「教科書で勉強するとストレスたまるので、教科書はあくまで補助教材にして、
昔の教科書みたいなカリキュラムに組み換えよう」ということにしました。
まあ、いわゆる、
私立中学入試問題みたいな
感じですね。
私立中学入試の社会の内容って
40年くらい前なら小学生が小学校で
習っていた内容だよね?というところも
多いんですよね。
なので私立中入試は受けないけど
社会だけは私立中入試向けの参考書とか
問題集を使って勉強することにしたら
かなり大変な内容ですが
ストレスは減りました。
覚える単語も多いし、問題も難しいけど
他人のご機嫌を伺いながら
勉強するよりは
ストレス少ないんですよね。
ひたすら、一人でコツコツと勉強するのが
とーんでもなく楽しいし、落ち着く感じです。
これからはどういう風になるか?
今の状態に後で公開する日が来るかも
しれない。
でも、こんなに勉強が楽しく感じた
時期は今で、
今を楽しめば
また未来に立ち向かう力が
手に入ると考えて
今はひたすら自宅での勉強&授業を
がんばりたいと思います。
みなさま、本日もありがとうございます。
本日は、不登校の娘に勉強を教えていて
気がついたことを書きたいと思います。
「わからない」
という言葉が
相手から出たとき
それについて、
受け手の方は
どう思うんだろう?
ということ。
私は小学生のとき
先生に「わからない」と言うと
世間的に優しいと言われている先生は
「やり方」を教えてくれました。
小5、6の担任は、私をバカよばわりして
迫害しました。
また、大人になってからも
PTAの業務で
まだ慣れてない初めての業務について
ある人に
「わからないので教えていただけませんか?」という相談をしたら
「紙に書いてあることを、発表の場で
そのまま言えば大丈夫だから」と
言われてました。
小5▪6の担任の悪意に満ちた対応に
関しては、それについて話すと
多くの人はその担任がおかしい、とは
言ってくれますが
それは迫害をするという対応がおかしい、
であって
「わからない」という内容の対応そのものが
おかしいと言っているわけではないな、
と感じます。
やり方を教えてくれた先生も
その場が困らないように対応してくれた
PTAの人に対しても
善意で言ってくれているのはわかるし
感謝すべきなのは頭ではわかっているし
きちんと表面上ではお礼を言って
絶対に不満な顔も見せませんが
実は、最近まで私は
「わからない、と相談しても
やり方だけを伝える人は意地悪だ」
と思ってしまうときがありました。
(今は違います。)
もちろん、相手は言わないけれど…。
それは私の被害妄想だろう
とは頭ではわかっているけれど
どうしても
「なんで相手は
いつもいつも
私の質問に
答えてくれないの?」
という不安感?疎外感?は
どうしても出てきてしまってました。![]()
![]()
相手のことを悪く思う自分が
とてもワガママでダメな人のように
感じてしまう日常。
現在、私は小学校不登校になった娘に
算数の授業をしてします。
娘は、ことあるごとにひっかかり
本人が欲しい解答(回答)が出るまで
ずっと癇癪おこし続けます。
でも娘はただ大泣きしているわけでなく
泣いて怒りながら自分の考えを述べます。
娘が言ってた例としては
と言って、円周の長さを求める計算問題を
解こうとしても、
解き方はわかっていても
納得できなくて怒り狂って
泣き叫んだり…![]()
![]()
![]()
算数だけでなく理科でも
電流の、プラス極とマイナス極を
入れ換えると、磁力の向きが変わるというのを
初めて習ったときも
と言い出し、その理由が解決できるまで
先に進めなくなったり。
この内容は
「電流の向きによって磁力の向きも変わるよ!」という事実だけを習うもので
問題を解くにも、そのことだけわかれば
解けるものでした。
しかし、娘が求める解答を教えるには
電流や磁力とはそもそも何か?を知り
電流と磁力の関係性を深く考え、
右ネジの法則などの中学の内容を教える必要
がありました。
また、他にも
などなど、覚える内容に対して、
その覚える意義がわからないと
永遠にその疑問で頭がいっぱいになり
覚えられません。
つまり、娘にとっての「わからない」は
「やり方」についての「わからない」
ではなく
についての「わからない」だったのです。
そして私も同じだったんだ!と。
ただ、私の場合は
それでもなんというか
小5、6でいじめられ、バカにされつづけ、
さらに、いじめの後遺症で一度0点をとって
しまったのがトラウマであったのと、
自己顕示欲が強かったので
「わからなく」ても、
その場しのぎで
点数をとる、
というのを中学からはするようになり
やっと、自分なりに考えることで
