今の教科書に感じた違和感2 社会の教科書と授業 | 「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

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ASD(自閉症スペクトラム)当事者で、娘もASDである、元社会科塾講師のセザール=れくす、が描く、「ASDのお子さん向けの受験勉強についてのブログです。
育児についての話や不登校の娘への対応の話、自分自身の生き方についても語ります。

みなさま、本日もありがとうございました。


以前の記事の続きで、

小学生教科書に対して

私なりに思うことの話です。


前回はこちら↓ 




1:前回のお話 と はじめに


私が小学生、中学生のときより


知識大量暗記方式から


みんな考える調べる、みたいな

内容方式に教科書自体も変わったみたいで、


そう変わった背景には


前向きな理由だけをピックアップするには


お願い自ら考えて欲しい

お願い同い年の人達と

集団生活で成長して欲しい

という大人の願いからかな?

と思います。







私としても


一人一人が自ら考えて、

チームで一つの成果を出す

というのは大切なことだと思うし


それが勉強の中の最終的目標であるのは

私も同じ。



しかし、その、「自ら考えられるようになる」という結果を出すためには


知識は敵、邪魔者、でなく

むしろ味方相棒だよね?

と思います。ラブ




これから習う内容に対して

予想したり、

習った内容に(偽善的な)感想を言うことも

悪いことではないし



自宅での自習や調べものをするのが

当たり前の環境のご家庭のお子さん

ばかりのクラスなら

そのやり方が可能かもしれないし

効果的かもしれないけれど


実際は


自習できる&調べることをできるご家庭と

そうでないご家庭があるので、


なかなか難しい。特に小学校は。


小学校、中学校で


しっかりと知識を得られるような

授業をすれば

社会人になったり

大学生になって

「自ら考えること」ができるように

なるのでは?と。




塾は行ける人だけ行けば良いと思いますが


教科書というものだけは


勉強の最後の砦になるので


実際の授業形式は

地域、学校、先生によって

いろんなバリエーションがあっても

良いけれど


教科書では、

知識は知識として

記載して欲しいなぁ、と。




教科書ですすめる、グループで


大学生のゼミの真似事、つまり

「ゼミゴト 」に私には見えてしまい



本来、知識をしっかり得ていたら

「自ら考えるスキル」も得られたはずなのに


「学校の先生や同級生の考えに同調する」

というスキルだけを身につけて


大人になったら、

常に「声のでかい人(自己主張の激しい人)」や

権力者に従うことしか生きる術がなくなる子も


多くなるのでは?と感じた話をしてきます。



そのなかで、特に心配になったのが

社会教科書に対してです。ガーン







2:社会の授業の変化


私は大学時代、

国語と社会の教員免許を取得しました。



小学校の教員免許を持ってないのは

教育学部出身ではないからです。


通っていた大学自体に教育学部がなく


正直、小学校の教員を目指す教育学部の人が

どんな価値観を持っているのか?

取得にはどれくらいのスキル等を

必要なのか?は

わからないまま過ごしてしまいました。

(およその予測はついてます。)