解決できるようになったのは
高3の夏休みからでした。
高三の夏期講習の予備校(塾)でたまたま受けた、世界史の先生が
「地図を見て考えたら歴史はわかる」
ということ、
「考えること」の大切さ、
「知識」と「知識」を結びつける行間は
自分自身で見つければいいんだよ、
ということを教えてくれたことから
私の勉強への取り組みは変わりました。
それまでは、
「わからない」→「点数をとれない」だと
先生には
解き方を教えられるか
何度も問題演習をするように
と言われてばかりでしたが
その世界史の先生は、
「わからない」→「点数をとれない」なら
「自分のわからないことに
向き合うこと」を
も目的として、
その解決方法は
「己の思考力」
としてくれたんですよね。![]()
妄想ではないけれど、
答えはどこにも書いてないので
予測するだけだし
自分の中で自己完結の答え。
でも、他人が自分の欲しい答えを
くれなくて癇癪おこして
先に進めないより、
自分なりに自分の欲しい答えを
「仮定」として出して
癇癪おこさず先に進み、
全体把握してから
また戻って気になるところは
学術的に正しいか?の
検証をすればいいじゃないか!と。
その先生がいなければ
私はこんなに歴史好きにもならなかったし
塾講師の職業を私は選ばなかったでしょう。
話を元に戻します。
娘が「わからない」と言って癇癪をおこし
それ以上先に進まない状態を見て
多くの人は、おそらく
…とか
泣けばすむと思ってる。
円周率の問題とか
何度も解けばいいだけのこと。
都道府県が覚えられないから
ゲームなり音楽なり使って覚えたり
何度も問題演習して覚えりゃいいのに、
「なんでそんなことするの?」と
口答えばかりして、人生なめてる!
…と思われるかも?と。![]()
(私の経験上。娘の場合は、幼稚園の先生からの蔑みでこりたので、小学校では
まじめでおとなくしく、
ほぼ静かで穏やかな子と
見られてたので。)
そのように思われるのは
その子が言う「わからない」は
「解き方がわからない」
「楽に覚える方法がほしいから、
わからないと言っている」
という考え方かな?と。
でも、
「わからない」は
意味は2通りあって
おそらく、やり方を教えることしか
しない先生たちやPTAで出会ったあの人は
「私の、わからない」と思う感情を
今まであまり体験したことが
ないのかもしれない、と。
(ちなみに、やり方を教えてくれた先生や、紙を渡したPTAの人にも、その場は笑顔で感謝を伝えましたし、誰にもその先生やPTAの人の悪口不満も言ってません。
ただ心の中で、
私は「わからないことがあれば聞いてね」、
と言われたから聞いたのに、
とんちんかんな返答をされてばかりで
困っているのに誰も助けてくれない、
と思ってた、という意味です。)
その意義や存在理由さえ「わかれば」
どうしていくか?の具体的方法を
考えることはできるし
多少理不尽だな、とか、
めんどくさい、やりたくないな、
と思っても、きちんとやりとげます。
中学以降では、
主に塾で…ですが
授業がすごくわかりやすい先生に
出会えました。
その先生に共通してたのは
しれっと
「この単元を学ぶうえで前提とする条件」
とか
「以前習った知識は実は後々の内容に
繋がっていくという伏線回収が、
みごとな授業構成」
をしてくれた先生だったりします。
つまり、それって、
私や娘の「わからない」を解消してくれる
内容なんですよね。
「将来のため」のいう、
ほんわかした理由でなく
すっごく具体的な理由で
説明してくれるから。
今回、何が言いたいか?というと
「わからない」という言葉には
2種類あって
相手がどちらの意味で言ってるか?を
把握してから、のアドバイスでないと
相手は困ってしまうのだな、
と経験上思ったので
娘に授業をするときや
今後の人間関係で
色々と気を付けたいなぁと
思って、自分の考え方の備忘録として
書かせて頂きました♪
みなさま、本日もありがとうございました。
今日は学習手段、ツールについて
思うことを書きたいと思います。![]()
私としては
どういう学習ツールでも
本人に合えば良いと思ってます。
でも、最近の「タブレット学習」推しや
紙の教科書は不要!というのは
自分や娘には合わなくて辛いです。![]()
よく
「タブレット端末学習のほうが
子供が楽しんで勉強できるので
長続きできる!」
とか言われるけど
娘はタブレット端末の勉強は苦手で
ひたすらノートに自分で書いてまとめて
勉強したがります。![]()
タブレット学習のほうが合う人もいるので
私たちが合わない、という意味で
頭をまとめるために書いたもので
タブレット学習や電子教科書や