なので、すべてを知っているわけでは

ないのですが、

ただ、大学で教員免許を取得するための

単位講義では、別の大学からの

教育学部の客員教授の

先生の講義も受けたことと、

教育実習なども行っているので

そこで感じた違和感についてお話したいと

思います。




国語の教員免許を取得する際は

そこまで違和感を感じませんでした。

教育実習のときは

「もう少し読解とか、文章の内容を

味わうとかの授業をしなくていいのかな?」

とは思いましたが、

まあ、国語の場合は

先生主導の授業なのが当たり前の姿勢だった

ので、そこまで違和感を感じませんでした。



しかし、社会の教員免許を取得するときに

受けた講義では違和感バリバリでした。



それは


先生が教えて、

それを生徒さんが聞く形はで、


そういう授業をする先生は怠慢。



必ずグループを作らせて

生徒さん主体で、皆で力を合わせて

何かを自ら調べる形の

授業をするのが、


社会の先生として素晴らしい


という教育方針であったことです。



ゆとり教育導入時期だったので

よけいにそういう流れだったというのも

あったのでしょうが、


そのときに


教員免許を取得するメンバーの意見は

「上が決めたことには意味があることだろうと思うので、従うことが正しいことだ」

「え??」とびっくりしました。



「総合的な学習の時間なら、

そのようにグループ分けをして

調べる、そのテーマが社会の内容、


…という内容なら、すごく良いと思います。」



でも、社会の授業では


きちんと知識を教えたい、と

私は思いました。




教員免許を国語と社会を

取得しましたが


教育実習などの確執もあり、


そして、グループ学習主導でなく

知識をきちんと教えるような形の

社会を何が何でも教えたかった私は



教員採用試験は受けずに


塾の講師になりました。



3:知識重視かグループワークか?



私は塾で私立中学入試の授業も

担当しました。(ほぼ、こちらがメイン)


覚えさせる知識量がハンパなく

びっくりしました。



そして、気がついたことがありました。




私自身は知識量が増えれば増えるほど

考える力はできたけど


それは

「一人で考えることが昔から好きだった」

から知識が増えれば増えるほど

自分の世界にこもれるから嬉しかった

だけに過ぎなく



「公的な答えのないことを考えること」

「一人でいること」

に価値観がない子にとっては


大量の知識提供はかえって苦痛を与え、

「考える心」を

失うものかもしれない、と。ショボーン



「とにかく覚えなきゃ」が先立ち

もうそれでがんばって

精神的にヘロヘロになってしまい

考える体力を失ってしまう子も

いました。



なので、


知識は私にとっては相棒だったけど

それが必ずしもすべての人に善き相棒とは

ならないのかも?とは思いました。



なので、

「私は、グループでの調べる主導の学校のやりかたは嫌いだけど、

そのやり方の方が合う子には合うかもしれないので、


私は私でやるべきこと(受験指導)をやろう」


と思いました。




学校のやりかた、塾のやりかた、

どちらが生徒のためになるか?は


その生徒さん次第であり



大人のほうが

「どちらか一方が一方的に正しい」とか

「すべての子供に合う方法を一つに決める」

ということは


教育の傲慢だと。


4 : 親として思うこと


ただ、ですね、それは、あくまで

集団指導をする際の姿勢であって



親としては、

個人としては


「私はグループでの調べものをして、

ひたすら大人に感謝したり

子供らしい意見や偽善的な感想を言うような

授業は大キライ!」


なんですよ。


もちろん、公言はしませんが。



でも、娘が、学校の授業のほうが

好きならそれで良いし



グループでの調べもので娘が伸びるなら

それはそれでかまわなかった。


むしろ、私は私のやり方しか知らないけど

子供が違うやり方で伸びることを知れば

それだけまた私は色んなやり方を知ることが

できるから、そのやり方の知識が増えるのも

楽しい。





ただ、娘は、かなり私似でした。




小学校で不登校になったのは

先生が勉強苦手な子へ執拗な説教という名の

虐待をおこなっていたのを

黙って見続けるしかなかったことが

耐えられなかったことで


そのころは

社会科については

特に嫌だとか、そういうのは

娘の感情にありませんでした。



不登校になる前後の当時の娘にとっての社会は


「なんか、みんなで調べものをするもの」

「先生がプリントを配って、そのプリント内の

空欄に先生が黒板に書いた答えを書き込み、

最期はどれが好き?とか、感想を

みんなで発表するもの」

とか

「テストの問題がホンワカしているので

どう答えるかわかりづらくて苦手」

「先生が授業で話したことが

テストにはほとんど出なくて、

テストには教科書の文章が

そのまま空欄になっているものが

出たりして、文章をそのまま

覚えないと、人名を書くのか、

場所なのか、時期なのか?

何を書き込むかわからないものが出て、


どう勉強すればいいのかわからないのに


先生は「すべて覚えればいい」と

いう姿勢なので


自分は記憶力がないと感じて

どんどん社会が嫌いになっていった」


とか思っている様子でした。えーん



ただ、不登校になった当時は


学校の先生が勉強苦手な子にする対応に対しての対応が虐待だったことだけに頭を悩まし、


各教科に対しての不満は娘自身には

ありませんでした。



算数は解けるけどそれだけ

国語はつまらない、

理科は好き、

社会はつまらない、

英語は嫌い



という程度で、

どの教科も、

どうして自分がそういう

気持ちになるか?