そちらの学習方法を愛用している方々を
批判しているわけではないです。
そして最後に、私なりの考えを
述べています。
<読書とゲーム>
私も娘も電子書籍は読みますし
テレビゲームもします。
…というか、電子書籍の読書も
テレビゲームもほぼ毎日してます。
1:読書
私の場合は、古典が好きなので
「論語」とか「資本論」などの古典?作品を
読んだり、
歴史関係の本を読んだりします。
小説に関しては、森鴎外と芥川龍之介が
好きなので純文学を。
あとは何と言っても、マンガですね。
マンガ大好きなので
毎日必ず読みますし
定期購読雑誌は四冊、
単行本も買ってます。
雑誌と、とても気に入った作品は
紙の単行本で買ってますが
電子書籍で読んでいる作品もあります。
本を読む行為を1日のうちに
できないことは地獄です。
仕事や育児でどんなに忙しいときも、
また発熱してたときも
本は必ず読んでました。
2:ゲーム
ゲームも大好きです。
私は嗜み程度ですが
娘と夫は心の支えレベルで好きですね。
マリオ系にカービィ系、あつ森、
桃鉄、ぷよぷよ、テトリス、
スマブラ、ポケモン、
牧場物語、はじプロ、などなど…
有名なゲームはかなりやり混んでます。
ただ、ゲーマーからしたら
かなりライトなゲームのみですが。
他にも、
オセロ、や、
トランプゲームの
ポーカー、ど貧民(大富豪)、7ならべ、
も大好きです。
特にポーカーが好きな娘は
正月やお盆に私の実家に帰省するとき
親戚みんなでポーカーゲームをするのが
楽しくて実家に帰りたがります。
娘は、ゲームに関しては
負けようが
うまくいかなかろうが
それを含めて大好きみたいです。
何回かプレイしていくと
その世界のルールとか世界観が
わかってきて、
じゃあ、自分はどう攻略していくか?
の道筋がわかってくるので
それに向かってひたすら努力!
その努力が実れば嬉しいし、
でも、うまくいかなければ
また別の対策を立てたり
弱い部分を強化したり…
そういう努力そのものの行為を
含めて、ゲームは楽しい。
むしろ、攻略した結果そのものより
攻略する過程が一番楽しい形。
最初は簡単に解けるけど
だんだんと難しくなり
あるとき、
あと一歩で解けない!という状態に。
でも、コツコツと積み重ねて
努力していくと解ける!
そういうゲームの楽しみかたを
私も娘も夫(父)もしています。
夫はいかに、
効率よく最強のポケモンを育てるか?
とか、
いかにゴールをしないでお金を稼ぐ社長になるか?(桃鉄)、
いかに効率よく連続必殺技をくりだすか(格闘ゲーム)…などを、時間をかけて
試行錯誤するのを楽しみます。
攻略本はかなり読みこなしてて
暇さえあればスマホで調べてゲームを
しています。
娘の場合は
あつ森で自分の中の世界を
いかに出力するか?
とか、
あつ森や牧場物語で区画整理をするときに
左右対象や、合同な大きさの区画を
きれいにつくるか?
というのを楽しんだりします。
また、格闘ゲームや落ちゲーも
いかに攻略するか?を調べて
一人で何度も練習したり…。
夫や娘はゲームで
最初は簡単だと思っていたら
途中からむずかしくなる、そして、
できないこと、クリアできないこと、
そのものが、
次のステップの楽しみ。
できないのは、実はその世界の
クリア条件がわかってなく
その条件をさがして…
のくりかえし。
さてさて、話をタブレット学習に
戻します。
私は
スマホやパソコンでの調べものもするし
パソコンで参考書や問題を私も
作ることも多いです。
そのため、
タブレット学習が悪いとは
思ってません。
タブレット学習の恩恵も
受けてます。
…ただ、ですね、
私にとっては
電子書籍や
タブレット学習系って
あくまで補助という位置付けなんですよ。
たくさん読みたいのと
持ち運びが楽なので
電子書籍はありがたいです。
でも、すっごく気に入った作品や
キャラクターの模写をしたいときは
紙の書籍を買います。
(キャラクターの模写は、模写そのものは
違法ではないです。模写したものを
自分のオリジナルとして発表したり、
売ったら違法です。)
理由は、自分のペースで読めるから。
電子書籍だと画面を触ってないと
画面が暗くなったりしますし
ずっとつけておくと電池の減りが
すさまじいことになります。
また、マンガではなく
論文系、学習系、知識系だと
文章に書き込みしないと
頭に回らないんですよね。
教科書とか参考書とか
書き込みまくることで
私は頭をまとめています。
娘も同じみたいです。
そこらへんがタブレット端末だと
書き込みしにくかったりします。
他にも、カラフルすぎたり…。
また勉強って、トイレや水分補給の
休憩ははさみつつも
5時間くらいぶっつづけで
勉強したいじゃないですか!
紙ならそれも可能だけれど
タブレット端末だと
目がもたない。
つまり、何が言いたいか?というと
「理解していくためのツール」としては
私にはタブレット端末だと
使いづらい、ということです。
自分なりに書くことで
情報や思考をまとめていくので。
また、書いたほうがはやいんですよね。
パソコンのキーボード入力や
タブレット端末だと
手の速さにパソコン、タブレットの
動きが追い付いてくれなかったりします。
また、手書きだと、省略とか自分だけが
読めればいいようにカスタマイズした文字が
書けるので
頭の思考の速さで
手の速さが追い付いてくれたり。
じゃあ、タブレット端末の良いところって
何か?というと
理解したあとの
問題演習のときなんですよね。
理解しても、ある程度、
問題演習量をこなさいと
解く速度があがらないし、
無意識に答えは出せないです。
焦ったり、不安感などの
感情によって、解けなくなったり
トイレ行きたくなったときに
解けなくなったりしたら
キツいです。
どんなに焦っても自分の名前を忘れることは
ないのは、
毎日のレベルで名前は
書いたり見たり話したり聞いたりで
反復して脳に入っているからです。
問題演習は
「わかっているなら解かなくて良い」
ではなくて
「わかっているからこそ解くことで
どんなときにでも正解できるための
スキルをあげていく」ものです。
それについて、
まずは紙の問題集や
自分のノートに
書いて解いていきます。
理解、や、定着するまでは
書く!書き込む!
しかし、もう、問題が頭に浮かぶようになってきたら、
タブレット端末での問題演習のほうが
問題数が多くなるので良いかも?と。
また、履歴が残るので
自分でデータを出さなくても
コンピューターがデータを管理して
弱点部分などを教えてくれたり。
まあ自分でデータをまとめて
それを解析すること、
それ込みで教育の楽しみだとは
思うけれど
生徒さんには、それは難しいので
そこはタブレット端末は大きな味方ですね。
娘があるタブレット端末で
問題を解いたとき
娘と二人ですごくストレスを
感じたことがあったんですよ。
たまたまその問題アプリだけなのかも
しれませんが、
問題を一問解くごとに
正解か不正解か
出て、そして、
また問題を解く、
…という繰り返しの形が
すごく娘や私にはキツかったです。![]()
どういうことか?というと、
一つの作業に集中しないと
頭がまわらないため
問題を解くなら
ある程度の区切りをつけるまで解く
そして、丸つけは丸つけだけやって
そのあと、間違っていたものを見直して
そのあと、間違っていたものだけを
覚え直しなり解き直しをして
…とやりたいんです。
それを、一問ごとに
解く→丸つけ→答えを知る
というようにモードをいちいち変えるのが
苦痛で。
ASDは気持ちやモードの切り替えが
苦手なので、そのせいかな?と
思いますが、
すべてのASDの人がそうじゃないし、
慣れないのもやり続けると
ルーティーン作業にはなるので
やり続ければ、そのような
学習方法でもなんとかなるのでは?とも
思います。
また、
ゲームをやりこむのが好きな娘としては
勉強をゲーム仕立てにしているゲームが
悪い言い方だと、
どうしても違和感を感じてしまいます。![]()
また小学生のものだからなのかも
しれないのですが
解ける楽しみ!を
というのが前面に出されてて
いや、解けるのはあくまで結果にすぎなくて
その解けるまでに
あらゆる知識とか経験とか
そういうのを使ってクリアするものだよ、
というものが見えなくて、
というかなんというか。
おそらく、子供はゲームが好きだろう、
だからゲームの雰囲気で勉強すれば
楽しいだろう、
正解するのが増えれば自己肯定感も
あがって勉強続けられるよね!
という考えなのかな?と感じます。
それが悪いとは言いません。
ただ、
この学習ツールって
家庭用ゲームが好きすぎて
廃人になった経験のある
ゲーマーさんが作っているわけでない気が
する!