は娘にはわかってませんでした。



でも、すべての理由が



自分がASDであること、


そして、


IQ凸凹のため


凹のほうは、一般的な方法でがんばっても

どうしてもできないまま



凸のほうだと、

「なぜ?」「どうして?」

「それをして、何が楽しいの?」

「それって、意味のあること?」

「一瞬でできるのに、なんで授業では

何度も同じことやって

一喜一憂するの?」

と思ってしまうため

娘には、イライラが貯まる。



すべての項目を平均すれば、

平均計算マジックで

平均的学力になるのだろうけど


どの項目も、平均レベルは

実際に存在しない。


とんどもなく苦手か

得意か、しかない。


そういうことで


娘の場合、短期記憶は強いので

定期テストで点数は取れるけど



学校の授業を聞いたから

点数を取れたわけでないのは

本人も感じていて…。



特に、社会はそれが顕著でした。



授業では、


教科書はほぼ使わず

プリント配布で

その空欄に文字を入れるけれど


ほとんどは


生徒さんの感想を言い合ったり


習ったもので、どれが好きか?

を発表しあうことで


時間が終わってしまう社会。


考察でなく感想を言うこと、

他の子の発表の良いところを述べることで

「考えられたね!偉い!」

と先生に褒められて終わりの授業。



別に他人の良いところを見つけて

それを言語化するのは良いことだけど


それって「自ら考える力」?



しかし、お互いを褒め合うことに時間をかけても、テストでは

教科書や副教材準拠の問題が出るので


「結局、どっちを先生は大切にしたいの?」

…となってしまってました。




でも、同い年の子と色々と話し合いながら

調べることで成長できる子もいるし


自分で調べられるようになるのは

良いことです。




ただね、

小学校の求める、自主性、調べる力って



先生の中で決まっている

あやふやな価値観に

沿ったもの」であり、


かつ、


多数派の周りの人と

興味の対象や歩幅を

合わせる力


であり、


かつ、


書かれている内容を

肯定」「同調

という前提の調べ方なんですよね…。




なので、例えば


地元の祭りを調べよう!

…となっても


「その祭りを支えている方への感謝」を

前提に、

「その祭りの素晴らしさ」を調べよう!


みたいになります。



それは「道徳的」には正しいと思います。

だから「道徳」とか「総合的な学習の時間」に

するのなら、すっごく良いのです。



でもね、社会なら


その「祭り」は

「祀り」「政(まつりごと)」などに

関連していないか?

とか


元々は、人柱などの恐ろしいことを

していたのではないか?


とか


その祭りの起源は


何かの病原菌のパンデミックによる

死者への弔いだったり


日照りや飢饉などによる

神への捧げ


のものだったりすることだってあります。



また、そういう暗い歴史がなくても


例えば七夕祭りを調べるとしたら


まずは七夕とは何か?

になると


それは節句行事であり


じゃあ節句は陰陽五行説による暦の関連だから


…となると、陰陽五行説は?


…となり、


最終的には古代中国の春秋▪戦国時代まで

行き着いてしまいます。



でも、それを合計2時間くらいで

小学生が調べられるか?


…というか、たぶん、節句そのものを

理解するのにもすぐには難しい、


…となると、



結局、「地元のお祭りでは、○○を飾って、

◎◎を踊ります。」

と書くのだけで精一杯で、


そして、最後は

「色んな人が力を合わせてがんばることで

祭りが成功することを知りました。

とても感動しました。」


…という、肯定的な感想で終わる形に。



でも、まあ、それが楽しければ良いと思います。



でもね…、娘には合わなくて。


ただ、調べものをして、自分でまとめるのは

好きだったので、苦痛ではなかったのですが




「毎回、

感想ありきの調べものなのは

どうしてだろう…。


調べることにだけ集中したい。」


なストレスはありました。


5 : 言いたいこと


長々と話していて、何が言いたいか?