と感じるんです。
先程も書きましたが
家庭用ゲーム機のゲームって
クリアするから楽しいわけでなくて
クリアするために必要な
アイテムなりスキルなりを
だんだんと身に付け
クリアできなくても
クリアできる方法を楽しむ形や
昔なら、セーブできるところが
決まってるので
何度もエリアボスやラスボスに負けて
最初の入り口に戻り、
それでも、毎日がんばっていくことで
クリアしていく。
そういう充実感がゲームの楽しみだったり
します。
もちろん、人によります。
クリアしたこと、そのものより、
クリアするために色々と試行錯誤して
がんばったことが楽しい。
また、シリーズものだと
キャラクターやステージ、世界観、
パターンが掴めてくると
またそれが楽しかったりします。
でも、学習のためのゲームって
ゲームとしてはタルい、
もしくは
ゲームというよりは
スタンプラリー?
みたいな側面が大きく感じます。
おそらく、
タブレット学習専用のアプリとか
専門の学習ツールだと
また違ってはくると思いますが、
なんというか
ゲームと勉強は
どちらも
その世界観やルールを理解して
失敗したりしながら
できるようになるのが楽しいわけで
紙ツールで勉強して感じる楽しさ
と
ガチの家庭用ゲーム機でするゲームで
感じる楽しさ
のベクトルは同じと感じます。
ゲームを廃人になるまで
やりこんだことで
得られたスキルなり知識なりが
結果として、勉強関係に役立つことは
多々あります。
とくに、「信長の野望」「桃太郎電鉄」は
社会の知識に直結してくるので。
でも、それは、
「勉強できるためにゲームを利用した」から勉強できるようになったわけでなく、
「ゲームをゲームとして、本気で楽しんだ」から
勉強もオマケでできるようになっただけです。
しかし、ゲームで勉強、となると
そのゲームのベクトルが別になってて
かえって、勉強するベクトルが
よくわかんない方向に行ってしまいます。
ただ、ですね、
一番言いたいことは
昔ながらの紙の教科書に板書を
ノートに写すのが良いとか
タブレット学習のほうが良いとか
どちらが良いか?
一つに決めよう!
という論争ではなく
タブレット端末という
勉強ツールが
一つ増えた!
という事実を
喜ぼうよ!
一つでも勉強ツール、勉強道具が
増えれば、それだけ、
勉強する子供たちも選択肢が増えて
無理に合わせなくても勉強できたり
知識の幅がひろがるじゃん!
というので良いよね、と。
板書を書き写すのが苦手な子は
それまではそのような学習方法しか
なかったから困っただろうけど
タブレット端末のおかげで
その苦労がない分、
勉強に集中できて、
かえって勉強が好きになったり、
…もあるわけです。
また、
私自身、高校までは
紙の辞書しか使いませんでしたが
大学以降、塾で教える側になったときは
電子辞書を使うことが多く、
便利でした。
英語だけでなく、古語も現代語も
載っているので
瞬時にわかるから。
さらにスマホの登場で
あらゆる情報を調べられるし
画像も簡単に出てくるので
現在娘に授業するときは
スマホで調べたものを見せたりします。
電子辞書やスマホの登場で
私や娘の学習の幅も
広がっています。
でも、理解するとき、初めての文章の
ときは、紙の分厚い辞書を使います。
そのほうが全体が見渡せ
理解しやすいから。
…ということから、私は
すべての学習を
タブレット端末学習、電子書籍で
…というのは無理!
理解するときは紙で!
タブレット端末では
調べものをしたり
もうわかりきっている問題を解くために
使いたい。
でも、私たちと違って
タブレット端末の勉強のほうが
頭に入りやすい、
勉強しやすい人もいる。
なので、勉強ツールの
選択肢が増えれば
それだけ、救われる子もいたりするので
紙の勉強も
タブレットの勉強も
歌やゲームを利用した勉強も
色々とあっていい!
という形で、世の中で生きられるといいな、
と思います。![]()
みなさま、本日もありがとうございました。
みなさま、本日もありがとうございました。
12月の熱騒動で更新が遅れてしまって
いましたが
木曜日なので、実録エッセイまんが
の更新をば♪
今回で第一部はおしまいです。![]()
ご覧頂き、ありがとうございました。
みなさま、ありがとうございます。
書こうと思って遅くなってしまいましたが、
さすがに年をまたぐのは
どうか?と思って
今更ながら書いちゃいます。
今年、やっとやっと、
やっとやっと、
娘とプロ野球の観戦を
することができました!!![]()
![]()
![]()
![]()
幼稚園児のころから
野球観戦に行って楽しんでいる
親子もいて、
娘が幼稚園児のときは
当時はうらやましくて
しょうがなかったです。
もちろん、娘が幼稚園児のときに
家族で野球観戦に行きましたが
結局、娘はパニックになってしまい、
すぐ帰るしかない状態が
何回もあったので
もう一生、野球観戦をしに
野球場に行くのは無理かなぁ、と
諦めてました。![]()
今から考えると
聴覚過敏の子なので
応援するチームの
ヒットやホームランが出ると
大歓声がおこるのが
娘には怖くてしょうがなかったのでしょう。
それが、たまたま、な会話で
娘が野球に興味を持ち、
プロ野球の観戦にも
楽しく行けるようになったのです。
そのたまたまな会話とは何か?というと…。
…と、その前に…。
私は小5のいじめで
自分が当時好きなジャンル(ホラー漫画、変身もの、魔法少女もの、異世界に行ってその世界を救うもの(転生ものは当時はない)、ギャグ漫画)だったものを否定され馬鹿にされました。
そのとき、いじめをした同級生は
「漫画は漫画でも、
恋愛漫画とスポーツ漫画だけは
見ていても馬鹿にしないであげるわ!」
…と言われ続け
いじめが終わったあとも、
実は30年間
「恋愛漫画とスポーツ漫画は読まん!」
とかたくなに拒否してました。![]()
(ただ、当時、いじめの渦中に読んでいた
「こどものおもちゃ」だけは
恋愛中心の青春漫画でしたが最後まで
読みきりましたし、単行本も今も
持っています。
学級崩壊を扇動したり、
いじめをする人は
その人側の問題で、
その子をカウンセリングみたいな
対応を主人公がしていく、
産みの親より育ての親が大切、
という話がメインなので
好きでした。)
また、当時はプロサッカー(Jリーグ)が
誕生したばかりで
それまではプロ野球好きだった同級生が
こぞってサッカーファンに変わりました。
サッカーを好きになるのは
個人の自由なので良いことなんですが
そのときに、それまで好きだと
公言していたもの、今回だと、プロ野球ですね、それを
愚弄したんです、同級生たちは。
それは、
プロ野球に対して失礼だと思うし
真のプロサッカーファンとしても
マナー違反なのでは?と思うんです。
ただ単に「サッカーのほうが好きになった」
と言えばすむ話で、
わざわざ野球を、そして、野球を好きなままの
人を愚弄する権利はないのです。
でもクラスで目立つ子、
今で言うクラスカースト上位層の子が
プロ野球ディスりを開始したので
クラスの大半の子が、プロ野球ディスりを
し始めました。
また、その時期、私はいじめられている
時期と重なっていたため、
「まだ野球なんて好きなんだ!ダサっ!」
「あの最下位のチームを応援してるなんて
頭が悪い」とも言われて、すごく悔しくて。
なので、彼女たち、彼らたちが言う
「認めてあげる、スポーツ漫画」の
中には「野球」は入っておらず、
基本的に、サッカーかバスケでした。
当時は、サッカーとバスケが流行り
だったので。
そういうこと、もろもろあったため、
いじめが終わり、
小学校卒業し、
大学生になっても、
スポーツ漫画だけは
どうしても読めませんでした。
サッカーやバスケ漫画は
読んでしまい、楽しいと思ったら最後
「私をいじめた人のほうが正しく、
私がいじめられたことは
正義であると認めてしまう」という
ことになってしまう怖さがあってしまい
絶対に無理でした。![]()
サッカーやバスケの漫画には罪はないと
わかっているけど、どうしても無理なんですよね。![]()
![]()
![]()
しかし、野球漫画は読みたいなぁと
思っても、
読もうとすると、誰かに責められるような
気分になり、
怖くて読めない状態でした。
夫と結婚してからは
雑誌に載っている野球マンガは
読めるようになりましたが、
それはあくまで雑誌に載っているから、
であって…と言い訳しつつ読んでました。
面白いなぁと思いつつも
単行本を買ってしまうのは
何か恐ろしい迫害がまたおきるのでは?
という怖さで無理に。
しかし、娘が不登校になって、
もう別に、周りに合わせて
困ったときに助けてもらう努力より
自分で道を切り開く努力をするしか
なくなったので、
もう野球漫画読んじゃおう!と決めて
野球漫画を読み始めたら
面白いこと、面白いこと。![]()
そのように漫画を読んでたときに
娘が何を読んでいるのか、
聞いてきました。
それで私が
と言ったら、
娘はびっくり。
…と、衝撃発言。![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
それで、キャッチャーの役割とか
キャッチャーが見える視点は
他の人の視点と違うこと、
など話したら
突然、意味がわかったみたいで
…と娘。![]()
どうやら、娘は
野球とは何か?