というと、




「社会」という教科って


何なんだろう?

何のために必要なんだろう?


ってことなんです。泣き笑い




用語を覚えることは

社会の一側面でしかありません。


そこだけにスポットを当てたら

社会はただの用語暗記の科目です。



 でもね、用語暗記をすることは

「きちんと情報整理した結果」にすぎず。

用語暗記が出来たら、さらなる考えを

述べるときに、短い単語ですむんです。




例えば

「私は、長い細い白い?クリーム色の柔らかい棒みたいなのが、茶色い液体に入っているものを口にする。その口にするものが好き。」


と言うと、長々と聞き、頭に入りづらい。


でも、


「私はラーメンが好き!」


なら頭にすぐ入ります。


そして、次の会話も繋がります。



でも、それは、

「ラーメン」が、食べ物であり、

それがどういう形状なのか?

どんな味なのか?


を知っているからこそ、


ポンポン話が続けられるんです。



つまり


単語というのは単語の発音、

字面だけ

で存在しているのではなく、



その単語が持っているイメージや内容、

背景まで含めた上で、


初めて、単語としての価値が生じます。



だから、社会で覚える単語も同じ。


提示された単語に対して

字面だけ覚えれば良いという問題でない。


その単語が

人名なのか?場所なのか?


また、どういう状況での単語なのか?


なども知る必要があるのです。




だから、別に


社会で、先生が主体で、

覚えるための単語を

たくさん出して

授業をすること、


その行為だけでは


子供の自ら考える思考力や

調べる力は

失いません。




ただ、そのやり方

やり方が問題なのです。


強制的に、わけもわからないまま

単語を何度も書かせたり


100点とるまで何度もやらせて

100点をなかなかとれないと人格否定

するような指導。


それじゃあ、子供は

思考力も調べる力も持てません。

この力が元々あっても、

中学生になるころには失います。




つまり、


単語暗記そのものでなく


指導方法が問題


というわけです。アセアセアセアセ



それは、今の

「みんなで調べて、

感想を言って終わり」の授業でも同じ。



いくら調べるという行為をやるとしても

それを「先生と思うこと」と違うことを

したら人格否定されたり、

周りと合わせられないと

勉強する権利を失うと思わせてしまうような

強制力のある指導をしたら



結局、調べる力も育たない。



だから、

教科書がいくら覚える単語を減らして

みんなで力を合わせて調べる、ゼミゴトを

薦めても、



人格否定するような指導をしてたら


同じような結果になるなー、と。




ここで、教科書の話。



娘の場合、今は小学校に行けてないし、

元々、知識欲はあり、

一年間くらい家で勉強するようにしたら

単語を覚えること自体は快感なのと

わかったので


正直言って、


「みんなで考えよう!」

「周りの人に感謝しよう!」

という感じがバリバリする教科書を

読むのが、だんだんとしんどくなってしまった

のが、2ヶ月前あたり。



そして、それでも、私と二人で

教科書主体の勉強をしてきたけど、


なんか「教科書で勉強するとストレスたまるので、教科書はあくまで補助教材にして、

昔の教科書みたいなカリキュラムに組み換えよう」ということにしました。


まあ、いわゆる、

私立中学入試問題みたいな

感じですね。


私立中学入試の社会の内容って

40年くらい前なら小学生が小学校で

習っていた内容だよね?というところも

多いんですよね。



なので私立中入試は受けないけど

社会だけは私立中入試向けの参考書とか

問題集を使って勉強することにしたら



かなり大変な内容ですが

ストレスは減りました。



覚える単語も多いし、問題も難しいけど


他人のご機嫌を伺いながら

勉強するよりは

ストレス少ないんですよね。



ひたすら、一人でコツコツと勉強するのが

とーんでもなく楽しいし、落ち着く感じです。



これからはどういう風になるか?


今の状態に後で公開する日が来るかも

しれない。


でも、こんなに勉強が楽しく感じた

時期は今で、


今を楽しめば


また未来に立ち向かう力が

手に入ると考えて


今はひたすら自宅での勉強&授業を

がんばりたいと思います。