ルール
楽しみかた
…を知らないから、
野球は理解できなくて
怖く感じていたいただけだった!!
…と判明。
娘は、
「理解できない=怖い
」
という思考になり
さらに、野球観戦は大声出す人がいるので
よけい怖かったんでしょうね。
そして、プロ野球観戦をしてみたら
まだ最初から最後までいられなかったけど
娘も楽しかったみたいです。![]()
テレビ中継だと
どうしてもピッチャーの視点と全体、
しか見えないんですよね。
でも、野球場で見ると、
打者ごとに守りの外野の選手の位置が変わっていたりするのを確認できたり、
盗塁するかも?と思って一塁を見てドキドキしたり、
塁に出た攻撃チームの選手と
その塁にいる守りのチームの選手が
仲良く話してたりするのを
見ることできたりするんですよね。
そういう楽しみかたもありますし、
自分だったらどう戦略するのかな?
と監督の気分になって見てて、
それで監督の考え方に
感動したり。
応援しているチームが
優勝しようが、最下位だろうが、
私はプロ野球観戦が大好きで、
野球という存在が
ゲームとして見ていくことが好きです。
同級生たちは弱いチームを
応援するのは愚者のすることのように
発言しましたが、
それって私からしたら
つまんないなー、と。
応援って、本気でそのチームが好きだから
応援できるので、
好きなものが存在している人生のほうが
私は好きだな、と。
娘も、だんだんと野球のことは
わかってきて、
それが楽しいみたいなので
来年も行けたらいいなぁ、と思います。
みなさま、おひさしぶりです。
毎日更新を心がけてましたが
体調不良で、ラクガキの絵さえ
描けませんでした。![]()
ただの風邪ではあるんですが
だいたい風邪をひくときは
集団生活と、どう自分は
どこまで寄り添うか?
どこまで反発するか?の
境界があいまいになり、
それでキャパオーバーして
ふだんなら倒せるウイルスが
倒せなくて発病…
みたいになってしまいました。![]()
![]()
(新型コロナではないです。)
今回の体調不良は
以前書いた記事のように
「個人情報なのではやく取りに来い!」
と学校側が連日の電話で急かすため、
パニックになり癇癪をおこす
娘をなだめつつ予定をかなり
変更することになり、
それで学校に行ったら
名前だけ書いてある白紙の紙を
渡されて、とくに何か言われることもなく
終了っていうことがあったのが
きっかけかな?と思います。
もう、その学校の事件があってから
それまでせっかくうまくいっていた娘が
また癇癪ひどくなり
強迫性障害もまた出てきて
すっごく疲れました、あー、疲れた。![]()
なんというか、それまでは
と思っていて、
それは未だに思ってます。![]()
偽善ぶりたいわけでなく、
「集団指導の限界」をよくもわるくも
生徒側の立場、指導者側の立場としても
経験しているので、
本気で
という、教育の闇の部分はあります。
それが良いか、悪いか?と言われれば
文句無しに悪いです。
でも、現状、そうしないと
授業運営が成り立ちません。
なので、それを「悪い」として
「正しい」状態にしたいなら
母体つまりクラスの集団を
変える必要があり、
今のように、住んでいる地域で
全生徒さんが一律に通い、
どのクラスも能力平均的になるように
クラス分けをする形から
変えなければいけないけれど、
かといって、私立小受験みたいな形にしたり
塾のようにテストの成績順にクラス分け、と
いうのも別の問題が出てきます。
なので、「悪い」と言って、消すのは
簡単ですが、
その「悪い」ものに代わる、「良い」ものを
作りだし、さらにそれを安定して供給できるようになるには、非常に難しいんですよね。
なので、うーん、教育の闇の部分を
どうするか?は常に模索していかなければ
いけないのが、教育現場や政治の役割
なのかな?とも思ってます。
話を元に戻します。
その現状、良くはないですが、
「集団授業を成り立たせるために
我慢をしなければいけない層」と
いうのが、私たちに当てはまるだけ、と
思っているから。
その理由は「自分達が発達障害だから」
ではなく
「集団で学んで
得られるものより
失うものが多いと
経験上わかっていて、
相手に要望するよりも
自分でなんとかしたほうが
楽で
一人(家庭内)で
基本的な勉強は
できてしまうことと
家族全員が
他人への見栄はりが
少ないから」
なんです。![]()
「元学校の先生、
元塾講師の先生を
している家庭で
不登校の子がいる
というのは
一家の恥だと思うことはないの?」
と、ある人に言われたことがあります。
いや、自分が塾講師をやってたときも
不登校の子や塾に行きたくても行けなくなった生徒さんに対して、
「恥ずかしい子」 「ダメな子、劣った子」と
思ったことはないので、
いや、別に我が子が不登校になったから
それが恥ずかしいとは思いません。
元、学校の教師である母も
「まあ、学校の集団指導に
ナポちゃんは合わんわな。」
とアッサリしてました。
恥と最初に思ってたのは
とーちゃん(私の夫)だけでしたが
あっさり今の教育現場の実情を話と
歴史的見地から私が話したら
あっさり娘の不登校を受け入れました。
「不登校を恥だと思わなければ
もう好きに家庭内で教育してしまおう!」
と、娘にとっての家族は承諾してくれました。
ただ、最終的に経済的自立というのが
娘には関係してきます。
それは小学校の不登校を解消する形以外で
成し遂げればよいわけで、
将来のためだけに
小学校の先生を頼ることを
もうやめたい。
そういう気持ちも出てきました。
話を元に戻します。
つまり、
「娘は、授業では、おとなしくできるし、
指示も通り、テストでも点数はとれ、
宿題も提出物もしっかり出すので
授業運営上、先生としては困らない。
なので、わざわざ
娘に合わせた集団指導までは
学校側がするメリットはない。」
ということ。
「一人で」と、「集団で」
は対義的な関係にある。
学校は「集団で」の指導なんだから
「集団で指導されて伸びる子」に対して
授業すればいい。
ただ、「一人で」の子が
進学やら金銭面での不平等が
出てこないように
気を付ける、
迫害をしなければ良い、
と私は良いと思ってます。
そう…、そう、
そう思っているのに
たびたび
「娘に合わせた指導ができない、ううん、
合わせる指導をする気はないくせに
娘に合わせろ!とだけは
言ってきて
娘が合わせられないと将来困るよ!と
脅すような指導だけする学校」
という存在と会話するだけで
私が疲れていたのは確かでした。
でも、個人情報なので取りに来い!と
言って白紙の用紙を渡されるまでは
学校に対しては
諦めの感情以外はなかったのですが
その事件以降は
嫌気がさしたんです。
他人からしたら、小さな事件。
でも、
「学校側にも何か事情があったのだろう」
とか
「学校側も先生なりに
娘を心配しての行動なのだから…」
という言葉さえ
発するのが
めんどくさくなりました。
「徹底的にガン無視したい…」
そういう感情が初めて出ました。![]()
![]()
それがいけないこととわかってても
出てくる感情。
攻撃もしないが、
相手をたてることもしたくない。
存在すべてをガン無視したい。
学校からの電話にも出たくない。
学校に荷物を取りに行きたくない。
怖いからでない、
めんどくさい、
何もかも
めんどくさい、
もう、
め ん ど く さ い !!!!
そういう、生まれて初めて出たため、
自分のなかで対応できなくて
ウイルスに負けました。![]()
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新型コロナではないのですが
うーん、かなり身体の回復が遅いです。
年齢的な問題かなぁ。
めんどくさいので
学校側からの連絡をガン無視したいけど
それは現状は無理なので
電話は出るし
荷物は取りに行く。
学校と話すときは
紳士な対応はするし
もめることはしない。
でも、精神的には
もう学校側をたてない、
私がどんなに悪者と他人に思われようと
少なくとも娘が小学生の間は
こちらの好きにさせてもらう、
勉強も小学生向けでなく
中学生向けの内容も
代数や移項も教える!
社会も、ばんばん、工業名と都市名も
覚えさせる!
国語も初見のものの読解も
古文読解もやらせてもらう!
学校の教育方法で
勉強させるのが
学校の教育方針を
たてるのも
もう めんどくさい!
もう、
学校側の勉強方法を
優先しない!
それくらいのレジスタンスは
行わせてもらう。
教育の
レボリューションやクーデターは
行う気はないが
レジスタンスはさせてもらう。
精神的な抵抗はするよ、
それくらいはするから!
それが今回の熱騒動で
決断したことです。
要は先取り学習解禁、
ってことです。![]()
ブログ更新、毎日はまだ無理ですが
ちょこちょこは更新をしていきたいと
思いますので
これからもよろしくおねがいいたします。![]()
木曜のマンガ更新も、
また来年から再開したいです。